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「蜘蛛」(『化物怪奇譚』)④


          *   *   *


「雨樋の 白露(はくろ)尾を引く 糸口や 蜘蛛の玉の() 雫と消ゆる」

 霞さんの体験談を末崎住職に話すと、彼は少し面食らったかのように身を引いてから、いつもの朗らかな笑みを浮かべて詠うように言った。五、七、五、七、七の短歌のようだったので、僕は身を乗り出した。

「蜘蛛、ですか?」

「そう、蜘蛛だよ。蠨子(ショウコ)ちゃん、懐かしいな」

 僕が末崎住職に尋ねたのは、霞さんの話に出てきた「ショウコちゃん」という女の子が小学三年生の時に、その守護霊を感知する力を知る事になった「お寺」がこの量仁寺なのではないか、と思ったからだった。この界隈に寺と言えばここしかないし、今から約六年前に彼女がここを訪れているのなら、診断を下した住職は末崎さんに違いないと。

 彼の年齢は定かではない、という話は冒頭で行った。彼がこの量仁寺を継いだのが成人して間もない頃だった、という事は本人から聞いているが、小暮を地元とするゼミの仲間からついこの間聞いた話では、少なくとも今僕と同じ世代の人たちが小、中学生の頃からこの寺の住職は末崎さんだという。

 果たして、予想は的中した訳だ。

「『蠨』という字は珍しいよね。意味は『アシダカグモ』の事なんだって。少し気になったものだから、ご両親に『どんな意味を込めて名付けたのですか』、って後で聞いてみた。そしたらね、とてもいい話を聞かせて下さったんだよ。蜘蛛は、神様からの言葉を伝えてくれる使者、それに努力と忍耐、希望を象徴する存在だって」

 余程感動したのだろう。末崎住職は蜘蛛が表す象徴について、六年前にちらりと聞いただけとは思えない程詳しく僕に教えて下さった。

 中国の「荊楚歳時記」には、七夕祭りについての記述がある。

 宋代の女性たちは七夕の日、七つ穴の開いた針に糸を通し、酒や果実を捧げて祈願を掛けた。果実の中に蜘蛛を入れ、その蜘蛛が糸を張れば、神様が願いを聞き入れて下さった証、なのだという。

 また蜘蛛は、丁寧に時間を掛け、精緻で芸術作品の如き巣を編む。そして、そこで獲物がやって来るのをじっと待つ。これは努力と忍耐の象徴であり、努力が実を結ぶという希望の具現化でもある、と信じられていた。

「芥川龍之介の『蜘蛛の糸』に出てくる犍陀多(かんだた)も、蜘蛛を助けたという唯一の善行から、お釈迦様に地獄へ蜘蛛の糸を垂らして貰うよね。まあ、殺生はいけないというのは蜘蛛に限らず仏教の五戒の中でも最も大切なんだけど。苦手な人も多いって言うけど、蜘蛛は大変神聖な生き物なんだよ」

「でも、本人は嫌がったりしなかったんでしょうか? 元々異質なものが見えるなんて言って、周りの子たちから変な目で見られていたんでしょう? 名前が『蜘蛛』の意味だなんて言ったら、もっと、その……怖がられたりとか……ほら、子供ってまだあまり分別が付いていない、無邪気なだけに残酷な部分があるじゃないですか」

「それには確かに悩んでいたらしいね。ご両親に、何でこんな名前を付けたの、って食って掛かった事も一度や二度ではないらしい」

 末崎住職は、少し切なそうな顔になった。

「守護霊が見える、っていうのは本当なんですか? 住職は、彼女が憑依体質だって診断したんですよね? それで、免疫のようなものが出来ている、って」

 僕は確認する。霞さんもああは言っていたが、まず蠨子ちゃんという少女が実在する人間である事は明らかになった。霞さんは、自分がおかしいのでは、と心配していたようなので、これでともかく謎は解決したはずだ。

「え、そんな事は言っていないよ」

 僕の予想に反して、末崎住職は途端にきょとんとした表情を浮かべた。

「確かに私は彼女とその両親から相談を受けた。幼い時から霊体と思しきものを何度も見ている、とか、それが先輩に死をもたらす事を知っていた、なんて言われてね。でも私が見たところ、蠨子ちゃんはごく普通の女の子だった。まあ、少々感受性のようなものが特異で、あらぬものを見たように感じてしまうんだろうと。それだけでは説明の付かない事も多いけど、何か霊的な事柄と関わりがある、なんて事は私には読み取れなかった」

「でも……」

「それにね、土門君。私は神官でも呪術師でもない。そういうオカルティックな事柄にはむしろ疎いんだよ。私には彼女の”能力”は分からなかった。別な専門家、なんて言うと胡散臭いけど、そういう人に診て貰えばまた違う結果にはなるかもしれないとだけは伝えた気がするけどね」

 住職は、蠨子ちゃんの能力を暴いた人ではなかった?

 僕は頭の中を整理する。となると、助言を受けた彼女らは別の専門家に相談して、そこで診断を下されたという事だろうか。単にその記憶が混ざっているのか。

「でも確かに、蠨子ちゃんは私の言葉を鵜呑みにした訳ではなかったようだね。その後も度々寺に来ては、守護霊の話をしてくれたよ。でも、その中で特に印象に残ったのは、蠨子ちゃんが『自分にも何かが取り憑いている』って言い出した事だね」

 住職は不意に立ち上がると、冷蔵庫の方へ向かった。

 僕たちが居たのは、住職の居住空間と寺を繋ぐ休憩用の四畳半程度の居間で、日頃から休憩はそこで行っていた。彼が突然立ったので何事か、と思ったが、単に話し続けて喉が渇いたらしい。

 末崎住職は冷蔵庫から冷えた麦茶を出してガラスのカップに注ぎ、僕にも差し出してきた。ありがとうございます、と言いながら僕は受け取る。

「彼女は、蠨子という名前のせいで蜘蛛の化け物に魅入られたんだ、と言った。その蜘蛛というのは昔からこの小暮に棲む異界の存在で、野良猫程度の大きさの女郎蜘蛛に似た姿をしている。でも顔は、鬼の面を被ったように平らで、鋭い牙を持つ。目は蜘蛛らしく八つあり、それは暗がりでも赤々と輝くんだって。随分悩んでいるようだったよ。洗面所で鏡なんかを見ると、頭の後ろに八つの赤い目が並んでいるのを見てしまって怖くなると言った。いつの日かは、お風呂の鏡でそれを見てしまって気を失って、溺れかけたところを母親に助けられたそうだ」

「彼女にとっては、その化け物というのは本当の存在だったんですね」

「とても怖がっていたよ。夜遅く、カサカサという軽くて複数の足を持つものが寝室を這い回っている音がする。或いは、外から帰ると決まって服や体に蜘蛛の巣の残骸のようなものが付いている。そんな事が続いたから、彼女は、いつかその蜘蛛の化け物が本性を現して、糸で自分を操って彼らの世界に連れ去ってしまうんだ、って怯えていた」

 霞さんの言う事が本当だったのなら。蠨子ちゃんは既に、その化け物の呪縛からは解放されているのだろう。もしくは、強い思い込みが成長するに連れて薄くなり、風化していったのか。

 何にせよ、蠨子ちゃんは救われたはずだ。霞さんのような、年上の強い女性を怖がらせようとするくらいの余裕は生まれていたのだから。

「私はただ慰める事しか出来なかったんだけどね。私が無力だと分かったのか、蠨子ちゃんはそれから寺に来なくなった。もう私の事なんか忘れてしまったのだと思っていたから、私もあまり彼女の事を考える頻度は減少していたんだけどね。そうか……彼女はもう、大丈夫なんだね」

 末崎住職は、安堵したように微笑み、麦茶を呷った。

 僕はお礼を言い、寺を後にした。

 駐輪場の自転車のスタンドを蹴ったところで、霞さんと末崎住職に、霞さんの訪ねた友達の名字と、蠨子ちゃんの名字を聞き忘れていた事に気付いた。


 (うすづ)き始めた鉛丹(えんたん)色の空の帰途、僕は不意に何者かの視線を感じて振り返った。

 だが、そこには人影にも似た背高草が、斜陽を背に、濡れたような影を黒々とアスファルトの上に伸ばしているのみであった。

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