「神」(『化物怪奇譚』)⑤
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傷害事件の件について、主計さんは嫌な顔をする事が多かった。最初は僕たちと同じように、一般的な気持ちで事件を恐れているのかと僕は思っていた。だが、吾平編集長の話を聞いて得心が行った。
夜道で、刃物によって人を傷付けるという行為。それは、かつて主計さん自身が行おうとした犯行に似ている。彼にとっては、嫌な思い出を蒸し返すようなものに感じたのだろう。積極的にこの件を報道し、住民に警戒を呼び掛けているのもそのせいに違いないと僕は思った。
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「矢迅社っていう場所には行ってみたか?」
吾平編集長と芙美さんと二回目の聖域巡りをした翌日、オフィスでその話をすると主計さんが言ってきた。「俺も行きたかったなー」などと当て擦りのように呟きながら芙美さんを見るので、僕は若干の優越感を感じたりもした。
「矢迅?」
「お稲荷さんみたいな、百葉箱くらいの小さい社だよ。小暮市立杷奔中学校の裏通りの、居酒屋の裏の路地裏を進んだ先にあるんだ。神獣を祀っているとか何とかいうけど、歴史書にも地図にも殆ど載ってねえ。まあ、紹介したところで何だっていう場所ではあるけど、コラムには丁度いいんじゃね?」
主計さんによると、居酒屋裏の路地は行き止まりで三方を建物に囲まれているのだが、二戸は元々倉庫で現在ではテナント募集中であり、残り一戸は空き家になっているそうだ。だから、その陰に隠れた矢迅社も殆ど知る人が居ないのだという。
「そんなとこ、主計さんよく知っていましたね」
「俺の不良時代、頭だった奴がよく俺たちをそこに集めたんだよ。あいつもまだ学生だったらしいしさ、顔見られると困るんだかいつも般若の面を付けているような奴だったんだよな。そんな奴だから、目立たねえ場所を根城にしたかったんだろ」
主計さんは、少しバツの悪そうな顔をした。
「今思い返せば、何か嫌に気味の悪い奴だったな。俺が訪ねればいつでもそこに居るのに、裏の情報については異様な程知っていた。他の仲間たちにも分け隔てなく優しくしてやっていたのに、皆あいつを恐れているみたいだった。いつ、見放されるか、裏切られるかって怯えていたようにも見えたな。あれは……言ってみれば、よくよく注意して見ねえと分からねえような、奴隷と使役者の主従関係にも似てたな」
渋柿でも齧ったかのように顔を顰める彼を見ながら、僕は納得する。最終的に、主計さんの親しくしていたこの社の人をナイフで切り裂くように本人に命じたような人間だ。思い返して悪い印象だけが目に付くようなのも肯ける。
勿論、この話は吾平編集長に聞いたとは言え主計さん自身はあまり語りたがらない事柄だ。僕から、知っているような事は何も言わなかった。
「ところで、木戸よ」
彼はまだ何かぶつぶつと独りごちていたが、不意に再び僕に話を向けた。
「お前さ、化け物と動物の中間みたいなやつ知らねえか?」
「何ですか、それ?」
何故か分からないが、ぞくりという悪寒が体幹を駆け上がった。
「森とか山とか、道の脇の草叢とかに居るんだ。平べったくて長くて、首から先の頭が切られたみたいに真っ平らなやつ。鬼みたいな顔している」
「カミ……じゃ、ないですよね?」
「ちょっと木戸君、やめてよそういうの」
つい、この間芙美さんの母が怖がっていると聞かされたものの名前を言ってしまった。ごめんごめんと謝りながら、僕は芙美さんの方を振り向いた。
彼女の顔が、何だか青白く引き攣っているように見えた。
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主計さんが描いて渡してくれた読みづらい地図を頼りに、僕は取り敢えずその「矢迅社」というものがある場所まで行ってみた。新人戦のシーズンも近づき、放課後になった杷奔中学校からは部活動に励む中学生たちの声が聞こえてくる。
中学校のみが外界から隔離されているかのように、または外界が別の世界だとでも言うかのように、裏通りはしんと静まり返っている。居酒屋やスナックのような店が並んでいるので、元々夜になると賑わうのかもしれない。
その場所まで続く路地裏は、換気機器や段ボールなどが建物の壁に立て掛けられ、泥酔者の吐瀉物でもあるのか酷く饐えた悪臭が漂っていた。淀んだ空気に辟易しながら進んで行くと、行く手に土の敷かれた小さな空き地が見えてきた。
確かに、稲荷社のような小さな社がある。三方を建物に挟まれている為薄暗く、秘密の場所、という感じがして、確かに悪い子供たちが集まるのにうってつけの場所のように思えた。漫画でしか見た事のなかった、積み上げられた土管のせいで神聖な雰囲気もない。
社に何か文字でも彫ってありはしないか、と僕は目を凝らす。風化し消えかかった「祁裳盧」という字が辛うじて見えるだけで、意味も読みも全く分からない。これではコラムにするにも何も書きようがないな、と諦めて引き返そうとした時、僕ははっと気付いて土管の上に視線を向けた。
辰巳の森で目撃したものと同じ化け物が、そこに座っていた。
甘ったるく、喉の奥がヒリヒリしてくるような匂いがぷんと漂った。
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傷害事件に進展があったのは、その日の夜だった。
翌朝のニュースによると、昨夜帰宅中のサラリーマンが帰り道で、歩道に血の池が広がっているのを発見した。通報を受けて警察が調べたところ、現場に残っていた血は四リットル近くで、固まったような痕もなかったという。その血の海の中に、ある高校の校章が描かれたネクタイがあり、生徒の名前が記されていた。家に連絡を取ってみたところ、夜十時頃塾から帰る予定のその生徒が帰宅していない事が分かり、DNAを検出して母親のものと照らし合わせた結果、血の持ち主は血縁者、つまり生徒本人だという事が明らかになった。
四リットルの出血があれば、間違いなく被害者は死亡している(人の血液は体重一キロにつき八十ミリリットルの割合で存在する)。だが、現場からは被害者の死体も、それが運ばれた痕跡も一切見当たらなかったそうだ。
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同日、吾平編集長が襲われた。その日も僕は芙美さんを家まで送り、主計さんと他数人がオフィスに残り、編集長は子供を迎えに行ってからオフィスに戻る、という流れだった。ので、その話は翌日主計さんから聞く事になった。
「吾平さんが駆け込んできたからビビったわ。右腕がざっくりやられてんの。いつもの口調で『やられました、主計さん包帯を巻いて下さい』なんて言って。動脈は切られなかったらしいから安心しろって言ってたけど。こっちに来る途中の道だから七時ちょっと前じゃねえかな、今までの犯行の中ではいちばん早い時間だ」
「通報はしたんですか?」
「あの人の事だ、斬られた瞬間したらしいぜ。その時はまだ血もそんな出てなかったらしくて、大した事ないと思ってたみたいだ。110番している最中に血が流れてきたから、そのままオフィスまで走ってきたんだとさ」
そんな事があったからだろうか、編集長は「大した事はない」と主計さんにも言ったそうだが、今日は出社していなかった。彼の事だし、本来なら出社しようと思っていたところを奥さんに止められるか何かしたのだろう。
「警察が来て、話しているの聞いたんだけどよ。吾平さんがあんな事言うの初めて聞いたわ。逃げていく犯人の動きが、人間じゃないって言うんだ。黒いコートを着ていたのか、日が短くなった今じゃはっきりは見えなかったらしいけど、すげえ低姿勢で殆ど四つ足だったんだと。で、くねくね動きながら進んで、いきなり消えたと」
「人間じゃ、ない……?」
神憑り、という言葉が思い浮かんだが、口にしたらまた芙美さんに睨まれそうなので僕は言わなかった。だが、僕が言葉を探している間に彼女自身が言った。
「主計さん、この間化け物がどうとか言っていなかった? あれって、今回の辻斬り事件に関係ある?」
「は? 芙美ちゃん、何言ってんだよ?」
主計さんが、戸惑ったように顔を彼女に向ける。だが芙美さんは、はっとするようないつにない真剣な表情で彼を見据えていた。
「私のお母さんが言うの。夕暮れは魔の時間だって。犯人には、カミが憑っているって。主計さんはもしかして、もうそのカミに会っているんじゃないの?」
「ちょっと、芙美さん……」
僕が間に入ろうとしたが、彼女はそれを手で制して続けた。
「木戸君も言っていた。カミの渡る結界を構成するものは、自然のあちこちにあるって。私たちは、もうとっくにそれを越えてしまったと思わない? 辻斬りと同時に起きた神隠し、そして犯行が集中する夕暮れから夜の間……私たちは今、カミに最も近い場所に居る」
言い終わると同時に、彼女は貧血を起こしたかのようにふらりとよろめいた。僕と主計さんは殆ど同時に立ち上がり、左右から彼女の体を支える。
「芙美さん、疲れているんだよ。今日はもう帰った方がいい」
「でも……」
「主計さんも主計さんですよ。ただでさえ怖い事件です、オカルト的な意味で怖い事まで、あんまり大きな声で言わないで下さいよ」
僕が言うと、主計さんは「だってよ」と少々口籠る。
「カミに、もう会っているか……まさかな。そんなはずは──」
「主計さん?」
「ああ、もう。俺だってよく分かんねえよ。おい木戸、お前芙美ちゃんを送ってやんな。一人歩きに気を付けろってのは犯人が何であれ変わんねえだろ」
彼は、羽虫でも追い払うように手をパタパタと振る。だが、そんな彼の表情も、何処かいつもより強張っているようだった。
主計さんも芙美さんもどうしたんだよ、と思いながら、僕は芙美さんの肩を支えたままオフィスを出る。気分が優れないようなので、一階のロビーで少し休むかと提案もしてみたが、彼女は首を振った。
そう言えば、夏の終わりに命を落としたサークルの仲間は、動物に首筋を噛み切られて死んだと言っていたな、と思い出した時、自分の中であの化け物が宙を飛ぶように身をくねらせたのが分かった。




