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「蜘蛛」(『化物怪奇譚』)⑨


          *   *   *


「彼の……浦隅氏の目的は、一体何なんですか?」

 霞さんが姿を消した二日後、僕は末崎住職に尋ねた。

 その日は、連日我慢を続けるかのように晴れていた空が、堪え切れなくなって泣き出した、とでも言うかのような大粒の雨が小暮の街を濡らしていた。僕も、こんな風に思い切り泣けたらすっきりするだろうな、と思った。

 末崎住職は、夜逃げの準備でもするかのように棚から様々なものを頻りに出し入れしては大きな旅行用鞄に詰め込んでいたが、僕が尋ねるとその手を止めた。

「……君が、私と藤水さんの両方の現実に関わる事になるとは思わなかった」

「ごまかさないで下さい。僕は……霞さんを奪われてしまったんですよ。止める事が出来なかったんです」

 僕の真剣な声色から何かを感じたのか、住職は振り返り、「重大なルール違反になるんだけど」と前置きをしてから言った。

「藤水さんは、私の居場所を奪う為にやって来たんだ。私が、お人好しすぎたのがいけなかったのかもしれない」

「末崎住職も、彼と同じなんですね? 教えて下さい、あなた方は一体何者なんですか? あなた方にとっての『現実』って何なんですか?」

 僕は、膝を進めながら尚も問い掛けた。住職はそれでも思考を進退させるように目を泳がせていたが、やがて溜め息を()いてから「着いて来て」と言った。


          *   *   *


 戌亥の森の、立ち入り禁止を少し通り過ぎた所に、朽ちかかった廃屋があった。

 末崎住職は傘を畳むと、入口の錠前をがちゃがちゃと弄る。やがて扉が開き、中から僕たちの方に風が吹き抜けた。

 埃で咳き込む事を覚悟していたが、中は長い間放置されていたとは思えない程清潔で、埃が舞っている事もなく、腐敗した木の悪臭もなかった。代わりに、森のような微かに甘く、潤いを感じる匂いが鼻先を掠めた。

 住職が、天井から吊るされていた懐中電燈のスイッチを入れた。廃屋の中が仄かに明るくなり、そこにあったものが次第に露わになった。

 それは、最初巨大な岩のように見えた。だが、すぐにそれは分厚い皮膚を持つ大きな生き物がとぐろを巻き、うず高く丸まっているのだと分かった。岩石のような質感の太く長い胴体を尾で包み込み、その幾重にも重なった頂上から巨大な角の生えた頭が垂れ下がっている。

「眠っているんですか?」

「そうだよ。これはいずれ、自分で居るべき場所に帰るんだ。私たちは、その時まで小暮の秩序を守る為に存在している」

 末崎住職はそう言うと、生き物の尾を愛おしそうに撫でた。

「僕に、そんな事を明かしてしまって良かったのですか?」

「いいんだよ。君にとってこれはすぐに、現実の出来事ではなくなる。全ては、土門君が作り出した虚構、夢という事になる」

 僕は、(しば)しその言葉を反芻し、やっと意味を理解した。

「霞さんを、返して下さい。彼女は浦隅氏に連れて行かれてしまった。あなたが、五年前に蠨子ちゃんを連れ去ったように」

「……やっぱり、気付いていたんだね。藤水さんが、もう一つの現実に生きている事を。私と藤水さん、どちらの言う事も現実なのだと」

 末崎住職は、寂しそうに笑う。

「私は蠨子ちゃんに狙いを付け、連れ去るつもりだった。だけど、その時ある男性が彼女を車で撥ねた。彼はそれが原因で窮地に立たされ、藤水さんの元を訪れた。そこで彼の力を知ったのか、最初から分かっていたのかは分からないけれどね。藤水さんはそれを受け容れ、『霊能を持ち、化け物に操られて車に撥ねられる少女』が最初から存在しなかった事にした。彼の娘さんを代償にして」

「それは全部、住職の推測なんですよね? 本当にそれが新しい現実になっているのなら、住職にとっての現実だって……」

「無論、そうだよ。けれど、私にとって蠨子ちゃんは標的だった。だから、私の現実は彼によって侵食される事はなかったはずだ。だからこそ、今こうして私は蠨子ちゃんという名前を知っている」

「住職もその後力を使ったんでしょう? だから今、あなたと浦隅氏のどちらにも接触した僕の現実には、蠨子ちゃんと芙美さん、どちらも存在している。そう考えてみると、浦隅氏の現実を正史とする小暮の人々の記憶に蠨子ちゃんが居ないのも肯けます。……でも、それならどうして霞さんは彼女に会ったんでしょう」

「霞さんが、本来藤水さんに連れて行かれるべき”対価”だったからだよ。間に五年間もスパンがあったのは、晴之さんの望んだ過去が『事故を起こさず、家族と幸せに暮らす』というものだったからだろう。すぐに彼から霞さんを奪う事は、藤水さんには出来なかった」

「そこで、僕が『蠨子ちゃんが今でも居る』という事を浦隅氏に話してしまったのがいけなかったんですね」

 僕は、後悔で胸が潰れるかと思った。

 浦隅氏は、末崎住職の座を奪う為にやって来た。彼にとっては、住職が自分より力を付けているという状況はあってはならなかった。蠨子ちゃんが今でも存在する、と僕が言った事は、末崎住職も力を使用したのだ、と浦隅氏に気付かせた。だから、彼は自分が更なる力を得る為、対価として受け取っていなかった霞さんを、予定を早めて連れ去る事にした。あらかじめ狙いを付けていたのなら、簡単だっただろう。

「霞さんを返して下さい」

 僕は、もう一度言った。住職は困った顔になる。

「藤水さんの例でも分かっているだろう。誰かに頼まれて力を使う時は、その人から代償を貰う必要があるんだよ」

「僕自身の存在をあなたにあげます。僕の命がどうなってもいい。だから、霞さんを……霞さんだけは、この街に戻してあげて下さい。お願いします」

 僕は深々と腰を折り、頭を下げた。

 強くなってきた雨脚が森を叩き、雨音は世界から僕たちを隔て、閉じ込めるように四方から耳を、心を打った。


          *   *   *


 住職の言う通り、僕は長い夢を見ていた。霞さんから”呪い”について聞かされた事も、花火大会も、彼女が体調を崩した事も、彼女が居なくなった事も、森の奥の廃屋で眠っていた巨大な生き物の事も、一切が夢の中での出来事だった。

 夢の最後に、僕は量仁寺の裏庭で浦隅氏と向かい合っていた。

「私はもう、彰人さんに勝ったのだよ。彼がまた現実を変えようが、私の現実が変わる事はない。萌花さんがこちらの世界に戻る事があっても、私は彼女をまた連れ去ってしまえばいいんだ」

 浦隅氏は、余裕たっぷりに僕に言ってきた。

「そうですね。あなたは、あなたの現実に取り残され続ける。もう、変わらない」

 僕は言うや否や、アパートから持ってきたカッターナイフを振り抜いて、浦隅氏に突き立てた。


          *   *   *


 夏休みも終わりに近づいた八月下旬、僕はアパートを引き払い、不必要なものは全て処分した。自分でも拍子抜けする程軽い荷物を背負って駅まで行くと、霞さんが見送りに来てくれた。

「璃紗、本当に行っちまうのかよ?」と尋ねてくる彼女の声は、いつもより寂しく感じた。僕は弱音が漏れないように、無言で肯く。

 末崎住職は行脚(あんぎゃ)に出ると言い、小暮を出て行った。その際、僕にも着いて来ないかと誘って下さったので、それに乗る事にした。

 というより、本当は分かっていた。僕が夏の間体験した出来事は夢などではなく、小暮という土地を、伝承を受け容れた思い出なのだと。住職は僕を、僕が叶えた現実の”対価”として連れて行かねばならないのだと。

 僕は、かつて多くの人々が引かれた彼の「見えざる糸」に引かれていくのだ。


 電車が来て、僕はそれに乗り込んだ。座席の窓を開けて、霞さんを振り返った。

「じゃあな、璃紗。会えて良かったよ。……元気でな」

「僕も、楽しかった。ありがとね、霞さん」

「名前で呼べって言ってんだろ」

 扉が閉まり、電車が動き出す。遠ざかっていく霞さんの姿が何だか小さく見えた。

 僕は彼女を好きになっていたのだろうか、と思った。


 何故、浦隅氏は僕に「彼の現実」を語ったのだろう、と考えた。もし彼が末崎住職のように嘘を()き、五年前の事故、本当は存在しない事故の事を口に出さなければ、僕が気付く事もなかっただろう。彼は確かに、住職に勝っていたのに。

 僕はあれから、戌亥の森の奥の禁足区域に行ってみた。防犯カメラに映ったり、パトロールに見つかったりしないよう細心の注意を払ったのだが、あの夢の中の廃屋を見つける事は出来なかった。浦隅藤水という人物について末崎住職に尋ねても、彼は怪訝な顔をするばかりだった。

 やはり、この土地は僕に合わなかったのだろうか。

 そんな事はないと信じたかった。むしろ、こうして住職を追いかけて街を去る決心をした事こそ、僕がこの街に対して適性のある人間だったという証明なのではないだろうか。それこそが計算通りだと、浦隅氏は笑うのかもしれないけれど。


          *   *   *


 急行は、やがて終点の無人駅に停まった。日はとうに暮れ、最早誰も乗客の居なくなった車両から降りようと、僕は出口に向かう。

 闇の中、顔も知らないセーラー服の少女が、挑むように笑ったのが見えた。



(蜘蛛・終)

『化物怪奇譚』連作第二弾「蜘蛛」の修正作業が終わりました(2025/12/09)。最初は戸惑われたかもしれませんが、本作と第一弾「化物怪奇譚」の世界は並行世界になっています。第三弾「神」以降の物語は「化物怪奇譚」の時系列にある話なので、本作はいわば存在しなかった世界の物語と言える訳です。

 解説をしますと、物語の舞台である「小暮」と重なり合うように存在する異界の存在・龍王の眷属である「化物(けもの)」には、肉食獣の姿をしたもの、蜘蛛の姿をしたものの二種類が存在し、百年ごとのスパンでどちらかが小暮を支配するという設定です。「化物怪奇譚」の世界が前者に支配されている世界であり、「蜘蛛」が後者の世界です。

 前者は使い魔を操って人間を異界へと連れ去るもので、刑部さんがこれに当たります。後者は糸を使って人間を攫う存在で、末崎住職の一族が相当します。どちらかが小暮を支配している百年間、もう一方はそちらの存在に対して不可侵を貫かねばなりませんが、前作では末崎住職がその禁忌を犯して刑部さんを殺害した為、彼は罰として消されてしまいました。本作は刑部さんが存在しない世界線の為、土門君は配達で不愉快な思いをする事もなく、宅配便のバイトも辞めていません。

 その代わり、本作には住職の縄張りを狙う蜘蛛の別個体・浦隅藤水氏が登場します。住職はどちらかというと人間に対して友好的なので(或いは蠨子ちゃんを連れ去ろうとした時に後悔したのか)彼に付け込まれました。

 この連作に登場する人物の多くは何処か不吉なものを連想させる事物が名前の由来となっており、表題作と本作の主人公・土門君は劇団☆新感線の演劇『蛮幽鬼』の主人公である復讐鬼・伊達土門の名前を訓読みにしたもの、ヒロインの霞萌花さんは「かすみ」「ほのか」共に幽霊の「幽」の字の響きから連想した名前、刑部さんは狐の妖怪である刑部姫……といった具合ですが、浦隅藤水氏は「恨み」「不死身」が由来です。尚、蠨子ちゃんの「蠨」の字は現実では人名用漢字として使用出来ません。


 本作は物語が煩雑なこの連作の中でも特にごちゃごちゃするので(「現実」が複数登場する上に人物が嘘を吐きます)、旧Twitterでの連載の最後に載せた資料を以下に転記しておきます。


          *   *   *


1.末崎住職の歴史 ※物語開始時を2022年とする


2003年 末崎の両親、交通事故で死去。浦隅、量仁寺の仮住職に。

2008年 瓢蠨子誕生。

2012年 末崎、量仁寺を世襲。

2016年 蠨子、量仁寺で末崎により霊能を否定される。その後浦隅により霊能を認められる。

2017年 霊能を恐れた末崎、蠨子に狙いをつける。

    蠨子、浦隅に蜘蛛の件を相談、その後霞晴之が彼女を撥ねる。

    晴之、浦隅に過去の改変を依頼。

    末崎、過去改変により蠨子を復活させる。

2022年 末崎、土門と出会う。


2.小暮市民の記憶にある歴史(正史)


2002年 瓢芙美誕生。

2003年 末崎の両親、交通事故で死去。浦隅、量仁寺の仮住職に。

2012年 末崎、量仁寺を世襲。

2022年 末崎、土門と出会う。


作中で末崎のついた嘘

・蠨子に霊能はない

 →自分に深入りされるのを防ぐ為(後に土門にこう言った理由も同様)

・蠨子が自分に蜘蛛の事を相談した

 →取り憑いていたのが自分なので、本人から言われなくても分かっていた


 本来浦隅氏と住職以外は「2」の歴史を辿りますが、土門君は二人に接触したので両方を知る事になります。蠨子ちゃんの存在は小暮市民の記憶では芙美さんに置き換えられている為、


・改変した張本人の浦隅氏

・彼女に狙いをつけていた住職

・改変の”対価”だった霞さん

・霞さんからその存在を聞いた土門君


 しか認識出来ません。何で作中でこの西暦の事を説明しないのだ、と言われそうですが、住職が二〇〇三年で小学校卒業間近(十二歳)とすると物語開始時には三十一~三十二歳になっているはずであり、蜘蛛としての彼の年齢がそれと全く同じとは限らない為、わざと曖昧な書き方をしていました。

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