星港への切符
目覚まし時計が鳴る前に、体が跳ね起きていた。
窓の外はまだ薄暗く、サンベルの残光がわずかに街路樹の輪郭を縁取っている。
ソラリスは寝癖のついた頭のまま、部屋の隅に立てかけてあったボストンバッグを引っ掴んだ。中身は昨夜のうちに何度も確認済みだったが、それでも手が震える。
忘れ物はないか、チケットは入っているか──何度も同じ動作を繰り返してしまう自分に、少し笑えてくる。
時計の針は、想定していたよりずっと先を指していた。
「うっそだろ……!」
声が裏返る。慌てて着替えを済ませ、玄関先でサンダルに足を突っ込みながら、家を飛び出した。
潮風が頬を叩く。まだ夜の名残を残す空の下、街はようやく朝の色を帯び始めたところだった。
星港までの道のりは、普段なら余裕を持って歩ける距離だ。
けれど今日ばかりは、走っても走っても遠く感じられた。息が上がり、脇腹に鈍い痛みが差し込む。それでも足を止めなかった。
このチケットのために、どれだけ働いたか。
港での荷運び、食堂の皿洗い、果樹園での収穫の手伝い。休みの日という休みの日を注ぎ込んで、ようやく手に入れたアーク行きの片道券だった。
ここで乗り過ごしたら、また同じだけの時間を稼ぎ直さなければならない。
「間に合え……間に合え……!」
祈るように呟きながら、星港のゲートが見えてくる。巨大な発着塔の合間を縫うように、乗客たちの列が続いていた。案内板に映る出発時刻の表示が、赤く点滅している。もう搭乗締め切りの合図だ。
ソラリスは残りの力を振り絞って走った。
ゲート脇の係員にチケットを突き出すと、怪訝そうな一瞥のあと、あっさりと通される。息を切らしながら乗降口へ駆け込み、崩れるようにシートへ体を沈めた瞬間、扉が静かに閉まる音が響いた。
「……間に合った……」
天井を仰いだまま、ソラリスは肩で息をした。全身にじっとりと汗が滲んでいたが、それすら心地よく感じられるほどの安堵だった。
やがて船体がふわりと浮き上がり、重力の感覚がわずかに変わる。窓の外、見慣れたカナロアの海岸線が、みるみる小さくなっていった。
青い海、白い砂浜、朝日を受けて輝き始めた果樹園の緑。生まれ育った星が、あっという間に一つの光の粒になっていく。
その光景を見つめながら、ソラリスの口元が自然とほころんだ。
これから向かうのは、星護軍の本拠地アーク。そこには、あの人がいる。
十年前のあの夜から、片時も忘れたことのない銀色の髪と、静かな眼差し。名前を教えてもらった瞬間の、あの声の響き。ツクヨミという名を口の中で転がすだけで、胸の奥が疼くように熱くなる。
──もうすぐ、会える。
窓に額を寄せ、流れていく星々を眺めながら、ソラリスの意識は緩やかに過去へと引き戻されていった。
両親の反対は想像以上に激しかった。
「星護軍に入る」とだけ告げた瞬間、母は絶句し、父は声を荒らげた。危険な仕事だ、命を粗末にするつもりか、なぜわざわざ自分から戦場へ行こうとするのか──浴びせられる言葉の一つひとつに、確かな愛情が滲んでいるのはわかっていた。
わかっていたからこそ、なおさら苦しかった。
何日も説得を続けたが、平行線のまま日だけが過ぎていった。このままでは、決意が鈍ってしまう。そう思ったソラリスは、ある夜、荷物をまとめ、書き置き一枚だけを机の上に残して、家を出た。
『必ず強くなって帰ってくる。心配かけてごめん』
そんな短い一文だけを綴った紙切れ。振り返らずに玄関を出た瞬間の、あの胸の痛みは今でも鮮明に覚えている。
「……絶対、殴られるだけじゃ済まねぇよな」
ソラリスは、窓の外の星々を眺めながら、たはは、と力なく笑った。頬杖をつき、遠い目で天井を見上げる。
母の般若のような形相と、父の据わった目つきが同時に脳裏をよぎり、思わず背筋が震えた。
手紙一枚で家を出た息子を、両親がどんな顔で迎えるのか──想像するだけで胃の辺りがきゅっと縮む。
(まあ……今更悩んでもしょうがねぇ)
ソラリスは小さく息を吐き、気持ちを切り替えるように頬を軽く叩いた。今は、それよりも先に片付けるべきことがある。入隊試験、適性検査、そして──ツクヨミとの再会。
考えるだけで、自然と口角が上がっていく自分に気づき、少し照れくさくなった。
数時間の航行を経て、船が減速を始める。
窓の外に広がった光景に、ソラリスは思わず息を呑んだ。
宇宙空間に浮かぶ巨大な人工都市──それがアークだった。幾重にも連なる艦艇のドック、無数の光を放つ居住区画、そして中心には、天を突くようにそびえる本部塔。カナロアの小さな港とは比べ物にならない規模の建造物が、視界いっぱいに広がっている。
「でっけぇ……」
思わず漏れた呟きは、誰の耳にも届かなかった。乗客たちも一様に窓へ張り付き、感嘆の声を漏らしている。ソラリスもその一人だった。
着陸後、タラップを降りた瞬間、頬に触れる空気の違いにも驚かされた。管理された清浄な空気、規則正しく行き交う人々、そこかしこに掲げられた星護軍の紋章。故郷の潮風とは全く違う、張り詰めたような緊張感が肌を刺す。
案内表示に従って歩を進めると、やがて巨大な建造物の前に辿り着いた。壁面に刻まれた文字が、その正体を告げている。
先進生命医療研究施設・アレス。
入隊希望者たちの列に並びながら、ソラリスは少しだけ武者震いした。ここを抜けなければ、星護軍への道は開けない。
適性検査部の受付を済ませると、白衣を纏った職員に案内され、簡素な診察室へ通された。
しばらく待たされたのち、扉が開く。入ってきたのは、見上げるほどの長身の人物だった。
鱗のような質感を帯びた肌、切れ長の瞳、纏う空気そのものが常人とは違う。
竜人族──そう聞いてはいたが、実際に目の当たりにすると、その存在感に思わず言葉を失いかける。
「初めまして。適性検査を担当する、シリウスです」
淡々とした声だった。抑揚は少ないが、冷たいというよりは静かな響きに近い。
シリウスは手元の端末に視線を落としながら、書類の確認を進めていたが、不意にその手を止めた。
視線が、まっすぐソラリスの顔に向けられる。
「……失礼。目を、見せてもらっても」
言われるまま、顔を上げる。シリウスの瞳が、僅かに細められた。
「右は……黄色。左は、水色ですか」
低く呟くように言うと、シリウスは端末を置き、身を屈めてより近くから覗き込んできた。
医療用のライトを取り出し、左目にだけ光を当てる。瞳孔の反応を確かめるような、慎重な仕草だった。
「先天性のものではなさそうですね。何か、心当たりは」
ソラリスは、少し言葉に詰まりながらも答えた。
「六歳のとき……エイリアンに襲われて。助けてくれた人が、トドメを刺した瞬間に、血が目に入ったんです。それから、こうなって」
淡々と告げたつもりだったが、思い出すだけで、あの夜の熱と痛みが蘇るような気がした。
シリウスの動きが、ぴたりと止まる。
「……エイリアンの血、が?」
問い返す声には、明らかな戸惑いが滲んでいた。長い沈黙のあと、シリウスは眉間に微かな皺を寄せる。
「普通は、失明します」
断定するでもなく、確認するでもない、宙に浮いたような口調だった。実際に目の前で普通に視界を保っている少年を前に、その常識と現実の齟齬をどう処理すればいいのか、測りかねているようにも見える。
「でも……見えてますよ、普通に」
ソラリスが返すと、シリウスは何かを考え込むように黙り込んだ。それから、ふ、と小さく息を吐き、端末を操作し始める。
「……とにかく、検査を進めましょう。通常の手順通りに」
そう言って、シリウスは検査室の奥へとソラリスを促した。
第一次検査は、拍子抜けするほど淡々と進んだ。全身のスキャン、神経伝達速度の測定、免疫反応の確認。機械的な音と共に、次々とデータが記録されていく。
問題が起きたのは、第二次検査に入ってからだった。
採取した血液に、微量のエイリアン細胞を投与し、反応を観察する検査。培養皿の中の様子を映し出すモニターを見つめていたシリウスの表情が、徐々に強張っていくのがわかった。
「……拒絶反応、なし」
呟くような声だった。もう一度、確認するように数値を読み直す。
「適応率──異常値」
シリウスの指先が、僅かに止まった。何度も同じ検査を繰り返しているのか、モニターに映る数値をじっと睨みつけている。
「適応率が高いほど、本来なら拒絶反応も強く出るはずなんです。それが、こんなにも滑らかに……まるで、最初から共存していたかのように」
独り言のように零しながら、シリウスは机の端に置かれた資料を手繰り寄せた。
ソラリスの左目を、もう一度覗き込む。医療用のライトに照らされて、水色の瞳がわずかに輝いて見えた。
「貴方の細胞は──何を受け入れているんですか」
問いかけの言葉は、ソラリスに向けられたものというより、目の前の異常な結果そのものへの疑問のように聞こえた。
答えられるはずもなく、ソラリスはただ、緊張した面持ちでシリウスの反応を見つめ返すことしかできなかった。
診察室の空気が、静かに張り詰めていく。
これから何が始まろうとしているのか、まだソラリス自身にも知る由はなかった。




