「神」(『化物怪奇譚』)⑦
* * *
大量の血液を残した失踪事件が二件、辻斬りで背中を深々と斬られて重傷を負った被害者が一人、軽傷者三人が続いて出た頃、九月は下旬に差し掛かっていた。
最後の聖域巡りには僕一人で行った。芙美さんは体調が優れないらしく、編集部のバイトも大学の講義も休みがちになった。原稿が全て出来上がっても作業が先に進めないので、文芸サークルに僕が直接校閲を頼む事になった。
「あんた、氷室が居なくなったって言ったの忘れたの?」
受け渡しが終わり、これから氷室に写真のプリントを頼みに行くと言った時、文芸サークルの女子部員が驚いたようにそう言った。
「居なくなった?」
「一昨日の夕方六時半頃。私らの仲間の男子がさ、氷室を夕飯に誘おうとしたら電話が繋がらなくて。で、寮に行ったら部屋の鍵が開いているのに氷室が居ないって言うんだよ。同じ日に、ほら、あの血だけ残して被害者が消える事件あったから、警察に通報して今写サーの奴ら大騒ぎなの」
「そんな話、俺聞いていないぞ。もう警察は来たのか?」
「だから、木戸君にももう話したでしょ。丁度警察が来て、先輩とかその男子が話している間に私が電話掛けたの。ちゃんと返事してたでしょ?」
女子学生は、訝るように目を細める。その態度は、嘘を言っているようには見えなかった。僕は記憶を必死で辿るが、何も思い出せない。
氷室が居なくなった事が判明したのが六時半過ぎだとすると、警察に通報して実際に刑事が派遣されてきたのは七時過ぎくらいか。その時、僕は何をしていたのだったか。芙美さんが編集部に来ないし、僕も引き受けていた仕事は早く終わらせたので、アパートの部屋で写真を見直すか原稿を書いているかのどちらかだったはず。だがそれは最近昼夜同じなので、的確な記憶かと問われると自信が持てない。
「その電話の時さ、俺どんな反応してたか覚えてるか?」
動悸を抑えながら、僕は声を低めて彼女に尋ねた。
「心ここにあらず、みたいだったよ。ああ、とか、へえ、とか、曖昧な相槌を打つばっかりで。心配だな、なんて事も言わなかった。ま、昔からの友達がいきなり消えたら、そんな感じになるのも当然だろ、とは思ったけどね。……っていうか、本当に何も覚えていないの?」
「……警察とは、どんな話を?」
「直前に例の血の事件があったから、関係がないか調べるって。氷室君、部屋も綺麗にしてるし照合する為のDNAの採取に大変だって、刑事が彼の部屋のゴミ全部持って行っちゃった。結果はまだ来てないけどさ」
僕は何も言えず、ふらふらと踵を返した。「あれ、何処行くの?」という女子学生たちの声が聞こえてきたが、返事はしなかった。
キャンパスを出て彼女らの声が届かなくなると、心なしか敷地内で活動している運動部の声や、たむろして雑談に耽る学生たちの声も遠ざかった気がした。太陽は西の空に傾き、大学の裏に出ると既に通りは夜に移りつつあった。
僕を驚かそうとするかのように、突然最初の街路灯が点いた。
怪物のような大きな影が僕の足元から伸び、並んで歩き出す。目の錯覚だろうか、その影の頭の辺りが一瞬うねるように波打った。
* * *
『お前、瓢さんに何かしたのか?』
翌朝、僕は立て続けに鳴り響いたメールの着信音で不快な覚醒を遂げた。送り主は全て写真サークルの男子学生で、受信ボックスには同じような文面がずらりと並んでいた。その全てが、何だか僕を責めているような書き方だった。
中の一通に、写真ファイルが添付されたものがあった。早く全てを見終えて返信を済ませてしまおう、と考え飛ばそうとしたが、すぐに思い直し、やや躊躇った後にファイルを開いた。
途端に、僕は背後から刺されたかのように心臓が大きく跳ねた。いや、跳ねようとした心臓を突き刺されて、胸郭に縫い止められたように思った。
写真は、市内を流れる百々目川を、橋の上から撮影したものだった。街の灯りが少ない分自然光が映えやすい小暮の月に照らされ、蒼白く浮かび上がった川の中州のような場所に芙美さんが立っている。彼女は白く長いシャツ一枚きりで、頭から川の水を被って空を仰いでいる。写真サークルの精度の良いカメラで撮影したのか、苦悶に歪む表情と、溺れるように口から泡を吹く彼女の表情までがはっきりと見えた。
僕はスマートフォンを取り落とした。床に角が辺り、カバーガラスに亀裂が入る。
それを拾う間もなく、部屋着の上からコートとジーンズを身に着けると、僕は部屋を飛び出して駐輪場に走った。
* * *
芙美さんの家に着くと、失礼に当たる事も気にせず呼び鈴を連打した。
「同級生の木戸です! 芙美さんを呼んで下さい!」
左手で呼び鈴を、右手で扉を叩きながら、大声を上げる。粘度の増したように感じられる悠長な十数秒の後、扉が開いて芙美さん本人が顔を見せた。
「木戸君……何があったの?」
「どういう事なんだ、芙美さん。昨夜、百々目川で何をしていた?」
僕は、飛び掛かるような勢いで彼女の両肩を掴んだ。
「……サバキ。イタコのする、憑き物落としの為の水垢離」
「憑き物って……」
僕は絶句した。彼女は、嘲笑うかのような冷たい表情になる。
「私たちは一回死んだんだよ。境界を越えてしまったから」
「違う。俺たちは今、生きているじゃないか」
「違わないよ。私、知っているの。あの怖いお面を被ったカミが、今でも街を歩き回っている事を。昨日の夜は、木戸君がそれと話していた。あんなのと真面に話せる人間なんて居ない。木戸君はもう、木戸君じゃなくなっているんでしょう?」
「芙美さん、しっかりしろ。俺は俺だよ」
「じゃあ、私が昨日あの森で見た木戸君は誰なの?」
僕は、昨夜の記憶を思い出そうとする。森、とはあの辰巳の森の事だろうか。昨日の夕方は、大学を出た後真っ直ぐアパートに帰ったはず。辻斬り事件の件数が急激に増大している為、出歩いている人の姿は全くなかった。
部屋に帰ると、氷室が失踪した事に茫然自失となり、ベッドに倒れ込んで暫らく何も考えられなかった。仕事も全て終わり、何もしなくて良い時間だったので、三十分以上はそうしていた。
時計の針が五時半を回った時、誰かが部屋の扉をノックした。インターホンは鳴らず、声も掛けられなかったが、僕は行かなければならない気がして、返事をしながら玄関へと足を進めた。
それから、僕はどうしたのだったか。
「私たち、本当に色々な場所に行ったよね。何回も、何回も境界を越えて、私たちが戻ってきた場所は、本当に”ここ”なのかな? 私たちは何処から来て……何処に行ってしまったのかな?」
僕は、どうしたのだったか──。
「俺の目を見るんだ、芙美さん!」
滞り、悪性の何かに変わってしまいそうな空気を押し退けるように、僕は言った。
芙美さんは、肩に置かれた僕の手を両手で握りながら、僕の目を眼鏡のレンズ越しに覗き込んできた。
そして、悲鳴を上げた。
「やめて! 来ないでよ!」
「何で……俺が、どうしたって言うんだよ……」
「お願い……お願いだから、これ以上私を殺さないで……カミサマ」
鋭い錐で、胸の中心を一突きされたかのような鈍痛が背中に抜けた。僕は無言で振り返り、自転車に跨って芙美さんの家を後にした。彼女の啜り泣きがいつまでも背中に染み付いて取れないような気がして、振り切るように思い切りペダルを漕ぐ。
走っているうちに空が曇り始め、秋に似つかわしくない、湿り気のある陰惨な空気が体に貼り付いてきた。雨が打ち付けるように背中が重くなり、何者かの息遣いを耳元に聞いた。それは僕の項に顎を乗せ、「ねえ」と口を開いた。




