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「蜘蛛」(『化物怪奇譚』)⑧


          *   *   *


 読み終わった『小暮民俗資料集』第三巻を末崎住職に返すと、彼はすぐに第四巻を持って来て下さった。次の表紙は黒地で、中心に両手で顔を覆い泣いているような少女の絵と、彼女を見下ろす無数の無機質な目が描かれていた。何となく、少女の形が霞さんに似ているな、と僕は感じた。

「歴史と民間伝承が混じった偽史みたいですけど、不思議ですよね。怪談に登場する化け物について、大正から昭和にかけても目撃談があるじゃないですか。どれも、伝承に出てくる妖怪の姿に近いんですよね」

「そうそう、それが面白いところなんだよ」

 末崎住職は僕の言葉を聞くと、初めて出会った時のように嬉しそうな笑みを浮かべながら力強く言った。余程、この手の話が好きなようだ。

「元々小暮の獣には神格があると信じられていたし、古くから土地の人々に根付いている観念は、現実に存在しなくてもそういうモノを錯覚で見せてしまう。人の想像力の前では、空想は錯覚として現実になるし、それは新しい伝承として空想になる。フォークロアっていうのは、虚構も現実も一体化させてしまうものなんだよ」

「それは……二つの歴史が並行して展開される事になりませんか?」

「この街では、起きた事全てが現実だ。それを受け容れられるようになる事が、この街に適性のある人間だって証なんだから」

 住職は、不思議な言い方をした。

「つまり、現実には有り得ない事も、この街では起こると?」

「現に今、土門君、君の周りでそれが起こっているじゃないか」


          *   *   *


 霞さんのお見舞いに行こうと考えたのは、その日のうちだった。

 彼女の体で三十八度も熱があるなら寝込んでいるかもしれない、と思いつつも駄目で元々と開き直ってメールを送ってみると、「璃紗に会いたい」という返事と共に寮の場所と部屋番号が送られてきた。

 寮生の女子大生たちに奇異な目で見られながらも、身を縮めるようにして彼女の部屋まで行き、インターホンを押すと「合言葉は?」という声が聞こえてきた。

「ふざけないでくれよ、僕は土門だよ。璃紗だって」

「冗談。入っていいよ、丁度璃紗が来る頃だと思って鍵開けといたから」

「不用心だなあ。僕が来た時に開けてくれればいいのに」

「悪い。体がだるくて、起き上がるのもなんぼかマシになった時じゃねえと出来ないんだ。全く、風邪だとしたら本当にタチ悪りいよ」

 霞さんの声は、痰でも絡んでいるかのように嗄れており、布団に潜っているのか酷くくぐもって聞こえた。僕は「お邪魔します」と一応断りながら扉を開ける。

 玄関から少し進んで、四畳半程の部屋に入ると、僕は心臓が止まりかけた。

 奥のベッドから覗く霞さんの顔が、八つの複眼を持っているように見えたのだ。掛け布団と空間の境にある口は耳の辺りまで裂けて鋭い牙が露出し、その上に規則的に並んだ爛々とした赤い目は血走ったまま六面体の全方向を見つめている。

「何だよ璃紗、変な顔して」

 彼女が声を出し、僅かに上体を起こした。深呼吸を一つして向き直ると、彼女の顔は元の人間のものに戻っている。

「や、やあ、萌花さん。大丈夫……じゃないよね?」

 落ち着け、と自分に言い聞かせながら、僕は霞さんの枕元まで行く。来る途中のコンビニで買った野菜ジュースやインスタントのスープなどをぎこちなく取り出すと、彼女は硬い表情をやっと和らげた。

「心臓、凄い鳴ってるぞ。女子の部屋入るの初めてか?」

「ほっといてくれよ。それより、本当に体は大丈夫なの? まさか、昨日の花火で冷えたから体調崩したとかじゃないよね? 食欲はある? 何か、僕に出来る事は?」

「お前は私の彼氏かよ」

 相変わらずの口振りだが、その口調には安堵したような響きが感じられた。

「食欲はないんだ。それは後で食べるよ、ありがとう。……昨日、あんな話をしたからなのかな。帰って寝てから、ずっと同じ夢を見ちまってさ。それで寝ても休まらねえんだよ」


          *   *   *


「夢の中で目を覚ますと、そこでもこんな夏の日なんだ。

 私が居るのは寺の濡れ縁で、どうやら眠ってしまったらしいって思い出す。やけに風鈴の音がうるさく、耳障りなものに聞こえたのを覚えているよ。座ったまま眠っていた私を、心配するようにセーラー服の女の子が覗き込んでいる。あれは思い返せばショウコちゃんみたいだったけど、私が会った時よりずっと幼かった。

 彼女が不意に、境内から飛び出していく。前方の森に入っていく彼女を見ているうちに、私は嫌な予感がしてその子を追った。そして、追い着けないんだ。走っても走っても、木立ちが延々と続く。彼女はどんどん走っていって、森を抜けた先の車道に飛び出す。

 その瞬間、私とその子の位置が入れ替わっているんだ。バンッと衝撃があって、視界が回転したところで思いっ切り引き摺られる。全身が引き裂かれるように痛くて、飛び散る血飛沫が異常に赤く見えた。

 今死ぬんだな、なんて思っていると、私を轢いた車から何と父さんが出てくる。父さんは私を覗き込んで泣きそうな顔をするんだけど、それが急にショウコちゃんのものに変わってしまう。彼女はさっきの心配そうな顔が嘘のように、嘲るような冷たい表情で私を見下ろしてくる。

 そこで私は、自分が何かの”対価”にされたのだと気付く。

 樹間を風が渡る音と、何処からか聞こえてくる風鈴の音色が辺りに満ちて……白い糸のようなものが世界を埋め尽くして──」


          *   *   *


「そして私は……どうなったんだっけ。夢が終わった訳じゃないんだ。今日の朝目が覚めた時も、璃紗が来る前も、もっと何か違うものを見ていた。怖くて、怖くて、死ぬんじゃないかって思う程怖くて……」

 僕を見つめる彼女の目の焦点が、狂い始めていた。語尾が震え、今にも呼吸困難を起こすのではないかと感じる程、呼気と吸気の入れ替えが早まっていく。上体を起こした彼女が倒れそうになり、僕はそれを支えようとした。

 その時、彼女は急にきっと顔を上げて僕を睨んだ。眼光は炯々として、それは先程僕が幻視した八つの複眼の如く血走っていた。

 ──怖い顔だった。今でも克明に覚えている程、一度見たら忘れられないような程ぞっとする顔だった。あれはもう、人間に出来る顔じゃない。懸命に人間の振りをしようとしている人外、獣の顔だったよ。

 浦隅氏の言葉が、やけに鮮明に僕の脳裏に蘇った。

 次の瞬間、霞さんは僕を押し退けてベッドから降りた。部屋着のまま、彼女は何かに引かれるかのように、幽霊の如く両手を前に突き出し、足をふらつかせながら玄関に向かって行く。

「萌花さん、何処に行くんだ?」

「父さんがあの人に差し出したのは、私だったんだ」

 その声だけが、やけにはっきりしていた。彼女はそのままドアを開け、薄暗くなり始めた夕空の光が差し込む廊下を駆けて行く。僕は慌てて追った。


          *   *   *


 何処をどう歩いたのか、僕には思い出せなかった。

 前を行く霞さんは蹌々踉々(そうそうろうろう)とした足取りで今にも転びそうなのに、気味が悪い程にぎりぎりで転ばない。僕は、待ってくれ、と夢中で声を掛けながら彼女の背を追い続ける。

 怪物のように道路に影を落とす鬱蒼とした森の角を、ガードレールに沿って曲がった時、僕はぞくりと背筋が粟立った。

 そこに建っていたのは量仁寺だった。霞さんが消えたのは門の入口で、僕はその前で泣き出しそうな喉を宥めながら、”彼”と向かい合っている。

「君にはどうしようもない事だったんだよ、土門君」

 真っ黒な僧衣を纏った浦隅氏は、本当に気の毒そうに言った。

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