「神」(『化物怪奇譚』)⑥
* * *
「さっきはごめんね、変な事言って」
芙美さんの肩に腕を回して支えながら暫らく歩いた時、彼女がやっと口を開き「そんなに抱き付かなくていいよ」と言ってきたので、僕は慌てて手を離した。そんな僕の様子がおかしかったのか、彼女はそこで初めてくすりと笑った。
「気持ちは分かるよ。神隠しと神憑りが同時に起きた、なんて言ったのも、芙美さんのお母さんだろ? そんな事ずっと言われてたら、嫌でも染み付いちゃうよ」
「木戸君は、そういうの信じる?」
「妖怪とか民間伝承とか、本当にある話だったら面白いな、とは思うよ。でも、結界を越えてきたカミが一般市民に対して辻斬りを行いました、なんてのは勘弁」
「そうだよね。……でもね、私はそういうの、少しは信じちゃうんだ。お面を被ったような、とか、化け物、とか、昔から知っているから」
芙美さんはそう言うと、突然立ち止まった。僕も釣られて立ち止まり、何事かと辺りを見回して、自分たちが辰巳の森に来ている事を悟った。この間僕が歩いた細道に続く森の道が、ガードレールの途切れ目から口を開けている。秋の日は釣瓶落としとは昔から言うが、辺りは既に暗く、森の入口は木々同士の輪郭が溶け合って黒々と泥み、あたかも全貌が見えない巨大な怪物が大きく口を開いているようだった。
「ここを抜ければ少し近道になるんだよね。いつもは、暗くなってから通るのが怖くて普通の通りを歩いていたけど。木戸君と一緒なら大丈夫かな?」
芙美さんは、少し上目遣いに僕の顔を覗き込む。僕は少し逡巡したが、この先には量仁寺もあるようだし、何か危ない目に遭いそうになったら走って抜けようと腹を決めて肯いた。それに、芙美さんに頼られているのだ。男を見せなくてどうするのか。
森の中に踏み込むと、彼女は「それで」と話を戻した。
「主計さんの言っていた化け物、私小さい時見た事あるかもしれないんだ」
* * *
「小さい頃、鶴野神社に行ったって話はしたでしょ? それはまだ幼稚園児だった頃の初詣の時だったと思うんだけど、人でごった返していたのは覚えている。はぐれないように、ってお母さんと手を繋いでいたのに、人波に揉まれているうちにその手が離れちゃったんだよね。
私、地域主催の大勢の人が集まるお祭りとかって苦手なんだ。それは多分、この出来事があったからなのかもしれない。トラウマに近いのかな。
そうして結局はぐれた私は泣きそうになりながら、お母さんを探しやすくなるように人の流れから離れて誰も居ない場所、神社の裏の森の方に行ったの。落ち着いたら境内まで戻ろうと思って。そしたら、いつの間にか社殿が見えないくらい深い場所、苔生して光る羽虫が飛ぶような森の中に入っていてね。まるで……さっきまで人の世に居た事が、嘘なんじゃないかって思えるような場所だった。
戻らなくちゃと思うのに、自分が何処から入ってしまったのかも分からなくて、歩けば歩く程迷いそうで怖かった。もう帰れないのかな、なんて思った時、そこで男の子に会った。小さかった私から見たら大人みたいだったけど、今思い返せばまだ中学生か小学校五、六年くらいの子供だったんじゃないかな。
顔は分からなかった。その子、縁日でよく見るようなお面、地域行事で大人が子供を脅かす時に被るような鬼のお面を付けていたから。初詣をお祭りと間違っているんじゃないか、なんて思う前に、小っちゃい私は本物のお化けに会ったんだと思って怖くなった。でも、男の子は優しい声で話し掛けてくれた。
『こんな所でどうしたの?』って。私が最初から泣きそうな顔してたから、何があったのかはすぐに分かったみたいだった。
『迷子になっちゃったの』って言ったら、その子、一緒に探してあげるよ、って。独りじゃ心細かったから、私は何だか嬉しかった。もし男の子が本当に鬼だったとしても、昔話に出てくるような悪い鬼ばっかりじゃないんだ、って思った。
その子に手を引かれて歩いて行くうち、森はどんどん深くなっていった。時の流れが逆行しているみたいに、植物が現代の日本じゃ有り得ないような巨大なものに代わっていって、遠くから聞こえていた参詣の音も、どんどん聞こえなくなって。不安になった私は、何度も男の子に『この道であっているの?』って尋ねた。その度に彼は大丈夫だよって、私を励ましてくれていたんだけど……私が十何回目かの問いを発した時、突然足を止めた。
甘くて粘っこいような、いい匂いなんだけど喉が痛くなるような香りが漂った。あれは何て言うのかな、麝香臭というか、間違いなく天然のものなのに、私が知っている自然のものではないような匂い。それが、空気の澄んだ森に突然匂い出して。男の子の肩が、びくびくと痙攣し始めた。
私は、彼が笑っているんだと思った。だけど、そうじゃなかった。お面の口の部分から、泡立った黒っぽい液体がぬらぬら零れ落ちて、男の子は苦しんでいるみたいだった。それが私の顔に撥ねた時、私は何かを悟って真逆の方向に駆け出した。
途中で気付いたら、お母さんが私の手を掴んで少し先を走っていた。振り返ったら駄目、と言われたから、私は一生懸命前だけを見た」
* * *
「私はあの時、木戸君の言う『神域』に足を踏み入れたんだと思う」
芙美さんは、僕に言うと同時に自分にも言い聞かせているようだった。暮れかかった太陽光を遮る木々の葉が不意にざわめき、細道に幽霊のような陰影を映す。僕の影だけが、やけに大きかった。
「主計さんだってそう。般若のお面を被った不良少年と会った時、何かこの世ならざる何かに接触した。だから私たちは、カミに近い場所に居るの」
「芙美さんは、カミを信じているんだね」
「小暮には、化け物が居るんでしょう?」
──この街にはな、化け物が居るんだよ。
いつか自分の言った言葉が蘇った。僕が固まっていると、芙美さんは袖を引きながら「ほら」と路傍の草叢を指差した。
「そこに、化け物が座っているでしょう」
僕は思わずそちらを見る。やはり、それは居た。最初に出会った日から、ずっと僕に着いて来ているような気がした。魅入られたようにそれを見つめる芙美さんに、僕は「いけない」と声を掛けた。
「駄目だ芙美さん。これ以上関わるな。あれは俺だから何ともないんだ。芙美さんや主計さんがどうにか出来るものじゃない」
「木戸君なら、何とか出来るって言うの?」
僕と彼女は、視線を交差させる。化け物の姿が、ふっと消えた。
やがて、芙美さんは囁くように言った。
「今の木戸君は、あの森と同じ匂いがする」
僕が何かを言う前に、彼女は僕を残したまま駆け去って行った。




