「神」(『化物怪奇譚』)②
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二年生の初秋の出来事を話す、などと言いながら前置きが大分長くなった。
企画に参加するに当たり、僕はまず大学に顔を出して長い事会っていなかった写真サークルの友人たちや、文芸サークルの主催者たちに挨拶しに行った。
「木戸、お帰りー!」
活動部屋に入ると、氷室を中心とする友人たちが手を叩きながらそう叫んだ。
「やあ、皆元気にしてたか?」
「俺たちはな。活動もまあまあ順調。お前が居ないのはちょっと困ったけどさ。木戸は俺たちの中では看板だったし、このサークルが有名になったのも木戸のお陰だし。これから復帰出来るのか?」
「少しずつになるけどな。こっちの仕事にも一段落付けたら戻るよ」
僕は返事をし、友人一人一人と久闊を叙し合う。そんな中、一人の友人の姿が見えない事に気付き、氷室に尋ねてみた。すると、その友人が今年の夏休みの終わりに亡くなっていた事が明らかになった。
「帰宅中に動物にやられたらしいんだよ。喉に噛み痕が残っていた。この街じゃ起こり得るし仕方ないって言ったらそうなんだけど、可哀想にね……」
氷室が言った時、仲間たちは揃って沈痛な表情を浮かべた。
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ガイドブックに最初に載せる場所は、市境に近い鶴野神社という場所になった。
僕たちは聖域の案内について、神社、寺院、民間伝承のある神聖なスポット、禁域の山や森の周囲、という順番で書く事を決め、ここは最初の場所だった。元々小暮市内の神社は、市外に本社のある神社の摂社を除けば、この鶴野神社と加苅神社という二社があったのだが、後者は二十年程前落雷により全焼し、今ではもうない。
僕と芙美さんは大学前の駅で待ち合わせ、市の外れまで時間を掛けて移動した。こうなると最早、傍目には逢引きとしか見えないだろう。
「神社の鳥居は神域の境界線なんだよね。特に鶴野神社の鳥居は二重になっているし大きいし、小さい頃に一回お母さんに連れて行って貰った事があったんだけど、怖かったなあ。やっぱり、小暮市民の遺伝子なのかもね」
市境で下車し、駅前からバスに乗って神社の名が付けられた「鶴野前丁」というバス停留所まで移動。そこから徒歩で神社に向かう間、芙美さんがそう言った。
「鳥居とか境界を跨ぐ時ってさ、彼岸に渡ったみたいな不思議な感じしない? 行ったら戻れなくなるんじゃないか、みたいな不安感って言うか」
「伏見稲荷大社の千本鳥居なら、小学校の夏休みに俺も親に連れて行って貰った事あるよ。その時芙美さんと同じ事思ったっけな」
小暮市民の遺伝子、か。確かに、それも有り得る考え方かもしれない。
小暮市は自然が豊かな街で、現代では珍しいが、民間伝承とも言える怪談もかなり多い。山や森が隣接している事もあり、時折街中にも猿や狸、鹿などが紛れ込む事がある。だが、自治体は害獣としてそれらを駆除したりはしない。無論住民に被害が出たら大事なので、その場合は警察が出動したりして捕獲には当たるものの、出来るだけ殺しはしないという。穏便に捕まえて、元居た山に返すだけだ。
小暮には民間伝承が多いとも話したが、代々受け継がれてきた伝統と観念は、常識という知識だけで完全に上書きされるものではない。
古い文献によると、この辺りの獣は日本の中でも平均的にかなり大きく、昔は神々として敬われていたものもあったらしい。超自然的なものをそのように受け入れがちなこの街で昔から継承されたルーツのようなものが、僕たちの中にもあるのかもしれない。無論、遺伝子が自分の全てを支配しているという考え方は好きではないが。
「神隠し、って聞いた事あるよね?」
芙美さんが続ける。その言葉には、少し遠慮がちな響きが含まれていた。
神隠し。子供などが忽然と姿を消す現象。それは否が応でも、八月頃から小暮市内で発生した子供の連続失踪事件を思い起こさせる。確か芙美さんの友達だった女子大生も、夏休みの終わり頃に失踪してしまったんだよな、とふと思った。
だが彼女の声に、その話題を暗に回避しようとするような色を感じて、僕もそれに従う事にした。
「知っているよ。確か古神道だと、神域の境界を跨ぐ時に起きるって。行方不明者は現世とは違う神域を通って、異界に消えるんだって」
「へえー、木戸君、詳しいんだね」
芙美さんは感心したように言う。実のところ、僕はこの手の話は昔から大好物だった。日常のすぐ隣に不思議な世界がある、という考え方に幼い心が躍ったのだろう、この街に化け物が潜む、という伝承も、怖いというより興味深かった。
「神社の柱連縄なんかはまさにそういう結界なんだ。神奈備、神籬、磐座、磐境は簡易領域を形成する重要な因子で、悪神や悪霊が行き来出来ないようにしていたんだってさ。でも、その境界を越えられるのは神霊だけじゃない。人間も、その領域の境界を越えてしまう。それは、現世から死の世界である幽世に踏み込む事になる」
「じゃあ、神隠しに遭った人は死んじゃうの?」
「地域によっては、ひょっこり戻って来たりもするらしいな。神隠しに遭いやすい体質っていうのもあるらしいし、それが霊感に近いものなら、むしろそういうものに対しては抗体みたいなものなんじゃないか。多分、一瞬死の世界を見るだけだよ」
「でも私、死ぬのは怖いよ。というか、生き物なら死の回避は凄く基本的な本能だもんね。鳥居を潜る時少し怖くなるのは、やっぱり神隠しを恐れるからなのかな」
それも有り得る。だが、僕はもう一つ鳥居に関しては思う事がある。
古代日本で信仰されてきた神に、荒覇吐と岐というものがある。前者は日本神話には登場せず、東北から関東にかけて信仰されていた謎の神で、「脛巾」、足や下半身に関する神格を持つと考えられている。後者は豊穣神であり、また厄除けや道祖神としての神徳も持っている。
アイヌの古い言葉で「アラハバキ」「クナト」は生殖器を表し、本来二神で一つの神だったという。そして鳥居は、その産道を表している、という説もある。鳥居を潜る時、境界を跨いだ者が生まれ変わるという意味があるのだ。鳥居を境に、古い自分という形が壊れ、新しいものになる。そう考えると、「形」という字を構成する成分の左側に鳥居が使われているのも肯ける。
神域の境界を渡る時に起きる神隠し。その際、確かに僕たちは一回死んでいる。
「もう一つ、神隠しが起きる要因があるよね」
芙美さんの声が、怪談でも語るかのようにおどろおどろしいものになった。
「文字通り、神様が隠しちゃうんだよ。天狗攫いみたいなものでしょ」
「化け物の仕業って事?」
「私が知っていた神隠しは、そっちの方なの。そうなったらもうおしまい。消えた人は戻ってこないし、化け物に食べられてしまう。私たちは、その人が死んだって事すらも分からないけど、それこそがもうその人がこの世に居ない証なの」
「いつまで待っても来ぬ人と死んだ人とは同じこと──」
そう言えば、失踪した子供たちはまだ帰って来ないんだよな、と思った。
神域に入り込むと一回死ぬ、という話は芙美さんにはしない方が賢明だろう。
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芙美さんとのデート、もとい聖域巡りは順調に進んだ。
写真も久しぶりに満足の行くものが撮れたし、周辺の交通情報やカフェや食堂なども把握出来た。また数ヶ所では地元の有識者に取材をする事も叶った。こんな時の為に、主計さんに取材のコツを教えて貰おうかな、と僕は考えた。
「予算の殆ど、私たちだけで使っちゃうかもね」
彼女は悪戯っぽく小さく舌を出して笑った。
「でも私、着いて来る意味あったかな?」
「あったよ。俺地理に弱いし、インタビューとかも芙美さんが居てくれた方がやりやすいし、出来れば次回以降も一緒に来て欲しい」
夕方、大学前の駅まで戻ると、僕たちはそこで解散になった。帰り際にこんな会話があり、僕はこれこそ彼女をデートに誘っているようなものじゃないか、と少し気恥ずかしかった。
知ってか知らでか、芙美さんは嬉しそうに笑った。
「ありがとう。楽しかったよ、また一緒に行こうね」
僕はそんな彼女を見ながら、大学に戻ってもいいかもしれないな、と思った。
アパートへ戻る帰り道。頭の中で今日集めた情報から原稿の下書きの構想を練りながら歩いている時、僕は不意に何者かの視線を感じて振り返った。
だが、そこには人影にも似た背高草が、斜陽を背に、濡れたような影を黒々とアスファルトの上に伸ばしているのみだった。




