「神」(『化物怪奇譚』)①
古くからの街並みが至る所に点在する地方都市、小暮市。杜の都と呼ばれる仙台でも、既に人々は姦しく忙しない日々の営みに追われ、昼夜の区別はなくなりつつあるというが、この街では未だに夜は静寂を連れて来る。
黒々と聳える山や森の向こうから夕闇がやって来る時、何となく心騒ぎがする事があるのは、自分が何か大きなものに、世界ごと吞み込まれているような気がするからだろうか。晦冥、人影が街から消え始め、街は息を止められたように静まり返っていく。そんな時、僕は心地良い高揚と共に、抗うように外に出て行く。
彼女が──瓢芙美さんが見えなくなったその日の夕暮れ、この街でなら誰にでも分け隔てなく訪れるはずの夜が、僕には来なかった。
* * *
友人の氷室征紀から、「小暮聖域ガイドブック」の制作を依頼されたのは、夏休みが終わって秋の初め頃、九月上旬の事だった。
「木戸君はまだ夏休みなんだよね。いいなあ」
中学校時代から同級生で今でも同じゼミの彼は、アパートにやって来るなり一言目にそう言った。
「俺だって好きで休学している訳じゃない。それにお前が思っているような高等遊民的な生活はしていないつもりだぜ」
「分かっているよ。書き物始めたんだろ? だからこうして僕が頼みに来たんだ」
身の上を簡単に説明しておくと、その秋の時点で僕は大学二年生で、しかも休学中だった。大学は小暮農商連携大学で、入学当初から写真サークルに所属していたが現在では訳があって距離を置いている。
休学に入ったのは二年に進級して間もない頃だが、それからいわゆる「引き籠り」のような生活をしていたのかと問われれば、断じてそうではない。
僕の撮影した写真は学校誌に掲載されて地域の人にも見られ、それと同時に掲載した複数のエッセイも市内で評判が立った。すると、アルバイトで地域広報紙の編集部に加わっていた、同級生の瓢芙美さんがそれに目を付け、学生の書いたエッセイを掲載するコーナーに、木戸君の文章を写真と一緒に載せてみないか、と誘ってきた。これは彼女の独断ではなく、休学に入って煮詰まりつつある僕を見かねたサークルの顧問の先生が、僕に何かをやらせてみよう、と考えたのが始まりだったらしい。
それに始まり、僕は知らぬ間に芙美さんと一緒に「小暮新報」に加わり、広報紙に文章を寄稿するようになった。
こうなると最早写真がメインなのか、文章がメインなのか分からないが、芙美さんは大いに喜び「木戸君にこんな文章力があるとは思わなかった」と言った。僕も褒められて悪い気はしないので、その後エッセイに始まり、書評、観光スポットの紹介記事やレビュー、果てには近所のカフェを舞台にした掌編小説にまで着手し、今や去年では予想も付かなかった文学青年となった。
「芙美さんのお陰で、大学とも絶縁せずに済んでいるんだろう? このガイドブックを文芸サークルで出版するから、ヒットすれば木戸君は有名人になれる。学校にだって戻りやすくなるだろ?」
氷室は、企画書を僕の前に並べてそう力説したが、僕は最初断るつもりだった。
「生憎俺は今三つも原稿を抱えているんだ。本職の作家でもないんだし、これ以上は無理だよ。それに大学に戻るも何も、小暮新報のお陰で俺は、大学じゃ学べないような事を学んでいる」
「全く。それなら最初から大学に来なけりゃいいじゃないか」
氷室は言いながら「この通りだ」と両手を合わせてきた。
「頼むよ。君しか頼める人が居ないんだよ。それにこれは僕だけの意見じゃない。芙美さんは元々文芸サークルから出た人で、あの人が木戸君に任せたいって言っているんだ。上手く行けば写真サークルとの繋がりも強まるし、木戸君だって本当は戻りたいって思っているんだろう。彼女の顔を立てるつもりでさ。なあ?」
「芙美さんが……」
僕は少し考えてみた。実際話を聞いてみると、企画内容の「小暮市内の寺社仏閣や禁域とされる森、伝承の地を回り、写真と共に歴史にまつわる小話やアクセス情報を書いたり、名物やイベントなどをレビューする」というものは、僕が今までかなり行ってきた事と近く、確かに適性は僕にあるように思えた。それに、これなら書き物のついでに市内の名所を回って息を抜く事も出来る。
結局僕は引き受け、十月上旬までに最終稿を終わらせ、文化祭で販売する、という手筈になった。無論サークルと連携もせねばならないので、時折学校にも顔を出すようになる。
そして、芙美さんが一緒に聖域巡りに付き合ってくれる事になったのは、僕にとって最も嬉しい誤算だった。
* * *
この初秋の出来事を語る上で、芙美さんの存在を抜きにしては話は成立しない。
彼女は僕と同じく小暮を地元とし、今でも実家から大学に通っている。生まれつきだという艶やかな栗色の髪を持ち、知性を感じさせる黒縁眼鏡を掛けた彼女は、今までも授業で何度か一緒になった事があったのだが、最近交流が増えてからは、何故今まで意識しなかったのだろう、と感じるようになった。
ゼミでは僕が一年生で最初に友達になった男子学生と同じだったようだが、僕が初めて彼女と面と向かって話したのは、まだ今よりずっと青雲の志に満ち、青春と呼ばれる最後の時代を謳歌しようとしていた一年生の今頃だった。
文化祭で、僕は「大禍時」という題で、鳥居と黒々とした森が夕焼けを背にして佇み、その上空に龍がとぐろを巻いているような雲が逆光で漆黒に染まっている、という風景写真をサークルの展示に出した。これは、地域のコンクールで大学から大賞にノミネートされ、最終選考まで行った写真だった。掲示板の前で、次はどのように撮れば大賞を受賞出来るかな、と考えていた時、隣から声を掛けられた。
「ねえ、あなた、木戸智也君じゃない?」
サークル内以外で女性から声を掛けられた事などなかったので、何事か、と振り返ると「文芸サークルから来ました」と彼女は言った。
「私、お使いで来たんだ。木戸君に会えないかと思って」
彼女こそが、現在僕のビジネスパートナーとも言える担当編集者になる芙美さんだった。つまり、接触は彼女の方から掛けてきた訳だ。彼女はその時、学校誌に掲載する写真の撮影を僕に依頼したかったと言った。ホームページで僕の写真のノミネートの事を読み、載せられていた写真を見て一目惚れし(勿論写真に)、是非依頼したくなったそうだが、普段活動の都合上市内のあちこちを飛び回っている僕をなかなか捕まえられなかったのだそうだ。
「文化祭だったら展示もあるし、ここに居ると思ったんだけどね。来てみたら実物があったから、ついつい見入っちゃって」
「瓢さんが、俺に頼みたいって言ったから来たの?」
「それもあるし、ツテもあったんだよね。私の友達と、木戸君のサークルに居る……何て言ったかな、女の子みたいな名前だったのは覚えているんだけど。とにかく、その子とバイト仲間らしくってね。彼女たちを通じたら、こっちとも連絡が取りやすいんじゃないかって。だから私が、お使い頼まれちゃってさ」
「ああ、なるほど……」
僕の頭の中に、進学と同時に仙台から越してきたと言っていたサークル仲間の顔が思い浮かんだ。何か、バイト関連でストレスが溜まっているとか言っていたな、と頭に過ぎる。
そんな話をしているうちに、僕は文芸サークルと頻繁に交流するようになり、写真の紹介文はいつしかエッセイとなり、休学に入ってから訪れる「芸は身を助く」の最初の布石を打つ事になったのだった。
* * *
煮詰まった僕が、それをきっかけに親しくなった芙美さんのお膳立てにより小暮新報の門を叩き、本格的にアルバイトをするようになった時、吾平編集長に会った。
「私は君をバイト生だからと特別扱いはしないし、また非正規雇用労働者だからと言って苦役を押し付けたりもしません。我々は出版物を、主観の入り混じった情報を世に出すのですから、信用は命です。それを損なうような者は、誰であろうと除かねばならない。また、成果を上げた者を正当に評価しない事は私の流儀にも反します。いいですか、あなたはバイト生である以前に、編集部の社員なのです」
芙美さんの推薦と、過去の何度かの寄稿により簡単な面接でアルバイトを始める事が出来た僕に、編集長である吾平研太郎氏は最初に噛んで含めるようにそう言い聞かせた。輓近、労働者に対する待遇について、正規・非正規の格差が激しいと騒がれるが、彼曰く小暮新報は「実力主義」だとの事だった。
自分のすべき仕事に一定以上の成果が出せたら、正社員、バイト生の区別なく評価する。給料等の処遇もそれに応じて決定する。それは、自分の立場を自覚した上で起こる”気の緩み”を常に是正する事に繋がる、というのが彼の持論だった。
「よくやってくれました。これからも期待していますよ」
「その仕事ぶりで世渡りが出来るというのは考えが甘い。一度公にしたあなた自身の印象の回収は不可逆性だという事を、よく心に留めておいて下さい」
竹を割ったような淡白な性格と、歯に衣着せぬような物言いは、仲間内では賛否両論あった。ご都合主義で自分たちを見ている、毀誉褒貶が激しすぎるなどという陰口もあれば、一方ではねちねちとしつこくなくて良い、や、依怙贔屓や僻目がないのが清らかだ、などという意見もあった。
僕としては、最初こそ厳しい人だと思ったものの、次第にその真っ直ぐであっさりした性格には好感が持てる、と思うようになった。
* * *
記者の主計雅史という男とは、社で吾平編集長の次に知り合った。
バイトが始まって一週間程過ぎた頃、給湯室に行くと、冷蔵庫前の椅子に長身で目付きの悪い男性がアイスを片手に座り、芙美さんと何か話していた。咄嗟に僕は「誰だあんたは」と言ってしまい、羞恥で顔が火照った。
「あ、木戸君。こんにちは。この人は主計さん、正社員でいちばん私たちと歳が近い人。去年二十歳になったんだっけ」
「いやあ、やっぱ二十歳ってのは壁だね。通り過ぎると、いきなり芙美ちゃんたちみたいなのが幼く見えてくる」
「もう、でも主計さん中卒なんでしょ?」
「学歴ってのが直接人間の価値に繋がるってもんじゃねえよ」
主計さんはアイスの欠片を口に押し込み、棒を引き抜いて「何だよハズレかよ」と呟いた。僕はまだ少し警戒したまま「初めまして」と挨拶した。
「木戸って言ったっけ。芙美ちゃんにスカウトされるなんてどんな野郎だ、って思ってたけど、読んでみたら面白いな、あれ。『横町巡り』だっけ」
彼は、僕が最初に寄稿した写真付きエッセイの題を口にする。
「主計さんは問題児だけどね、意外と読書家で文士なところあるんだよね。この社に入ったのは、中二の時本社の販売コーナーから新聞連載小説の書籍版を万引きしようとして、吾平編集長に説教されたのがきっかけなんだって。普通、中学生がそんなの盗むかなあ。それで何だかんだあって、卒業後ここでバイトしていたらいつの間にか記者になってそのまま就職。人って分かんないもんだよね」
芙美さんが微笑む。僕も最初は写真がメインだったのにいつの間にか物書きの端くれのような事をしているので、何処かシンパシーを感じた。
「さてと。俺はそろそろ原稿に入ろうかね。のんびりしてると、吾平さんに怒られちまうからな」
主計さんはそのまま出て行った。社内ではまだ作業中の人も居るというのに、無遠慮に甲高く口笛まで吹いている。芙美さんは、やれやれというように肩を竦めた。
後から聞いたのだが、彼は地元の細工師の家の息子だった。
父親から後を継ぐように言われ、幼い頃から細工を教わっていたのだが、嫌気が差してぐれ、その一方で「作家になりたい」という夢も持ったそうだ。だが父親に激怒して反対され、逆上して家から飛び出し、中学校の半ばにして不良仲間の家を転々とする生活に。度々問題を起こしながらも何とか中学校を卒業し、小暮新報へ、という流れらしいが、詳しい事は彼の口からは語られなかった。
「あいつらからは足を洗ったよ。最近の不良ってのは、ガキの癖にヤベえ事に手を出す奴らが結構居るようだな。闇バイトで犯罪を斡旋されたりとか、こんな田舎でもあんのかよ、って。俺の身の回りで変な事件でもあると、すぐ俺のせいだしな。やってらんねえよな」
そんな事を話す主計さんの目は、いつも遠い時代を回想するかのようにぼんやりしていた。僕の身の周りにも、本当に色々な人が居るものだな、と思った。




