第8話 ハーベストムーンとピコの涙
第8話 ハーベストムーンとピコの涙
ピコが王城を出てから七日が過ぎた。アルフレッド、セレスティア、ローランドは毎朝、夜明けとともに王立魔導の森へ入り、日が暮れるまでピコを捜した。森の入口に張った天幕には、泥のついた外套、乾ききらない靴下、食べ残した黒パンが散らばっている。料理長が持たせた茸のスープも、アルフレッドが口をつけないまま鍋の中で冷えていた。
「殿下、今日は北の泉から調べましょう。昨夜、桃色の光を見たという猟師がいました」
ローランドは地図を広げ、木炭で印をつけた。何度も折り畳んだ紙には泥と指の脂がつき、森の東側には捜索済みを示す黒い線が重なっている。アルフレッドは紺色の騎士服の袖をまくり、冷たい水で顔を洗った。
「東の谷も、もう一度確認する。ピコは木苺のある場所へ立ち寄るかもしれない」
アルフレッドは腰へ剣を下げ、桃色の布切れを胸ポケットへしまった。森の茂みで見つけたものだったが、ピコの服から落ちた花びらなのか、ただの野花なのかは分からない。それでも彼は捨てずに持ち歩いていた。
「アルフレッド様、少しでも召し上がってください」
セレスティアは黒パンへ木苺のジャムを塗り、アルフレッドへ差し出した。彼女は歩きやすい茶色の乗馬服を着て、銀色の髪を一本の三つ編みにしている。白い手袋は枝に引っかけて破れ、右の靴には昨日踏み込んだ沼の泥が残っていた。
「君も食べていないだろう」
アルフレッドが言うと、セレスティアはパンを半分に割った。二人は天幕の前へ並んで座り、甘いジャムのついた固いパンを黙ってかじる。いつもなら紅茶の温度や食器の並べ方まで気にするセレスティアも、今は冷めた湯を木の椀から飲んでいた。
「ピコさんは、わたくしのために姿を消したのですね」
セレスティアはパンくずのついた指を布で拭いた。ピコが残した手紙には、アルフレッドとセレスティアに幸せになってほしいと書かれていた。その文字を思い出すたび、彼女は自分が贈った白いミニドレスを抱えて眠り、夜中に何度も目を覚ました。
「君のせいではない。俺が、ピコの気持ちを知りながら曖昧な態度を取った」
アルフレッドは胸ポケットに入れた手紙を上から押さえた。婚約者がいることを理由にピコへ距離を求めながら、彼女が離れれば不満を口にした。自分の都合だけで小さな妖精を振り回したのだと考えると、残ったパンを飲み込むことができなかった。
「今は責任の分け合いをしている場合ではありませんわ」
セレスティアは立ち上がり、乗馬服の裾についた草を払った。ピコを見つけたら、まず三人で話す必要がある。アルフレッドとの婚約についても、王家や公爵家の命令ではなく、自分たちの言葉で決めると彼女は告げた。
三人は北の泉へ向かい、木の根元や花の陰まで調べた。アルフレッドは何度もピコの名を呼び、セレスティアは花の蜜のキャンディを木の枝へ置いた。ローランドは干し肉を小さくちぎり、森の獣に食べられないよう布へ包んで残した。しかし、夕方になっても聞こえるのは鳥と虫の声ばかりで、桃色の羽はどこにも見つからなかった。
「ピコ、いるなら返事をしてくれ!」
アルフレッドの声が森へ響き、眠っていた鳥が一斉に飛び立った。返事を待つ間、落ち葉を踏む小動物の音までピコの足音に聞こえる。彼は茂みをかき分け、棘で手の甲を切っても歩き続けた。
「王子、こちらに妖精粉があります」
ローランドが一本の巨木の前で膝をついた。幹のくぼみに、金色の粉がわずかに付着している。アルフレッドが指で触れると、粉は弱い光を放ったあと、すぐに消えた。
「ピコさんが、ここにいたのですわ」
セレスティアは木の根元を調べ、半分だけかじられた小さな木の実を見つけた。近くには花びらを寝床にした跡もある。しかし雨が降る前の痕跡らしく、ピコがどちらへ向かったのかまでは分からなかった。
「まだ森にいる。必ず見つける」
アルフレッドは木の実を布へ包み、胸ポケットへしまった。日が沈み始めても捜索を続けようとしたが、ローランドに止められた。夜の森には魔獣が出るため、視界の悪い状態で動けば、ピコを捜す者まで行方不明になってしまう。
九日目の夜、三人は一度王城へ戻った。アルフレッドの寝室には新しいシーツが敷かれていたが、枕の右端だけは誰にも触れさせていない。妖精用の寝台には、ピコが畳んだ水色のドレスと、小さな靴が残されていた。机の上にはピコ用の皿が置かれ、料理長が毎朝届ける木苺が干からびていた。
「今夜は満月です」
ローランドは窓のカーテンを開け、空を見上げた。二〇二六年九月二十七日、日本時間の午前一時四十九分頃に満月を迎える月は、収穫期に近いことからハーベストムーンとも呼ばれる。王城の暦係も、秋の収穫を祝う月として、今夜は一年で特別な満月だと記録していた。
「妖精は満月の夜、月の光が集まる場所へ出ると図鑑に書いてありましたわ」
セレスティアは妖精図鑑を開き、何度も読んだ頁を示した。妖精の羽は満月の光を受けると強く輝き、傷ついた魔力を回復させるという。アルフレッドは上着をつかみ、再び森へ行くと言った。
「月の光が最も集まる場所は、森の中央にある鏡の泉です」
セレスティアは白いミニドレスを小箱へ入れ、自分も同行する準備をした。ローランドは厨房から丸パン、温かいスープ、水筒を受け取る。今度ピコを見つけたら、話をする前に食事をさせなければならないと、料理長から強く言い渡された。
その頃、ピコは森の中央から離れた古い樫の木で暮らしていた。幹に開いた穴へ枯れ草を敷き、木の葉を重ねて毛布を作っている。葉の皿には食べかけの木の実が二つと、森を出る日に料理長からもらったパンの欠片が残っていた。パンは硬くなっていたが、王城の匂いが消えてしまう気がして、捨てることができなかった。
「今夜のお夕飯は、木の実一つなのでしゅ」
ピコは赤い花びらのワンピースの裾を直し、木の実を両手で割ろうとした。何度押しても殻は開かず、最後には石を使ってたたいた。勢い余って中身が床へ飛び、枯れ草の中へ入ってしまった。
「王子なら、指で簡単に割ってくれたのでしゅ」
ピコはすぐに口を閉じた。王子のことを考えるのは一日三回までと決めていたのに、今日はすでに十回以上思い出している。木の実を探して枯れ草をかき回すうち、アルフレッドの金髪を包んだ小さな布が出てきた。
「見たらだめなのでしゅ」
ピコは布を寝床の奥へ隠した。しかし、しばらくするとまた取り出し、一本の金髪を指へ巻きつける。頬へ触れる柔らかな感触を思い出し、すぐに布へ戻した。
森へ帰れば、以前の暮らしに戻れると思っていた。朝露を飲み、木苺を摘み、昼には花の中で眠る。それだけで十分だったはずなのに、今では木苺を見ればアルフレッドの朝食を、花を見ればセレスティアの香油を思い出す。誰にも追い出されていないのに、森の広さばかりが目についた。
「王子とセレスティア様は、仲よくしているのでしゅ」
ピコは二人が王城の庭を並んで歩く姿を想像した。セレスティアは白いドレスを着て、アルフレッドは婚約指輪をつけている。そこに桃色の妖精はおらず、二人を困らせる者もいない。
「それでよいのでしゅ」
ピコは自分へ言い聞かせ、木の実の残りを口へ入れた。乾いた実は喉へ引っかかり、何度も咳をする。水を飲もうと葉の器を持ち上げたが、朝に汲んだ水は半分こぼれ、底へ少ししか残っていなかった。
夜が深くなると、森の木々の間から大きな満月が見えた。秋の空は高く澄み、薄い雲が月の下をゆっくり流れている。ハーベストムーンの淡い光が樫の木の穴へ入り、ピコの桃色の羽を銀色に照らした。羽の傷へ月光が染み込み、弱っていた魔力が少しずつ戻っていく。
「きれいなお月しゃまなのでしゅ」
ピコは樫の木から飛び出し、月がよく見える枝へ座った。空気は冷たく、下の草むらから秋の虫の声が聞こえる。王城であれば、アルフレッドの胸ポケットに入り、外套の中から同じ月を見られただろう。
「王子、あなたに出会えて、ピコはしあわせでした」
ピコは月へ向かって独り言をつぶやいた。魔獣から助けられた日、金髪へ飛び込んだ日、ケーキへ頭から落ちた日、同じ枕で眠った夜が次々に浮かぶ。セレスティアが作ってくれた小さな城や、水色のドレスも思い出した。
満月の光が次第にぼやけ、輪郭が二つ、三つと重なった。ピコは袖で目元を拭いたが、花びらの布が濡れるだけで、月は元の形へ戻らない。鼻をすすった音が虫の声に混じり、桃色の羽から金色の粉がこぼれた。
「だめなんでしゅ。がまんなんでしゅ」
ピコは何度も自分へ言い聞かせた。王子へ会いたい、髪の中へ帰りたい、セレスティアとお茶を飲みたいという言葉は、声に出してはいけない。口にすれば羽が勝手に王城へ向かってしまうと思い、両手で唇を押さえた。
「ピコができるのは、二人の幸せをお願いすることだけなのでしゅ」
ピコは枝の上で立ち上がり、満月へ両手を伸ばした。羽にたまっていた妖精粉へ、アルフレッドとセレスティアへの感謝を込める。すると金色の粉はいつもの光より強く輝き、秋の風に乗って森の上へ広がった。
「王子、助けてくれてありがとうなのでしゅ。セレスティア様、お友達になってくれてありがとうなのでしゅ」
ピコが羽を動かすたび、「ありがとう」の妖精粉が月明かりの中へ舞い上がった。光は木々の上を流れ、川を越え、鏡の泉の方角へ運ばれていく。ピコは涙で月が見えなくなっても、二人の幸せを何度も祈った。
鏡の泉へ向かっていたアルフレッドたちは、森の上に現れた金色の光を見つけた。満月を受けた粉は帯のように空へ伸び、風上にある古い樫の木へ続いている。セレスティアは馬を止め、白薔薇の香りに混じる、かすかな花の蜜の匂いを感じ取った。
「ピコさんの妖精粉ですわ」
セレスティアは鞍の上で身を乗り出した。アルフレッドは胸ポケットの手紙を握り、光の流れてくる方角を見定める。何日捜しても見つからなかった小さな妖精が、この光の先にいる。
「ローランド、あの樫の木へ向かう」
アルフレッドは馬の手綱を引き、森の細い道へ入った。枝が顔へ当たり、外套が棘へ引っかかっても速度を落とさない。セレスティアも白いミニドレスの箱を胸へ抱え、そのあとを追った。
ピコは誰かが近づいていることに気づかず、枝の上で月を見ていた。目元を何度拭いても、涙は止まらない。手の甲へ落ちた雫に満月が小さく映り、その周囲を金色の「ありがとう」が舞っていた。
「王子、大好きなのでしゅ」
ピコは最後に一度だけ声へ出し、両手で顔を覆った。そのとき、遠くから馬のひづめが地面を打つ音が聞こえた。さらに、何日も聞きたくて、それでも聞いてはいけないと思っていた声が、満月の森へ響いた。
「ピコ! どこにいる!」
ピコは顔を上げた。涙で曇った月の下を、三つの灯りがこちらへ近づいてくる。桃色の羽は、主人の命令を待つことなく、大きく震え始めていた。




