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第7話 ピコ、森へ帰る――つらいけど、いなくなるしかないのでしゅ

第7話 ピコ、森へ帰る――つらいけど、いなくなるしかないのでしゅ


 夜が明ける前、ピコは妖精用の寝台からそっと起き上がった。窓の外には灰色の雲が広がり、王城の屋根から昨夜の雨が一滴ずつ落ちている。隣の大きな寝台ではアルフレッドが眠り、椅子の背には脱いだ紺色の上着が掛けられていた。机には読みかけの書類、芯の短くなった蝋燭、半分残った冷たい香草茶があり、この部屋で王子と過ごした日々がそのまま置かれていた。


「今日から、もっと上手にがまんするのでしゅ」

 ピコは小さな声で言い、白い寝間着から森で着ていた赤い花びらのワンピースへ着替えた。セレスティアにもらった水色のドレスへ一度は手を伸ばしたが、それは王城で暮らすピコのために作られた服である。森へ帰る自分が持っていってはいけないと思い、丁寧に畳んで寝台の上へ置いた。


 小さな箪笥には、桃色の外套、白い靴、真珠の髪飾りが並んでいた。厨房でもらった木苺の砂糖漬けと花の蜜のキャンディも、まだ三つずつ残っている。ピコは一つだけ持っていこうとしたが、セレスティアと半分ずつ食べる約束を思い出し、包み紙から手を離した。代わりに、森から持ってきた固い木の実と、ローランドにもらった干し肉の欠片を葉の袋へ入れた。


「これはピコのものなので、持っていってもよいのでしゅ」

 ピコは自分へ確認し、葉の袋を背負った。中には木の実、干し肉、小さな木の櫛、アルフレッドの髪から落ちた金色の一本が入っている。最後の一本だけは返したほうがよいと思ったが、何度つまみ上げても袋から出すことができなかった。


 ピコは眠っているアルフレッドの枕へ飛んだ。いつも自分が寝ていた右端には、金色の妖精粉が薄く残っている。手を伸ばせば、柔らかな髪へ触れられる距離だった。ピコは両手を背中へ隠し、昨夜書いた「王子へくっつかない」という決まりを思い出した。


「王子、お寝坊なのでしゅ。今日はセレスティア様と大切なお話があるのでしゅよ」

 ピコが耳元でささやくと、アルフレッドは少しだけ眉を動かした。起きてしまうと思ったピコは慌てて枕の陰へ隠れる。しばらく待っても寝息は変わらず、ピコはもう一度顔を出した。


「最後に一回だけなら、だれも困らないのでしゅ」

 ピコはアルフレッドの頬へ近づいたが、唇が触れる直前で止まった。一回でもキスをすれば、次は鼻、額、反対の頬にもしたくなる。それでは昨日までと同じだと考え、代わりに掛け布団から出ていた王子の手へ、自分の額をそっと押し当てた。


「助けてくれて、ありがとうなのでしゅ」

 アルフレッドの指は温かく、剣を握るための硬い部分があった。その手に守られ、ケーキを食べ、同じ枕で眠った。ピコは目元を袖で何度も拭き、羽へ力を入れて手から離れた。


 窓を開けると、雨上がりの冷たい風が寝室へ吹き込んだ。机の書類が一枚めくれ、香草茶の表面に小さな埃が落ちる。ピコは振り返り、アルフレッドの寝台、自分の小さな城、散らかった机を順番に見た。どれも昨日まで自分が暮らしていた場所なのに、もう触れてはいけないものに見えた。


「つらいけど、いなくなるしかないのでしゅ」

 ピコは窓枠へ立ち、桃色の羽を広げた。それでもすぐには飛び立てず、両足で窓枠を何度も踏んだ。外から聞こえた朝番の鐘に背中を押され、ようやく灰色の空へ飛び出した。


 王城の厨房では、料理人たちが朝食の準備を始めていた。大鍋では玉葱と豆のスープが煮え、作業台には焼き上がったばかりの丸パンが並んでいる。料理長はピコ用に小さなパンを一つ焼き、木苺のジャムを塗っていた。窓の前を桃色の光が通ったことに気づき、包丁を持ったまま顔を上げた。


「ピコ様、もう起きたのですか?」

 料理長が窓を開けると、ピコは空中で止まった。声をかけられれば、朝食の匂いに負けて戻りたくなる。ピコは両手を背中へ回し、王子のお使いで森へ行くのだと嘘をついた。


「朝ごはんを持っておいきなさい。焼きたてですよ」

 料理長は小さなパンを紙へ包み、窓辺へ置いた。表面にはピコの好きな蜂蜜も一滴塗られている。ピコは受け取るのをためらったが、食べ物を無駄にしてはいけないと思い、葉の袋へしまった。


「今まで、おいしいものをいっぱいありがとうなのでしゅ」

 ピコは料理長へ深く頭を下げた。いつもなら朝食の礼だけで済むのに、今日は「今まで」と言ったため、料理長の眉が動いた。問い返される前に、ピコは厨房の屋根を越えて飛んでいった。


 洗濯場の上には、雨のため室内へ取り込まれていたシーツが何枚も下がっていた。隙間から石鹸と日なたのような匂いが漂い、洗濯係の女性たちが皺を伸ばして畳んでいる。ピコ用の小さなシーツも籠に入り、桃色の糸で名前が刺繍されていた。ピコは扉の陰から眺めたが、声をかけずに離れた。


 厩舎の前では、ローランドが朝の訓練へ向かう準備をしていた。灰色の騎士服の襟を留め、腰には剣と干し肉の袋を下げている。ピコは彼の頭上を通り過ぎようとしたが、袋から漂う香辛料の匂いでくしゃみをした。ローランドはすぐに顔を上げ、屋根の陰に隠れた桃色の羽を見つけた。


「どちらへ行かれるのですか」

 ローランドはいつもの無表情で尋ねた。ピコは王子のお使いだと答えたが、彼の目は葉の袋と、森で着ていた古いワンピースを順番に見ている。ごまかせないと思ったピコは、屋根から下りて干し草の束へ座った。


「ピコは、森へ帰るのでしゅ」

 ローランドは理由を問い詰めず、干し肉の袋から柔らかい部分を選んで差し出した。ピコが持っている欠片は何日も前のもので、すでに硬くなっていたからである。ピコは新しい干し肉を受け取ったが、口へは運ばず、葉の袋へしまった。


「殿下にはお伝えしましたか」

 ローランドが尋ねると、ピコは首を横に振った。顔を見て話せば、王子の髪へ飛び込み、離れられなくなる。だから眠っている間に帰るのだと説明した。


「黙っていなくなれば、殿下は困ります」

 ローランドは馬の鞍に載せていた水筒を持ち上げ、ピコへ一滴の水を与えた。朝露の冷たさが舌へ広がり、ピコはようやく喉を動かした。それでも、残ることはできないと小さな拳を握った。


「もしも、ピコがセレスティア様だったらって考えたのでしゅ」

 ピコは水滴の残った口元を袖で拭いた。自分の婚約者の頭や胸元へ別の女性が住みつき、毎日キスをしていたら、いくら笑っていても胸の中は違うかもしれない。セレスティアはピコに服や菓子を贈ってくれたが、その優しさに甘えてよいことにはならない。


「あんないい人たちを困らせたらだめなんでしゅ」

 ピコはアルフレッドとセレスティアが並んだ姿を思い浮かべた。二人は同じ婚約指輪をつけ、誰が見ても似合っていた。そこへ自分が割り込めば、二人だけでなく王城や公爵家の人々まで困らせることになる。


「ピコは王子が大好きなので、王子のじゃまをしたくないのでしゅ」

 ピコは涙のたまった瞳を上げ、ローランドへ王子を頼むと告げた。食事を残していたら人参まで食べさせ、夜遅くまで仕事をしていたら蝋燭を消してほしいという。ローランドは自分の仕事ではないと答えたが、最後には短くうなずいた。


「せめて、手紙を残してください」

 ローランドは厩舎の帳面から紙を一枚破り、小さく切ってピコへ渡した。紙には馬の飼料を数えた汚れた数字が残っていたため、裏側を使うことにする。ピコは木炭を握り、たどたどしい文字で一生懸命書いた。


「王子へ。ピコは森へ帰るのでしゅ。セレスティア様と幸せになるのでしゅ。お昼ごはんは残したらだめなのでしゅ」

 短い手紙を書き終えるまでに、紙にはいくつもの丸い染みができた。ピコはアルフレッドの金髪を一本だけ包み、その手紙をローランドへ預ける。ローランドは受け取ったが、すぐに王子を起こしに行こうとした。


「今はだめなのでしゅ!」

 ピコはローランドの鼻先へ飛び、両手を広げて止めた。少しだけ遠くへ行く時間がほしいと頼み、昼までは手紙を渡さないよう約束させる。ローランドは長い沈黙のあと、正午までは預かると答えた。


「ローランド、王子を守ってくれてありがとうなのでしゅ」

 ピコは彼の額へ一度だけキスをした。ローランドが驚いて目を見開いた隙に、ピコは厩舎を飛び出す。朝日が雲の間から差し込み、桃色の羽を薄く照らした。


 王都を抜ける頃には、ピコの羽は雨粒を受けて重くなっていた。市場では商人が野菜を並べ、魚屋が塩漬けの鯖を木箱から取り出している。焼き栗の匂いに腹が鳴ったが、ピコは止まらずに飛び続けた。王城から遠ざかるたびに、胸へ巻きついた細い糸が引かれるようだった。


「振り返ったら、帰りたくなるのでしゅ」

 ピコは前だけを見て、何度も羽を動かした。それでも王都の門を出たところで耐えられなくなり、街道沿いの木の枝へ降りる。遠くに見える王城の尖塔は朝霧に包まれ、アルフレッドの寝室がどこにあるのか、もう見分けられなかった。


「王子、大好きなのでしゅ」

 ピコは誰にも聞こえない声で言い、葉の袋から小さなパンを取り出した。料理長が塗った蜂蜜は雨で少し溶け、包み紙へ染み込んでいる。一口かじると、何度も食べた王城の朝食と同じ味がした。


「だから、さようならなのでしゅ」

 ピコはパンを食べきれず、残りを包み直した。両手で目元を拭き、枝から飛び立つ。王城へ背を向けた桃色の光は、王立魔導の森へ向かって小さくなっていった。


 正午の鐘が鳴る頃、アルフレッドは執務室でピコの帰りを待っていた。机には二人分の昼食が並び、ピコ用の皿には木苺と小さな卵焼きが載せられている。朝から一度も姿を見せないため、アルフレッドは何度も空の肩へ手を伸ばした。冷めたスープへ匙を入れたところで、ローランドが部屋へ入ってきた。


「殿下、ピコ様からです」

 ローランドは小さく折られた紙を机へ置いた。アルフレッドは汚れた帳面の紙を開き、曲がった文字を一つずつ読んだ。中から自分の金髪が一本落ち、冷めたスープの皿の横へ着地した。


「いつ出た」

 アルフレッドは椅子から立ち上がり、紙を握った。ローランドが夜明け前だと答えると、机のインク壺が揺れ、黒い雫が報告書へこぼれた。ピコが離れる練習をしていた理由も、昨日の一度だけのキスも、今になって一つにつながった。


「馬を用意しろ。森へ行く」

 アルフレッドは紺色の上着をつかみ、袖へ腕を通した。セレスティアとの話し合いは夕方に予定されていたが、その前にピコを見つけなければならない。ところが扉を開けた瞬間、廊下の向こうから白薔薇の香りが流れてきた。


「アルフレッド様、何がございましたの?」

 予定より早く到着したセレスティアが、銀色の髪を揺らして近づいてきた。彼女の腕には、今日ピコへ着せるはずだった白いミニドレスが抱えられている。アルフレッドは小さな手紙を差し出し、ピコが森へ帰ったと告げた。


 セレスティアは手紙を読み、白いドレスを胸へ抱きしめた。今朝まで楽しみにしていたお揃いの衣装には、一度も袖を通されていない。彼女は紙に残った丸い染みを指でなぞり、唇を固く結んだ。


「探しに参りましょう。お話は、そのあとです」

 セレスティアはドレスを侍女へ預け、歩きやすい靴を用意するよう命じた。アルフレッドは手紙と金色の髪を胸ポケットへしまい、ローランドとともに厩舎へ向かう。三人が王城を出た頃、ピコはすでに森の深い霧の中へ入っていた。



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