目覚めの刻
夜のカナロアは、本来ならば眠らない星だった。
日が沈んでもなお、街路樹の合間からサンベルの淡い光が滲み出し、海面にその赤金の反射をちりばめる。
潮風には南国特有の甘い果実の匂いが混じり、遠くの波音がまるで子守唄のように響いていたはずだった。
けれど今夜だけは、違う。
サンベルの光は、赤く染まった地面を照らすためだけにあるような気がした。
焦げた木々の匂いに、鉄錆に似た血の匂いが重なる。悲鳴はもう遠くへ去り、代わりに響くのは、何かが引き裂かれる音と、重い足音だけだった。
六歳のソラリスは、崩れかけた家の陰にうずくまっていた。
膝を抱え、両手で耳を塞ぐ。それでも音は容赦なく耳の奥へ入り込んでくる。震える呼吸のたび、喉の奥がひゅうひゅうと鳴った。
さっきまで一緒にいたはずの誰か──母の声も、父の怒鳴り声も、もう聞こえない。ただ自分だけが、この暗がりに取り残されている。
そのとき、頭上から影が差した。
そこにいたものを見た瞬間、ソラリスの身体が凍りついた。
黒曜石のような外殻に覆われた巨体。
二本の脚で立ちながら、身体を低く沈めている。その姿勢は獣のようだった。
背中から伸びた六本の触手が、生き物のように蠢いている。
そして二本の腕、その先端には、鎌を思わせる鋭い刃が備わっていた。
ソラリスは声を出せなかった。
逃げなければならない。
そう思っているのに、足が動かない。
ソラリスは声も出せなかった。
逃げようにも足が動かない。
ただ、大きく見開いた両目に、迫りくる漆黒の影だけが映り込んでいく。
冷たい何かが、じわりと足元から這い上がってくるような感覚。息を吸うことさえ忘れていた。
刃が振り下ろされる、その刹那。
銀色の光が視界を横切った。
長刀の一閃。鋼と外殻がぶつかる甲高い音が弾け、火花が散る。少年が──おそらく十四、五歳ほどの、銀髪の少年が、ソラリスとエイリアンの間に割って入っていた。
「大丈夫か」
短くそれだけ言うと、少年は構え直す。息は荒く、額には玉のような汗が浮かんでいた。だがその目には、迷いも怯えも見当たらない。
エイリアンが咆哮した。空気そのものを震わせるような重低音。振るわれた腕──鎌のように湾曲した刃が、少年の左肩を斜めに切り裂く。
鮮血が舞った。
ポタ、ポタ、と滴る音が、やけに鮮明にソラリスの耳へ届く。地面に落ちるたび、赤黒い染みがじわりと広がっていく。
少年は苦悶に顔を歪めながらも、後ろへ下がろうとはしなかった。むしろ、ソラリスを庇うようにもう一歩、前へ出た。
(逃げて──)
そう思うのに、声が出ない。喉の奥で言葉が凍りついたまま、ソラリスはただその背中を見つめることしかできなかった。
エイリアンが再び腕を振り上げる。標的は、傷を負い動きの鈍った少年だ。研がれた刃が月明かりを弾き、まっすぐに振り下ろされようとする。
少年は、僅かに身をひねった。
痛みで鈍った反応速度など知らぬとばかりに、彼は長刀を逆手に持ち替え、渾身の力で切っ先を突き出す。
狙うのは、外殻の隙間からわずかに覗く柔らかな部分──心臓に相当する器官。
刃が沈み込む感触。骨か外殻かを砕く鈍い音。
エイリアンの巨体が、大きく仰け反った。
その瞬間、傷口から噴き出した体液が、宙に弧を描いた。
黒に近い赤色をした液体が、幾筋も飛び散る。そのうちの一滴が、うずくまるソラリスの左目に、まっすぐに落ちた。
焼けるような痛みが走った。
まるで炭火を目の中に押し込まれたような、あるいは酸を流し込まれたような、そんな灼熱の感覚。
ソラリスは反射的に目を押さえ、地面に転がりながら悲鳴を上げた。
「っ──!!!!」
声にならない絶叫。左目の奥で何かが弾けるような、痺れるような異物感が広がっていく。
涙よりも先に、熱が溢れてくる。指の隙間から、赤いものが滲んでいるのが自分でもわかった。
「おい──!」
少年が慌てて振り返る。
その視線の先で、エイリアンがまだ完全には絶命していないことに気づき、彼は一瞬で表情を切り替えた。
振り向きざまに長刀を振り抜き、断末魔の咆哮を上げる巨体の首元を、正確に断つ。
どさり、と地響きを立てて、エイリアンの巨躯が地面に沈んだ。
辺りに静寂が戻る。
風だけが、焦げた匂いと血の匂いを運びながら、ゆっくりと吹き抜けていった。
少年は肩の傷を庇いながら、すぐにソラリスの元へ膝をついた。息はまだ荒く、額から流れる汗が顎先で光る。
「見せてみろ」
そう言って、震える小さな手を、そっと目元から引き剥がす。左目の周りは赤く腫れ、涙と血が混じったものが頬を伝っていた。
それでもソラリスは、痛みよりも先に──目の前の少年の姿に、意識のすべてを奪われていた。
月明かりを浴びた銀の髪。返り血で汚れた頬。
それでも真っ直ぐにこちらを見つめてくる瞳の強さ。
傷だらけの体でなお、幼い自分を案じるように覗き込んでくる、その眼差し。
痛みも、熱も、恐怖も。
すべてが一瞬、どこか遠くへ霞んでいくような気がした。
「……大丈夫だ、俺がいる」
少年は、静かにそう言った。淡々とした声だったが、その一言だけで、強張っていた小さな体からわずかに力が抜けていく。
ソラリスは、それでも痛みに顔を歪めながら、途切れ途切れに口を開いた。
「あんた……つよい……」
呟くような声。まだ焦点の合わない目で、それでも少年の姿を追い続ける。
少年は小さく笑う。周囲を警戒するように視線を巡らせ、それから救援を呼ぶべく、少年は素早く手首の通信端末に触れ、短く座標と状況を伝える。
応答を待つ間も、片膝をついたままソラリスのそばを離れようとはしなかった。
焦げた木々の向こうから、やがてエンジン音と複数の足音が近づいてくる。星護軍の緊急展開部隊だった。
「衛生班、負傷者二名──ここです」
先頭を走ってきた兵士が叫ぶ。担架を担いだ衛生兵たちが駆け寄り、慌ただしく周囲に膝をつく番になった。手にした簡易スキャナーが青白い光を放ち、二人の傷を順に映し出していく。
「肩は深いが、動脈は逸れてる。応急処置で保つ」
若い衛生兵が少年の肩口に止血パッドを当てながら、短く報告する。もう一人の衛生兵がソラリスの左目に駆け寄り、慎重に瞼を押し開いて中を覗き込んだ。
「目は──洗浄する。動かないで」
そう言われても、ソラリスは言われた通りにじっとしていられなかった。
透明な溶液が目にかけられるたび、ひやりとした感触と共に痛みが走る。声を上げそうになるのを堪えながらも、視線だけはずっと隣に向けられていた。
担架に横たえられ、止血処置を受ける銀髪の少年。その横顔が、痛みに耐えるように僅かに歪んでいる。
「……いたい、の」
小さな声で、思わずそう零した。自分の痛みのことなのか、少年を案じてのことなのか、自分でもよくわからないまま。
衛生兵が苦笑しながら、そっと頭を撫でる。
「もう少しの辛抱だ。それより──目、開けられるか」
言われるまま、恐る恐る瞼を開く。滲む視界の中、ぼんやりとした光の輪郭が焦点を結んでいく。
左目の奥に残る違和感は消えないままだったが、痛みそのものは少しずつ引いていくのがわかった。
処置が終わる頃には、辺りは仮設の灯りで照らされ、慌ただしい声が飛び交っていた。
運ばれていく担架の合間を縫って、ソラリスは毛布にくるまれたまま、隣に横たわる少年をじっと見つめ続けていた。
肩に包帯を巻かれ、上体を起こした少年と、ようやく視線が合う。
痛みに顔をしかめながらも、少年はふっと表情を緩めた。からかうでもなく、ただ静かに、様子を窺うような眼差しだった。
その顔を見た瞬間、ソラリスの胸の奥で、何かがことりと音を立てた気がした。
「……ソラリス」
ぽつりと、名乗る。
毛布の端を握りしめながら、それでも視線だけは逸らさなかった。
もっと知りたい、そう思った。目の前でエイリアンを斬り伏せた、この人のことを。
「あんたの、名前は」
少年は、少し驚いたように目を瞬かせた。それから、夜風に銀の髪をなびかせながら、静かに口を開く。
「ツクヨミだ」
たったそれだけの言葉だったのに、ソラリスの耳には、いつまでも残り続けるような響きがあった。
赤く染まった大地の上で、二つの視線が絡み合う。
「オレも星護軍に入る」
少年が、僅かに目を見開く。
ソラリスは、包帯の下の左目に微かな違和感を覚えながらも、構わず続けた。
「あんたより強くなって、次はオレがあんたを守る」
その言葉に、少年は一瞬、驚いたように瞬きをした。だがすぐに、口元をわずかに緩める。夜の闇の中でも、その表情はどこか眩しく見えた。
「……そうか」
短い返事だった。それ以上の言葉はなかったが、その静かな声には、幼い誓いを笑い飛ばすことのない、確かな重みが込められていた。
──いつか。
必ず、この人の隣に立とう。
守られるだけじゃない。
この人を守れる人間になろう。
それが六歳のソラリスが初めて抱いた夢だった。
そして──。
これが、すべての始まりだった。




