「神」(『化物怪奇譚』)⑧
* * *
「私がこのような事を言うのも何ですが、この街で起きている”本当”は、常に私たち自身の意思で作り出されているのですよ」
僕が編集部に顔を出した最後の日、つまりは今日、吾平編集長が僕に言った。辻斬り事件で斬り付けられた腕は未だに完治していないようだったが、仕事に支障は来さない程度だという事だった。
「この街は、元々伝承を受容しやすい。例えば、夜の街で妖怪を見た人が居るとしましょう。それは、最初は見間違いでも『大きな発見』として扱われます。それはやがて尾鰭が付き、伝承となって人々に染み付きます。ある種の観念となる訳です。観念は人を支配しやすい。居るはずのないものまで、幻として生み出してしまう。そしてそれは、第二、第三の事例となり信憑性とやらを高める。それが偽りだとしても」
仕事中は寡黙になる編集長だが、その日は珍しく長い話をした。それも、普段のようにすらすらとしておらず、趣旨は全く見えなかった。
「都市伝説の話ですか?」
「いえ、ジャーナリズムの話ですよ」
彼は続ける。
「この街は伝承の多さでも分かるように、それが顕著です。我々は、正確な情報発信に努め、辻斬り事件や血の事件を報道してきました。しかし、以前も述べた通り主観を含まない情報など有り得ない。文化、ジャーナリズムが、私たちの意思が事件に介入していたのだとしたら、それは恐ろしい事です。事件が先か、報道が先かというような、鶏と卵のような話をしたい訳ではありません。ですが、私たちは最も世情を動かしやすい立ち位置にあります。その私たちに、自然的でない意思があらかじめ働いていたのだとしたら、どうでしょう」
吾平編集長は淡々と言う。僕は、一分以上掛けてその意味を反芻した。
芙美さん。主計さん。そして僕。いずれも、人智を超えた何かと接触したと思われる経験を保持する人間だ。芙美さん曰く、「一回死んだ」僕たちは、この不可思議な現状を起こすべくして起こしたのではないのか。編集長は、そう言いたいのか──。
カミが結界を越えるには、領域を突破する何らかの因子が必要だった。そしてそれが、かつて彼らと遭遇した僕たちだった。
──違う。お前の遭遇は”今”だ。
僕の中で、何者かの声が響く。僕は頭を振り、編集長に尋ねた。
「俺は、物書きには向いていなかったという事でしょうか?」
吾平編集長は、眉一つ動かさず、首だけを左右にゆっくりと振った。
「いいえ、木戸君。あなたはとても優秀な人材でした」
「そうですか……」
ほっと安堵の息を吐きながら、僕は時計を見る。時針は、間もなく午後五時を指そうとしていた。そろそろだな、と思いつつ、僕は立ち上がる。
「もう帰るのですか?」
編集長は、ちらりと腕時計に視線を落とす。その表情が、一瞬険しくなった。
僕はオフィスを出ようとし、廊下に誰も居ない事に気付く。いや、廊下どころか、普段なら声の聞こえてくる階下や周辺の部屋すらもしんとしている。社員たちが逃げ出しでもしたかのように、建物全体に人の気配が感じられない。
視界の一画で何かが光った、と思えば、防犯カメラのランプだった。
「確かに、木戸君の仕事は終わっていますね。勤務時間も過ぎているので帰るのは自由ですが、気を付けて下さい。帰る事だけに集中して下さい」
「編集長、心配して下さるのですか?」
「いいえ。私が心配なのは、あなたよりもこの時刻ですよ」
吾平編集長は、何処か本当に不安そうだった。傷が疼いたのか、そっと右腕に触れる。半開きの扉から、生温かい嫌な風が吹き込み、僕の顔を撫でた。
あの麝香のような香りと共に、清冽な森のような潤いのある香りが、一瞬、確かに風に乗って流れてきた。
* * *
黒々と聳える山や森の向こうから夕闇がやって来る時、何となく心騒ぎがする事があるのは、自分が何か大きなものに、世界ごと吞み込まれているような気がするからだろうか。晦冥、人影が街から消え始め、街は息を止められたように静まり返っていく。そんな、人気のない道を歩いていると、ふらりと芙美さんが姿を見せた。
彼女が、木戸君、と俺の名を呼んだような気がした。
芙美さん、ごめん。そう言おうとしたが、口からは壊れた笛のような空気の漏出する音しか出ない。悲しそうに顔を歪める彼女に、俺は右手を差し出した。
刃渡り十五センチのカッターの刃が、夕焼けの光に映えた。
* * *
退社した後、俺は半ば受動的に歩き、矢迅社を訪れていた。俺が行った時には、既にあの般若面の少年が土管に腰掛けて待っていた。
ここ一ヶ月の、忘れていた夕暮れの記憶が取り戻される。
「来たね、木戸」
「……お前は一体誰なんだ? 何故俺に、こんな事をさせる?」
俺は、声を低めて尋ねる。こいつを倒さなければ、と思うのに、いつもの通り体に力が入らず、ブレストポケットに入れたカッターナイフが抜けない。
「要らん横槍が入ったせいで、あの主計では成し遂げられなかった。でも、お前なら出来るだろう、木戸。あの男に怪我を負わせるのも、友人を連れ去るのも、お前は忠実にやってくれた。次が最後だ、あの瓢芙美という女を」
「ふざけるな。俺から……俺から芙美さんまで奪うつもりか。彼女だけは渡さない。お前なんかに、彼女を好きなようにはさせない」
「威勢がいいね、木戸。でもさ、お前にはもうどうしようもない事なんだよ。お前は最早形代に過ぎないんだから」
少年の顔は見えないが、嗤っているのは感じられた。般若面の口から、泡立ったどす黒い液体がたらたらと零れ落ち、足元に濁った油のような水溜りを作る。
「なあ木戸、お前は自惚れていたよな。何度も何度も僕に接触しながら、自分なら僕を抑えられると思っていた。実際は、辻斬り事件は続いていたのに。僕の事を、結局お前は何も知れなかったんだよ。だから、傀儡にされるんだ」
「俺は、まだ生きている」
「まだそんな事を。……木戸、長い夜だったと思わない?」
少年は土管から降りると、俺の肩を包むように腕を回してきた。面の目の穴から、彼の目がはっきりと見えた。ああ、という泣きたいような気持ちで一杯になり、体が虚脱してだらりと背中が後傾した。
「長い夜を何度も越えて、お前が彷徨い込んだ場所は何処だろう? お前はまだ、自分が本当に生きてこの世界に居ると思っているのかな?」
面が落ち、少年の素顔がはっきりと見えた。
* * *
俺の右手のカッターを見た途端、芙美さんはゆっくりと涙を流した。
釣られるかのように、俺の目からも涙が零れ出した。自分が何故泣いているのかも分からないまま、俺は世界そのものを切り裂くように刃を突き出して跳躍した。
だが、その時「芙美ちゃん!」という声が響き、彼女が視界から消えた。前に倒れ込むような姿勢で着地すると、すぐさま誰かに羽交い絞めにされ、体をぐいと反らされる。背骨が割れそうな、腹が裂けそうな程の激痛が走った。
「大丈夫ですか、木戸君?」
俺を押さえ込んだ男は、耳元で大声で叫ぶ。だがその声は、何処か遠い場所から聞こえてきたような気がした。この人は誰だろう、と思った。
「しっかりして下さい。今人を呼びます、私たちが助けてあげますから」
「吾平さん、そいつはもう駄目だ」
別の男の声がする。俺より手前の方で聞こえてきたので顔を動かすと、やはり別の男が座り込み、芙美さんを抱き抱えていた。彼が割り込んだのか、と気付いた。
「野郎、俺の五年前より力を付けてやがる。それで大人しくならないようなら、もう俺たちの手には負えないですよ!」
「主計さん、まずは動きを止めましょう。それから──」
俺は、動物じみた咆哮を発しながらカッターを目茶苦茶に振り回す。スパッという音がして、吾平編集長──俺を押さえ込んだのは、確かに彼だった──の右手から血液が散った。ほぼ同時に、彼の左手が俺の左耳を思い切り殴り付ける。
ごおんという音が頭の中で響き、吐き気と眩暈が襲い掛かって来る。周囲の音が、頭蓋骨の中で反響しているかのように聞こえ、鼓膜が破られたのだと分かる。
俺は緩んだ吾平編集長の右手を掴み、片手で背負い投げの如く前方の地面に叩き付ける。力を入れたつもりはなかったのに、落下した彼の身体は思い切りコンクリートの上で跳ね、動かなくなった。
「畜生……木戸を返しやがれっ」
主計さんは身を屈め、タックルするかのように俺の鳩尾の辺りを狙ってくる。俺も同じ姿勢になり、頭から彼にぶつかって行った。
額が、彼の額とぶつかったと思った瞬間、カッターの柄を同じ位置に振るう。主計さんの頭が割れたような手応えがあり、彼は翻筋斗打って前に倒れた。
主計さんの首の後ろに、刃を滑らせる。血飛沫が飛んだ瞬間、彼の姿が掻き消すように見えなくなった。
二人分の血溜まりだけが残った道路を、俺は芙美さんの方に進み出す。もうすぐ日が沈む、という瞬間で、霞む視界でも彼女の顔が辛うじて認識出来た。
──綺麗だな。
俺は、こんな時だというのに、考えられたのはそれだけだった。
彼女は何度も警告してくれたのに、確かに俺は自惚れていたのかもしれない。この騒動で、誰かが必ず死ぬと決まっていたとしても、それは俺だけで良かった。芙美さんまで巻き込む事はなかった。俺は結局、彼女に何も返す事が出来ないままで。
「好きだよ、芙美さん」
潰れた喉を、音で抉じ開けるように俺は腹の底から声を出した。
芙美さんの目が、大きく見開かれる。同時に、俺は最後の動きをした。
* * *
僕を孤立させるかのように、三つの血溜まりが広がり、境目が溶け合っていた。
誰の姿も見えない。太陽は、山の向こうにぎりぎりその頭頂を覗かせたまま消えずに佇んでいる。あたかも僕だけが、夜との境界に取り残されたかのようだった。
不思議な心細さだった。
祭りの後の、夜道を一人で帰る子供のような。幼い頃、家に帰って誰も居なかった時、人々の流れの中から自分だけが疎外された感じがしたような。
「ありがとう、木戸」
背後から声を掛けられ、俯いていた僕は力なく振り返る。
そこに、般若面の少年が立っていた。質感の分からない面がてらてらと光り、それは僕から夜を奪い続けるように、濡らすようにこちらに降り掛かってくる。
彼の面の、そこだけ野生動物を思わせる磨かれたように白い牙が閃いたと思った瞬間、既に僕は足元の血の池の中に倒れていた。
夕暮れの、心を騒がせる空が目の前に見えた。仰向けになったまま動けないが、温かな液体が僕自身すらも溶かしていくようで、何処か心地良かった。脳すらもそれに溶けていくように、段々意識がぼんやりとしてくる。
もう、頑張らなくていいんだ、と思うと、恐怖は消えた。
消えていく街の黒天に、この夜も化け物が飛行するのだな、と思った。
(神・終)
『化物怪奇譚』第三弾「神」の修正を終えました(2025/12/13)。創作第二期が開始されて最初にnoteに公開した小説です。この連作の中で最恐と一部関係者の間では名高い本作ですが、大学入学以前に書いたものなので、まだ大学生の生活についてよく分かっていない感があります。例えば作中では九月上旬で既に夏休みが終わり、学校が再開しているのですが、私の通っている大学では七月一杯は登校で、九月中旬頃まで休みが続きます。とはいえまあ、この辺りは学校によっても異なると思うので、そこまで目くじらを立てるものではないかな、と。
内容に関してですが、本作の主人公は表題作でちらりと登場した木戸君です。ヒロインは「蜘蛛」で名前のみ登場した瓢芙美さんですが、彼女の名前は「文学」の「文」が由来です。名字の方は「蜘蛛」に登場した蠨子ちゃんの方が最初で、末崎住職が作中で語るように宋代中国で七夕の際に蜘蛛を入れたという「瓢箪」から来ていますが、「化物怪奇譚」の世界線では瓢家に生まれた娘は元から芙美さんだったようです。
また、本作では刑部さんの使い魔の一体に過ぎなかった「般若面の少年」が独自の意思を持って行動を開始しています。しかし、本作で語られる「辻斬り事件」を思わせる記述は既に「蜘蛛」で『小暮民俗資料集』の中に登場しており、過去にも化物の支配する小暮では同様の事が起こっていた事が示唆されています。矢迅社に刻まれている「祁裳盧」は「けもの」と読めるのですが、恐らく百年以上前から、般若面の少年は独立した意思を獲得していたのでしょう。
それからお気付きかと思われますが、この連作には毎度の如く背高草に関する下りが登場します。「風がどうと吹いてきて」というように不思議な出来事が起こり始めるトリガーとなるこの下りは、遡ると本連作を執筆するきっかけとなった私自身の体験談から来ています。ある日、夕方の下校中に空き地の近くで信号待ちをしていた私が視線を感じて振り返った時、そこに三メートル程あるセイタカアワダチソウがぽつんと立っていた、という事があり、その時私は得も言われぬぞっとした気分を味わいました。この出来事をきっかけに、X──当時はTwitterでしたが──の創作界隈に参入した当初、俳句や川柳や短歌を投稿していた私は「晦冥や背高草に生け魑魅」という句を公開し、その後詩作を行うようになってからこの句を基に「化物の宿った背高草に視線を合わせると魅入られる」という設定で連作詩「化物怪奇譚」を書きました。
「神」はその当時から、使い魔に取り憑かれ、子供を異界に連れ去った後自身も使い魔に止めを刺される主人公の死の一瞬、走馬灯の如く過ぎった記憶のような内容でした。本作は土門君のケースよりもそれが顕著であり、冒頭で「芙美さんが見えなくなった」「夜が僕には来なかった」という木戸君の語りがあるのはその為です。
この頃私は、親友同士の友情が崩壊するとか、主要登場人物が全員死亡するなどといった悲惨な話ばかり書いていたような気がしますが、第四弾、第五弾は伝承と共に生きる人々の話になります。当然ながら化物たちは超常的なものではありますが、小暮の人々は確信はないながらも、昔から何となく伝承や民話の形でそれらの存在を知っています。異界の存在とは一体何なのか、伝承と共にある暮らしとはどういったものなのかといった話は、また次のお話にて。




