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流星、はじまりの部屋

意識が浮上する感覚は、ひどく緩やかだった。


まぶたの裏に淡い光が差し込み、やがてぼんやりとした天井の輪郭が像を結んでいく。


消毒液の匂いが鼻先に微かに残り、体の芯にはまだ麻酔の余韻のようなものが漂っていた。


指先を動かしてみる。シーツの感触が、いつもよりくっきりと伝わってくる気がした。


ソラリスは、ゆっくりと瞬きを繰り返した。


視界は霞んでいない。左目の奥に残っていたはずの違和感も、不思議なほど凪いでいる。焼けるような熱も、締めつけられるような痛みもない。


ただ、体の内側の、もっと深いところに、何か新しいものが確かに宿っているという実感だけがあった。


見た目は、何も変わっていないように思える。


それでも、自分の体の中に、もう人間だけのものではない何かが流れ込んでいる。その事実だけが、静かな確信となって胸の奥に沈んでいた。


「気分は、どうですか」


低く落ち着いた声に、ソラリスは顔をそちらへ向けた。


ベッド脇の椅子に座っていたのは、シリウスだった。手術の前と変わらず、感情の読み取りにくい静かな表情を浮かべている。


「……なんか、フワフワする。でも、痛くはない」


正直に答えると、シリウスは端末に視線を落とし、バイタルの数値を確認しながら小さく頷いた。


「経過は良好です。傷の治りも、通常より早い」


そう言ってから、シリウスは端末を閉じ、まっすぐにソラリスを見据えた。


「ただし──術後すぐに強化兵として戦えるわけではありません。三日は経過観察です。安静にしてください」


念を押すような口調だった。


まだ体の奥に馴染みきっていない細胞が、どんな反応を示すか分からない。だからこそ、慎重に見守る必要があるのだと、その静かな眼差しが物語っていた。


ソラリスが返事をしようと口を開きかけた、その瞬間。


「シリウス!例の新兵、目のデータは──」


廊下の向こうから、甲高い声が近づいてくる。返事を待たず、扉が勢いよく開かれた。


「エイリアンの目を持つって本当──!?」


甲高い声とともに飛び込んできたのは、驚くほど背の低い女性だった。


長い金髪を左右に結い上げ、勢いよく走り込んできた拍子に、その髪がふわりと宙に跳ねる。


尖った耳の輪郭が、白衣の合間からはっきりと覗いていた。


エルフだ、と直感的に理解する。


「カペラ……彼は手術の直後ですよ。静かにしてください」


シリウスが眉一つ動かさずに窘めるが、カペラと呼ばれた女性はまるで意に介さない様子で、ベッドの傍らまで駆け寄ってきた。


「ごめんごめん!あっ、本当にオッドアイなんだね」


至近距離から覗き込んでくる大きな瞳に、ソラリスは思わず身を引いた。突然の距離の詰め方に、頬が少し熱くなる。


「えーっと……あんたは?」


戸惑いながら尋ねると、カペラはぱっと表情を輝かせた。


「私は、カペラ。アレスの主任研究員だ!それより、その左目を研究させてくれないかな!?」


前のめりに詰め寄られ、ソラリスは思わず背中をベッドの縁に押し付けた。悪意はまるで感じられない、純粋な好奇心の塊のような勢いだった。


「カペラ。術後です」


シリウスの声が、今度は僅かに低くなる。それだけで、カペラはびくりと肩を震わせた。


「う……じゃあその左目だけ置いてって!」


「殴りますよ」


抑揚のないシリウスの一言に、カペラは大袈裟なほど肩を落とし、泣く泣くといった様子で引き下がった。


それでも未練がましくソラリスの左目を何度も振り返りながら、部屋の隅へと後退していく。その落胆ぶりに、ソラリスは思わず小さく噴き出しそうになった。


しばらくの経過観察を終え、退室の許可が下りたのは、それから間もなくのことだった。


ソラリスはシリウスに深く礼を告げ、ゆっくりとした足取りで手術室を後にした。


廊下に出た瞬間、ひやりとした空気が頬を撫でる。


窓の外には、アレスの敷地を行き交う職員たちの姿が見えた。誰もが忙しなく、それぞれの仕事に向かって歩いている。


(三日間安静って言われても……どうすりゃいいんだ)


歩きながら、ソラリスはぼんやりと考えを巡らせた。宿を取る余裕などとうにない。財布の中身は、ここに来るまでの旅費でほとんど底をついている。まさか、このままアレスの廊下で寝るわけにもいかない。


そんなことを思いながら、廊下の角を曲がろうとしたところで、背後から声がかかった。


「お前、強化兵になったんだろ?」


振り返ると、そこには見知らぬ青年が立っていた。銀に近い薄い金髪、切れ長の鋭い目つき。


すらりと伸びた長身に、機能的な装備をまとった佇まいは、どこか隙のない印象を与える。


肩から羽織るように広がるコートの裾が、廊下の照明を受けて淡く光を反射していた。


「そうだけど……」


戸惑い気味に答えると、青年は口の端を僅かに持ち上げた。


「俺、星兵のリゲル。よろしく」


差し出された右手に、ソラリスは反射的に握手を返した。


「俺は、ソラリス。星兵って?」


素朴な疑問に、リゲルは肩をすくめた。


「エイリアン細胞に適応しなかった兵士だよ。強化兵は階級があるけど、星兵はそれすらないんだ」


淡々とした口調だったが、そこに卑屈さのようなものは感じられなかった。事実を、ただ事実として告げているだけの声だった。


その言葉を聞いて、ソラリスの中に一瞬、迷いのようなものが過ぎった。


適応できなかった者と、できた者。その差がどれほどのものなのか、まだ自分には想像もつかない。


それでも、目の前の青年が抱えているであろう重みを、無遠慮に踏みにじるような真似だけはしたくなかった。


「そうなのか。でも一緒にエイリアンと戦うんだから仲間だよな!よろしくな!」


ソラリスは、迷いを振り切るように、いつもの調子で笑いかけた。屈託のない、まっすぐな笑み。


リゲルは一瞬、意外そうに目を見開いた。それから、ふっと表情を緩める。


「居住区に案内する。ついて来てくれ」


そう言って歩き出したリゲルの背中を、ソラリスは慌てて追いかけた。


案内された先は、アレスから少し離れた区画にある、白を基調としたマンション群だった。


整然と並ぶ建物、手入れの行き届いた植栽、静かに行き交う住人たち。


落ち着いた雰囲気の中に、それでもどこか無機質な清潔さが漂っている。


「お前の部屋はここだ」


リゲルが立ち止まったのは、その中でも比較的小さな棟の一室だった。


扉を開けると、そこには簡素な生活空間が広がっていた。ベッドと小さなキッチン、そして申し訳程度の収納スペース。それだけで、部屋の全容がほぼ見渡せてしまう。


「えっ……狭っ!」


思わず声が漏れた。カナロアの実家にあった自分の部屋よりも、明らかに小さい。


「そりゃまあ、ワンルームマンションだし」


リゲルはあっさりとそう返した。慣れきった口調から、これがごく当たり前の光景であることが伝わってくる。


「……野宿よりマシか」


ソラリスは肩を落としながら、それでも前向きに呟いた。荷物を置く場所があるだけで、十分にありがたい。


「広い部屋に住みたいなら、階級上げろよ」


からかうような口調で言われ、ソラリスは思わず顔を上げた。


「階級が上がったら、広い部屋に住めんの?」


「ああ。強化兵は階級によって、提供される家や生活必需品の質が変わるんだ。ソラリスはまだ一番下の流星だから、こんなもん」


リゲルは部屋の壁に寄りかかりながら、淡々と説明を続けた。


星護軍という組織の中で、階級がどれほどの意味を持つか──言葉の端々から、それが単なる肩書き以上のものであることが窺える。


「階級は何段階あるんだ?」


「流星、彗星、恒星。強化兵の階級はこの三つだ」


指を折りながら答えるリゲルに、ソラリスは頷きながら耳を傾けた。


「流星が一人前の兵士。彗星は小隊長クラス、数人から十数人を率いる。恒星まで上がれば、中隊や大隊規模を指揮する立場になる」


「……じゃあ、星護将ってのは?」


ふと思い出したように尋ねると、リゲルは首を横に振った。


「あれは階級とは別だよ。恒星のさらに上ってわけじゃなくて、軍全体でただ一人だけに与えられる、特別な称号みたいなもんだ」


「一人だけ?」


「そう。今この星護軍で星護将と呼ばれてるのは──ツクヨミ、ただ一人だけだな」


その名前が耳に届いた瞬間、ソラリスの胸の奥で何かが小さく跳ねた。


「……じゃあ、ツクヨミって今どこにいるんだ?」


さりげなく尋ねたつもりだったが、声にはどうしても、いつもより力がこもってしまう。


「へ?」


リゲルが、虚をつかれたように瞬きをする。


人類の希望、英雄──そう呼ばれ、テレビやネットの向こうで栄光を浴び続ける存在。


しかしソラリスにとってツクヨミは、そうした遠い称号の主である以上に、十年前のあの夜、赤く染まった大地の上で自分を救い出してくれた、たった一人の恩人だった。


当時まだ十四歳だったはずのあの少年が、今では星護軍最強と謳われる星護将になっている。


その事実が、改めて胸の奥に重く響いた。


「俺……ツクヨミに会いたいんだ。どこに行けば会える?」


思わず、勢い込んでそう続けた。


「流石に家に押しかけるのはダメだから……アレスのどこにいることが多いんだ?流星でもツクヨミと一緒に戦える?」


矢継ぎ早に問いかけるソラリスに、リゲルは少し困ったような表情を浮かべた。それから、何かに得心したように小さく頷く。


「あー……そっちの奴かぁ」


「そっち?どっちだよ」


「星護軍に入る奴らは大体決まっててな。エイリアンに故郷や家族を襲われたって奴が大半を占めてる。そして残るは──ツクヨミに憧れて英雄を目指す奴」


リゲルの声には、揶揄するような響きはなかった。

ただ、これまで数えきれないほど見てきたパターンの一つとして、そう分類しているだけのようだった。


ソラリスは、その言葉に僅かに眉を寄せた。


「俺は、英雄になりたいんじゃない。ツクヨミとの約束を果たしに来たんだ」


きっぱりとした口調だった。リゲルが、興味を引かれたように顔を上げる。


「約束?」


「ああ。『あんたより強くなって、次はオレがあんたを守る』。そう約束したんだ」


十年前、痛みと熱に涙をこらえながら告げたあの言葉。


今もなお、胸の奥で色褪せることなく燃え続けている誓いだった。


リゲルは、しばらく無言でソラリスの顔を見つめていた。何かを推し量るような沈黙のあと、ふっと口元を緩める。


「どっちみち、英雄を目指さなきゃツクヨミを超えることなんて出来ねーよ。ま、頑張んな」


それだけ言うと、リゲルは軽く手を振り、部屋を出て行った。廊下を遠ざかっていく足音が、やがて完全に聞こえなくなる。


一人きりになった部屋の中で、ソラリスはゆっくりと荷物を下ろした。

ボストンバッグの中身を、簡素な収納棚へ一つずつしまっていく。


カナロアから持ってきたわずかな私物──着替え、家族の写真、そして小さな貝殻のお守り。


それらを並べ終えると、部屋の中はますますがらんとして見えた。


窓の外を見遣る。夕暮れに差し掛かった空が、アレスの高い建造物の輪郭を淡く縁取っていた。


故郷の海とは違う、無機質な光景。


それでも、ここが自分の選んだ場所なのだと思うと、不思議と胸の奥が熱くなった。


狭い部屋の中央に立ち、ソラリスは大きく息を吸い込んだ。


「よしっ!」


狭い部屋を見回して、ソラリスは拳を握った。


「今日から、オレも流星だ!」


誰に聞かせるでもない声が、がらんとした室内に響く。


それでも、その声には確かな決意が滲んでいた。


窓の外では、アークの光が一つ、また一つと灯り始めていた。


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