血の代償
緊張感を孕んだ沈黙の中、ソラリスはふと、単純な事実に思い至った。
適応率が高くて、しかも拒絶反応がない。それはつまり──。
強張っていた表情が、ふっと緩む。口元に、いつもの人懐こい笑みが戻ってきた。
「じゃあ……オレ、強化兵になれるってことだよな?」
呑気とも取れる声だった。深刻な数値の羅列を前にしても、ソラリスの頭の中では「これで一歩前に進める」という単純な喜びの方が勝っていた。
ツクヨミに追いつくための最初の関門を、無事に突破できる。それだけで、胸の奥がじんわりと熱くなる。
シリウスは、その反応に一瞬だけ虚をつかれたような顔をした。深刻な異常値を前にしても揺らがない、あっけらかんとした様子。竜人の瞳が、少しだけ細められる。
「……強化手術を行うのは、問題ありません」
端末を机に置き、シリウスはゆっくりと言葉を選ぶように続けた。
「ただし」
その一言だけで、部屋の空気がふたたび張り詰めた。ソラリスの笑みが、少しだけ引っ込む。
シリウスは長身を折るようにして、正面からソラリスと向き合った。医療用のライトの下で、竜人特有の瞳孔が縦に細く絞られる。
感情の読み取りにくい表情の奥に、それでも確かな重みを湛えた眼差しがあった。
「強化兵になるということは──人間を捨てることと、同義です」
静かな声だった。その静けさが、かえって言葉の重さを際立たせる。
「常にエイリアン細胞に侵食され続け、鎮静剤を受け続けなければならない」
ソラリスの頬から、笑みがゆっくりと消えていった。聞き慣れない単語が、耳の奥にひっかかる。
「鎮静剤って……?」
問い返す声は、さっきまでの軽さを失っていた。膝の上に置いた両手に、無意識のうちに力がこもる。
シリウスは端末を操作し、モニターに簡素な図表を映し出した。人体の輪郭に、赤い線が幾筋も走っている資料だった。
「星護軍が開発した薬剤です。定期的に投与することで、エイリアン細胞の活性化を抑えられます」
淡々と説明を続けながら、シリウスの視線はモニターとソラリスの顔を交互に往復した。
「しかし、侵食そのものを止めることは出来ません。あくまで進行を遅らせる薬であり──強化兵には必須のものです」
その言葉が、じわりと重みを増して胸に沈んでいく。ソラリスは、乾いた唇を一度舐めてから、恐る恐る次の問いを口にした。
「怠ると……どうなる」
問い返す声は、まだ微かに震えていた。
「怠れば、侵食率が上がります」
シリウスの答えは、淡々としていた。その平坦さが、かえって現実味を帯びて胸に迫ってくる。
「……上がり続けたら?」
「最終的には、人間としての自我を失います」
ソラリスの喉が、小さく上下した。乾いた唇を一度舐める。それでも問いを止めることはできなかった。
「その先は」
「死です」
短い一言。飾り気のない、事実だけを告げる声だった。
シリウスの瞳が、まっすぐにソラリスを射抜いた。感情を表に出さない竜人の顔の奥に、それでも確かな真剣さが滲んでいる。
「一度手術をしたら、もう元には戻れません。一生エイリアンの細胞を宿し、鎮静剤を打たなければならない」
一語一語、確かめるように区切りながら告げる。
「その覚悟が──ありますか」
診察室の空気が、限界まで張り詰めていく。
ソラリスの脳裏に、様々な光景が駆け巡った。
書き置き一枚を残して飛び出した夜の記憶。
両親の怒鳴り声、母の泣き顔。
バイト先で流した汗、乗り遅れそうになって全力で駆けたあの朝。
そして──赤く染まった大地の上で、静かに名前を交わした、あの銀色の少年の姿。
強くなって、次はオレがあんたを守る。
十年前、痛みと熱にまみれながら誓ったあの言葉が、今もまだ胸の奥で燃え続けている。
ソラリスは、ゆっくりと息を吸い込んだ。震えていた指先が、いつの間にか止まっている。
「──ある」
短く、しかし揺るぎのない声だった。
シリウスは、しばらくの間、その瞳を見つめ続けていた。子供じみた勢いだけの覚悟なのか、それとも本物なのか──見極めようとするような、静かな観察の時間。
やがて、竜人は小さく頷いた。
「わかりました」
そう言うと、机の引き出しから一枚の書類を取り出し、ソラリスの前に置く。整然と並んだ文字の羅列、そして末尾に用意された署名欄。
「手術の前に、同意書へサインをお願いします」
ペンを差し出すシリウスの手つきは、あくまで事務的だった。
その目の奥には、これから強化兵という道を選ぼうとする少年への、微かな敬意のようなものが滲んでいるようにも見えた。
ソラリスは、ペンを受け取った。
迷うことなく、差し出された同意書に自分の名前を綴っていく。インクの擦れる音だけが、静かな部屋に響いた。書き終えた文字を一瞥することもなく、まっすぐに顔を上げる。
「よし……これでいい」
確認するように呟くと、シリウスは静かに書類を受け取り、頷いた。
「では、手術室へ」
促されるまま、ソラリスは椅子から立ち上がった。緊張と高揚がないまぜになった感覚が、全身を巡っていく。
ソラリスは、無意識に左目へ触れた。
十年前から続く、奇妙な違和感。
それがこの先、自分の運命をどう変えるのか。
今の彼には、まだ知る由もなかった。
長い廊下を歩きながら、シリウスの背中を追う。
白く清潔な壁が続く通路の先に、手術室と記された扉が見えてきた。
扉が音もなく開き、その奥から、消毒液の匂いを含んだ冷たい空気が流れ出してくる。
一歩、また一歩と足を進めるたび、後戻りのできない道へと踏み込んでいくのがわかった。
それでも、足取りに迷いはなかった。
ソラリスは、静かにその扉をくぐった。




