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第9話 もう誰にも止められないのでしゅ

第9話 もう誰にも止められないのでしゅ


 古い樫の木の枝で、ピコは両手を口へ押し当てた。満月に照らされた桃色の羽は細かく震え、頬も赤い花びらのワンピースも涙で濡れている。下の草むらでは秋の虫が鳴き、木の穴に残した木の実と硬いパンへ、夜露が落ちていた。遠くから馬のひづめが近づくたび、胸の奥で小さな鼓動が大きく響いた。


「ピコー! どこだ!」

 アルフレッドの声が、木々の間を通って届いた。何日も聞きたくて、それでも聞いてはいけないと思っていた声が、自分の名前を何度も呼んでいる。ピコは枝から飛び立ちそうになる体を抑え、両腕で幹へしがみついた。


「ここにいるのでしゅ」と答えれば、王子の髪へ戻りたくなる。胸ポケットへ入り、頬へ何度もキスをして、もう二度と離れられなくなる。アルフレッドにはセレスティアという婚約者がいるのだから、自分は姿を見せてはいけないと考え、ピコは唇を固く結んだ。


「だめなんでしゅ。がまんでしゅ」

 ピコは濡れた袖で目元を拭き、枝の裏側へ隠れた。王子たちが通り過ぎるまで、羽も動かさず待つつもりだった。しかし、月の光を受けた妖精粉が体からこぼれ、樫の木の周囲を金色に照らしていた。


「殿下、妖精粉が濃くなっています。この近くです」

 ローランドの声が聞こえ、馬の足音が止まった。続いて、枯れ葉を踏む三人分の靴音が近づく。ピコは羽を体へ巻きつけるように畳み、木の幹に開いた穴へ隠れようとした。


「ピコさん、お揃いのお洋服が待っていますよー!」

 セレスティアの声が、満月の森へ明るく響いた。いつもの落ち着いた公爵令嬢の声ではなく、市場で家族を呼ぶ女性のような大声だった。最後には少し音程が上がり、楽しそうな調子までついていた。


 ピコの頭に、セレスティアの私室へ置かれた小さな城が浮かんだ。白いテーブルには妖精用のカップが二つ並び、箪笥には一度も着ていない白いドレスが掛かっている。お揃いの服を着て、花の蜜のキャンディを半分ずつ食べる約束をした。あの約束を破ったままでは、立派な妖精にはなれない。


「お揃いのお洋服、着たかったのでしゅ……」

 ピコの両手が木の幹から離れた。羽が大きく開き、金色の妖精粉が満月の光を受けて舞い上がる。頭ではまだ我慢しなければならないと考えているのに、体はすでに枝から飛び出していた。


「ピコー! 返事をしてくれ!」

 アルフレッドは樫の木の下に立ち、手持ちの魔法灯を高く掲げていた。紺色の騎士服には泥が跳ね、黒い外套は枝に引っかけて何か所も裂けている。手袋をしていない右手には細かな傷があり、金髪も何日も十分に整えていないため、ピコが住んでいた頃より乱れていた。


「ここでしゅ! ここにいるでしゅ!」

 ピコは涙で前がよく見えないまま、金色の頭を目がけて飛んだ。途中で細い枝へ羽をぶつけ、一度は体勢を崩したが、止まろうとはしなかった。アルフレッドが顔を上げた瞬間、桃色の小さな体が彼の金髪へ勢いよく飛び込んだ。


「ピコ!」

 アルフレッドは頭へ両手を伸ばした。ピコは金髪を両腕両足で抱え、顔を埋めて声を上げる。何日も触れないよう我慢していた柔らかな髪から、王城の石鹸と香油の匂いがした。


「王子なのでしゅ! 本物の王子なのでしゅ!」

 ピコは髪へ何度も頬をこすりつけた。土と枯れ葉で汚れた体から妖精粉がこぼれ、アルフレッドの頭を金色に染める。王子は小さな体を両手ですくい上げると、自分の目の前まで下ろした。


「どうして黙っていなくなった。どれほど捜したと思っている」

 アルフレッドの声は強かったが、ピコを包む指先には力が入っていなかった。手のひらには剣だこや新しい傷があり、森を歩き回った跡が残っている。ピコはその傷を見つけ、両手で王子の指を包んだ。


「ごめんなさいなのでしゅ。でも、ピコがいたら、王子とセレスティア様が困るのでしゅ」

 ピコは羽を下げ、アルフレッドの婚約指輪へ目を向けた。自分は守護妖精と言いながら、王子の髪やポケットへ住み、毎日キスをしていた。セレスティアの立場を考えれば、森へ帰る以外に方法はないと思ったのだと説明した。


「勝手に決めるな」

 アルフレッドはピコを胸元へ近づけ、逃げないよう両手で包んだ。彼の鼓動が指先を通して伝わり、ピコの羽がまた大きく震える。王子は何日も眠っていないような顔で、それでも目をそらさずにピコを見つめた。


「君がいなくなれば、俺たちが幸せになると、誰が言った?」

 アルフレッドの問いに、ピコは答えられなかった。セレスティアが怒ったところを見たわけでも、王城から出ていくよう命じられたわけでもない。全部、自分一人で考え、自分一人で決めてしまった。


「だって、ピコがセレスティア様だったら、きっと困るのでしゅ」

 ピコは小さな声で言い、アルフレッドの指へ額を押し当てた。それ以上話すと、また涙があふれそうだった。すると白薔薇の香りが近づき、セレスティアが二人のそばへ膝をついた。


「わたくしは、ピコさんがいなくなって困りましたわ」

 セレスティアは茶色の乗馬服を着て、銀色の髪を一本の三つ編みにしていた。裾は泥で汚れ、白い手袋の指先も破れている。腕には白い小箱を抱え、蓋の隙間からレースの布がのぞいていた。


「でも、婚約者様なのでしゅ」

 ピコはアルフレッドの手のひらから、セレスティアを見上げた。セレスティアはうなずき、アルフレッドとの婚約は王家と公爵家が決めたものだと話した。幼い頃から二人は互いを尊重してきたが、恋人として愛を告げ合ったことは一度もない。


「わたくしとアルフレッド様は、よい友人です。ですが、夫婦になることが、わたくしたち二人の望みなのかは話し合わなければなりません」

 セレスティアは小箱を地面へ置き、ピコへ両手を差し出した。自分の人生を決めるのは自分であり、ピコが代わりに我慢して決めることではない。アルフレッドの気持ちも、彼自身が選ばなければならないと伝えた。


「ピコは、よけいなことをしたのでしゅか?」

 ピコは指をもじもじと動かした。セレスティアは余計なことではなく、誰かを傷つけまいとした気持ちはうれしいと答える。しかし、黙って姿を消したことについては、きちんと怒っていると付け加えた。


「わたくしは七日間、木の根元までのぞいて捜しましたのよ。昨日は沼へ落ち、乗馬服を一着駄目にしました」

 セレスティアが破れた手袋を見せると、ピコは口元を両手で覆った。完璧な公爵令嬢が泥だらけになって森を歩いた姿を想像し、羽をさらに下げる。セレスティアはそんなピコの額を、小指の先で優しくなでた。


「次に悩んだときは、逃げる前に話してください。これはお友達としてのお願いです」

 ピコは何度もうなずき、セレスティアの小指へ抱きついた。白薔薇の香油へ、森の土と汗の匂いが混じっている。それでもピコには、これまでで一番安心する匂いだった。


「ごめんなさいなのでしゅ。ピコ、もう勝手にいなくならないのでしゅ」

 ピコが謝ると、セレスティアはようやく頬を緩めた。ローランドも樫の木の下へ荷物を置き、厨房から持ってきた食事を取り出す。布に包まれた丸パン、温かい豆のスープ、木苺、干し肉が地面へ並べられた。


「話の続きは食事のあとです。ピコ様の腹が鳴っています」

 ローランドが指摘すると、全員の視線がピコへ集まった。ピコは両手で腹を押さえ、これは森の虫の声だとごまかした。しかし、もう一度大きな音が鳴り、近くの茂みから本物の虫まで逃げていった。


「木の実しか食べていなかったのか?」

 アルフレッドは眉を寄せ、ピコを自分の膝へ下ろした。スープの蓋を開けると、豆と燻製肉の温かな匂いが広がる。妖精用の小さな椀へスープを移し、熱すぎないよう何度も息を吹きかけた。


「森の木の実は、健康によいのでしゅ」

 ピコは強がったが、差し出された椀を両手で抱え、夢中でスープを飲んだ。温かさが喉から腹へ落ちると、羽の震えが少しずつ収まる。丸パンへ木苺のジャムを塗ってもらい、頬いっぱいに詰め込んだ。


「お・い・し・い」


「おいしいのでしゅ」


「ゆっくり食べなさい。誰も取らない」


「お口の中がパラダイスでしゅ」


 アルフレッドが口元のジャムを指で拭くと、ピコはその指へ反射的にキスをした。すぐにセレスティアの顔を見たが、彼女は怒らず、自分もピコへパンを一切れ渡す。ピコは二人の間でパンをかじり、久しぶりに羽を勢いよく動かした。


「お揃いのお洋服は、本当にあるのでしゅか?」

 食事を終えたピコが尋ねると、セレスティアは白い小箱を開けた。中には真珠の飾りを縫いつけた白いミニドレスが入っている。セレスティア自身が着る人間用のドレスと、同じ布、同じ刺繍で作られていた。


「ピコさんが帰ってきた日に着ようと決めていました」

 セレスティアはドレスを指先で持ち上げた。ピコはスープのついた手で触れそうになり、慌てて葉の器の水で手を洗う。柔らかな布へ頬を寄せると、王城の衣装部屋と同じ石鹸の香りがした。


「着たいのでしゅ。セレスティア様と一緒に着たいのでしゅ!」

 ピコは満月の下で、濡れた花びらのワンピースを脱いだ。セレスティアは布を立てて目隠しを作り、妖精の着替えを手伝う。アルフレッドが見ようとしているわけではないと抗議しても、二人から後ろを向くよう命じられた。


 白いドレスへ着替えたピコは、月明かりの中を一周した。裾の真珠が小さな音を立て、桃色の羽から金色の光が広がる。森での暮らしで髪は乱れていたが、セレスティアが小さな櫛で丁寧にとかした。


「王子、似合っているのでしゅか?」

 ピコはアルフレッドの目の前へ飛び、両手で裾を広げた。アルフレッドは素直に似合っていると答え、そのまま小さな体を手のひらへ受け止める。ピコは一度だけ迷ったあと、王子の鼻先へ抱きついた。


「今日は、がまんしなくてもよいのでしゅか?」

 ピコが尋ねると、アルフレッドはすぐに答えられなかった。婚約については、これからセレスティアと正式に話し合い、家族にも説明しなければならない。すべてを曖昧にしたまま、ピコへ都合のよい約束をすることだけは避けたかった。


「俺はまず、セレスティアとの約束に誠実に向き合う。そのあとで、君に伝えたいことがある」

 アルフレッドは婚約指輪へ目を落とした。セレスティアもうなずき、王城へ戻ったら二人で話し合うと告げる。ピコは告白を期待してはいけないと考えながらも、王子の手のひらから離れられなかった。


「それまで、ピコは王子の守護妖精でいてもよいのでしゅか?」

 アルフレッドは、もちろんだと答えた。ピコは満月へ届きそうなほど勢いよく飛び上がり、そのまま金髪の中へ頭から飛び込む。何日も空いていた自分の場所を確かめ、柔らかな毛束を両腕で抱えた。


「ここは、まだピコのおうちなのでしゅ♡」

 アルフレッドは頭上の小さな体へ片手を添えた。セレスティアは白い小箱を抱え、ローランドは食事の皿を片づける。樫の木の穴に残された硬いパンと枯れ草の寝床も、明日の朝に回収することになった。


「王城へ帰るぞ、ピコ」

 アルフレッドが馬へ乗ると、ピコは金髪の中から顔を出した。セレスティアも隣の馬へまたがり、お揃いの白いドレスを早く仕立て直さなければならないと話している。ローランドは空になったスープ鍋を鞍へ結びつけ、三人と一匹ではなく三人と一人だと、今度の報告書へ正しく書くつもりでいた。


「王子、セレスティア様、ローランド、ただいまなのでしゅ!」

 ピコの声がハーベストムーンの森へ響いた。もう我慢して木の陰へ隠れる者はいない。桃色の羽からこぼれた金色の妖精粉は、四人が王城へ帰る道を明るく照らしていた。



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