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第10話 婚約解消と、二人が選ぶ新しい人生

第10話 婚約解消と、二人が選ぶ新しい人生


 王城へ戻った翌朝、アルフレッドはセレスティアを南向きの応接室へ招いた。窓から秋の日差しが入り、磨かれた床へ細長い光を作っている。丸いテーブルには焼きたての胡桃パン、茸のスープ、林檎の甘煮が並んでいたが、二人とも紅茶へ口をつけただけだった。ピコは隣の寝室で眠っており、アルフレッドの枕へ両腕両足を絡ませて、何日分もの眠りを取り戻していた。


「セレスティア、俺たちの婚約について話したい」

 アルフレッドは左手の婚約指輪を見つめた。青い宝石は幼い頃から何度も見てきた色だったが、それを自分の意思で選んだことは一度もない。セレスティアも同じ指輪を白い手袋の上からなで、静かにうなずいた。


「わたくしも、そのために参りました」

 セレスティアは銀色の髪を背中へ払い、背筋を伸ばした。今日は未来の王妃として選んだ豪華なドレスではなく、白いブラウスと紺色の長いスカートを着ている。白薔薇の香油も控えめで、代わりに森でついた土と落ち葉の匂いが乗馬靴へ残っていた。


 二人の婚約が決められたのは、アルフレッドが八歳、セレスティアが六歳のときだった。顔合わせの日、アルフレッドは礼装の襟が苦しくて何度も指を入れ、セレスティアは窮屈な靴を脱ぎたくてテーブルの下で足を動かしていた。大人たちは二人が並ぶ姿を見て、理想的な王子と未来の王妃だと喜んだ。二人は意味もよく分からないまま、互いに頭を下げた。


「覚えているか。顔合わせのあと、君は俺を庭の池へ突き落とした」

 アルフレッドが言うと、セレスティアは紅茶のカップを置いた。アルフレッドが妖精図鑑を泥だらけの手で触ろうとしたため、守るには池へ落とすしかなかったのだと説明する。あの日から二人は、恋人というより、互いの失敗を知っている友人として過ごしてきた。


「あなたは泥だらけのまま、わたくしの本へ触ろうとしましたもの」

 セレスティアは懐かしそうに目を細めた。アルフレッドは外交の授業で居眠りした彼女をかばい、セレスティアは剣術大会で負けた彼が人前で泣かずに済むよう、黙って裏庭へ連れ出した。二人の間には信頼があったが、手を握りたい、抱きしめたいと望んだことはなかった。


「君を大切に思っている。それは今も変わらない」

 アルフレッドは言葉を選び、指輪から目を上げた。しかし、その大切という気持ちは、ピコへ抱くものとは違う。ピコが森へ消えた七日間、自分の肩や胸ポケットが空いているだけで、食事の味まで分からなくなった。


「わたくしも、アルフレッド様を信頼しております。ですが、あなたのお嫁様になる自分を思い浮かべても、決められた衣装を着ているようにしか感じられません」

 セレスティアは白い手袋を外し、婚約指輪を指から抜いた。指輪の下には長年つけ続けた薄い跡が残っている。彼女はその跡をなぞりながら、未来の王妃になる以外の人生を考えることさえ許されないと思っていたと打ち明けた。


「ピコさんと出会って、初めて自分からやりたいと思えることを見つけました」

 セレスティアは鞄から、妖精について調べた分厚い帳面を取り出した。表紙にはインクの染みがあり、間には押し花、ドレスの布、ピコの妖精粉がついた紙が挟まっている。人間に誤解されている妖精の暮らしを調べ、互いに安全に交流できる場所を作りたいという。


「王妃になれば、できないことではない」

 アルフレッドが確かめると、セレスティアは首を横に振った。王妃の権力を借りるのではなく、一人の研究者として妖精たちの信頼を得たい。自分の名前で働き、自分の失敗も自分で引き受けたいと考えていた。


「わたくしは、あなたの妻ではなく、あなたの友人として王国を支えたいのです」

 セレスティアは指輪をテーブルへ置いた。青い宝石が日差しを反射し、二人の間に小さな光を作る。アルフレッドも自分の指輪を外し、その隣へ並べた。


「俺も同じだ。婚約を解消し、それぞれの人生を選ぼう」

 二人は向かい合い、幼い頃に交わしたものとは別の約束をした。夫婦にはならなくても、友人として互いを支え、困ったときには力を貸す。冷めた茸のスープの横で、二つの婚約指輪だけが静かに並んでいた。


 しかし、王家と公爵家は簡単には認めなかった。その日の午後、アルフレッドは国王エドワードの執務室へ呼び出された。机には各地から届いた報告書が積まれ、食べかけの焼き栗と、飲み残した濃い紅茶が置かれている。国王は婚約解消の申請書を手にし、太い眉を寄せた。


「王家とローゼンバーグ公爵家の結びつきは、国の安定に必要だ。それを妖精への恋で壊すつもりか」

 エドワードの声が広い部屋へ響いた。アルフレッドは黒い正装の襟を正し、逃げずに父親の目を見た。ピコと出会ったことは決断のきっかけだが、婚約解消は自分とセレスティアが話し合って選んだことだと説明した。


「セレスティアを愛していないまま王妃にすることが、国の安定につながるとは思えません」

 アルフレッドは、二人の婚姻に頼らずとも公爵家との信頼関係を保つ方法を提示した。共同事業、評議会への参加、国境地域の防衛協定など、昨夜のうちに作った資料を机へ並べる。紙の端は急いで書いたため曲がり、右袖にはインクの染みがついていた。


「次期国王としてではなく、一人の男として申しているのか」

 国王が尋ねると、アルフレッドは両方だと答えた。自分の心さえ偽る者が、国民へ誠実な政治を約束することはできない。何より、セレスティアの人生を政略の道具として扱いたくないと訴えた。


 一方、セレスティアも公爵邸で両親と向き合っていた。公爵夫人は手にしていた刺繍を膝へ置き、公爵は夕食の鴨肉が冷めても手をつけなかった。公爵家の未来、社交界の評判、王家との関係について、二人は何度も娘へ考え直すよう求めた。セレスティアは紫色のドレスの裾を握ったが、椅子から立つことも、顔を伏せることもしなかった。


「王妃になるために育てていただいたことには感謝しています。ですが、わたくしは王妃にならなければ価値のない娘なのでしょうか」

 セレスティアは妖精研究の帳面を両親の前へ置いた。妖精の魔力を利用しようとする商人の記録、人間を恐れて森の奥へ移った妖精の集落、交流に必要な規則まで調べてある。これは一時の思いつきではなく、人生をかけて取り組みたい仕事だと説明した。


「わたくしはアルフレッド様を尊敬しています。しかし、彼を夫として愛してはいません」

 セレスティアは婚約指輪を外し、母親の前へ置いた。公爵夫人は指輪と娘の顔を交互に見つめ、刺繍糸を指へ巻きつけている。長い話し合いの末、娘が初めて自分の将来を望んでいると知り、夫人は公爵の袖を引いた。


「この子の話を、最後まで聞きましょう」

 公爵夫人の言葉をきっかけに、公爵も妖精研究の帳面を開いた。頁にはピコの食事量や昼寝の時間まで書かれており、途中には「妖精は一日に十回以上キスをする場合がある」という謎の記録もあった。公爵は眉を上げたが、最後まで帳面を読み、条件つきで婚約解消を受け入れた。


 それから十日後、王家と公爵家は正式に婚約解消を発表した。アルフレッドとセレスティアは国王の前で二つの指輪を返し、長年の約束に区切りをつけた。二人は握手を交わし、これからも友人として協力すると確認した。窓の外では洗濯係が白いシーツを干し、秋の風が王城の旗と一緒に揺らしていた。


「これで、あなたは自由ですわ」

 セレスティアが言うと、アルフレッドは彼女も自由だと返した。二人は顔を見合わせ、肩の力を抜いて笑った。婚約者として並んでいた頃よりも、今のほうが互いへ素直に向き合えていた。


 セレスティアは王国初の妖精交流調査官となり、公爵領の森に研究所を作ることを決めた。人間と妖精の双方から話を聞き、安全に交流できる決まりを整える役職である。王城から公爵邸へ研究資料を移すため、玄関には何台もの荷馬車が並んだ。箱の中には妖精図鑑、押し花の帳面、ミニドレスの型紙、飲みかけの茶葉まで詰め込まれていた。


 その日、ピコは厨房で料理長と一緒に木苺のケーキを作っていた。桃色のエプロンを着け、生クリームを混ぜるつもりが、途中から泡立て器へしがみついて回されている。ケーキが完成すると、セレスティアにも食べてもらおうと、小さな皿を抱えて玄関へ飛んだ。


「セレスティア様、ケーキができたのでしゅ!」

 ところが玄関では、セレスティアがアルフレッドへ頭を下げ、馬車へ乗ろうとしていた。侍女たちは荷物を積み終え、御者も手綱を握っている。ピコには、二人が何を話し合ったのか知らされていなかった。


「今までありがとうございました、アルフレッド様」

 セレスティアが別れを告げると、アルフレッドも彼女の新しい仕事を応援すると答えた。ピコの手から小さな皿が傾き、木苺のケーキが床へ落ちる。生クリームが磨かれた床へ広がったが、ピコは拾うこともできなかった。


「ピコのせいなのでしゅか?」

 ピコは柱の陰へ隠れ、馬車が門を出ていくのを見送った。自分が王子に抱きつき、婚約者の前で何度もキスをしたから、セレスティアが城から去ることになったのだと思った。森で二人の幸せを祈ると約束したのに、戻ってきたせいで婚約を壊してしまったと、両手で頭を抱えた。


 ピコは急いで寝室へ戻り、葉の袋へ木の実と干し肉を詰めた。前に森へ帰ったときと同じ赤い花びらのワンピースへ着替え、セレスティアにもらった白いドレスを畳む。机の上には、アルフレッドが昼食に残した人参と、冷めた紅茶が置かれていた。もう食事を残してはいけないと注意することもできないと思い、ピコは小さな木炭を握った。


「王子とセレスティア様が幸せになるまで、ピコは森でがまんするのでしゅ」

 ピコは紙へ置き手紙を書き、アルフレッドの枕へ置いた。窓を開けると秋の風が入り、畳んだ白いドレスの裾が揺れる。ピコは桃色の羽を広げ、王城の外へ飛ぼうとした。


「森へ行く前に、話す約束ではありませんでしたか?」

 背後からセレスティアの声が聞こえ、ピコは空中で止まった。振り返ると、馬車で出発したはずのセレスティアが寝室の扉に立っている。その隣にはアルフレッドとローランドもおり、三人ともピコの葉の袋を見つめていた。


「どうして、ここにいるのでしゅ?」

 ピコは窓と三人を交互に見た。セレスティアは妖精研究所へ運ぶ荷物を見送っただけで、自分はピコへ話をするため王城へ戻ってきたのだと説明する。アルフレッドは枕の置き手紙を取り上げ、二度も同じ方法で姿を消そうとしたピコへ眉を寄せた。


「もう勝手にいなくならないと約束したはずだ」

 アルフレッドが手を差し出すと、ピコは窓辺に座り込んだ。婚約が解消されたと聞かされ、羽が大きく下がる。やはり自分が二人を別れさせたのだと思い、顔を両手で覆った。


「違いますわ。婚約解消は、わたくしとアルフレッド様が望んだことです」

 セレスティアはピコの前へ手のひらを置き、目線を合わせた。王妃になる代わりに、妖精と人間を結ぶ仕事を選んだことを話す。ピコとの出会いによって、自分の人生を初めて自分で決められたのだと伝えた。


「セレスティア様は、王子のお嫁しゃんにならなくてもよいのでしゅか?」

 ピコが尋ねると、セレスティアは笑ってうなずいた。アルフレッドは大切な友人だが、夫にはならない。これからは妖精交流調査官として働き、ピコの間違った行動も一つ残らず研究記録へ書くつもりだという。


「森へ勝手に帰った回数も書くのでしゅか?」

 ピコは指を二本立てた。セレスティアは、未遂を含めて三回と記録すると答える。ピコは慌てて葉の袋を床へ置き、今回はまだ窓から出ていないため二回だと訂正した。


「それなら、ここへ残るのだな?」

 アルフレッドは窓辺へ手を差し出した。ピコはその指へ飛びつきかけたが、婚約指輪がなくなっていることに気づく。何度も見てきた青い宝石の代わりに、白い跡だけが残っていた。


「王子は、もうセレスティア様の婚約者ではないのでしゅか?」

 ピコが確かめると、アルフレッドはうなずいた。誰かに決められた約束ではなく、これからは自分が選んだ相手へ、自分の言葉で気持ちを伝える。そう話しながら、ピコを手のひらへ乗せた。


「その相手は、だれなのでしゅ?」

 ピコはアルフレッドの指を両腕で抱え、大きな瞳で見上げた。アルフレッドが答えようとすると、セレスティアが慌てて止める。正式な求婚には衣装、花、菓子、指輪、そして自分の立ち会いが必要だと主張した。


「なぜ君が立ち会う必要がある?」

 アルフレッドが尋ねても、セレスティアは当然だと胸を張った。ピコの一生に一度の大切な場面を見逃すつもりはない。さらに妖精用の花嫁衣装を自分で用意すると宣言し、ローランドへ日程調整を命じた。


「俺の求婚なのだが」

 アルフレッドは額へ手を当てたが、ピコとセレスティアはすでにドレスの相談を始めていた。床に落ちた木苺のケーキは侍女が片づけ、代わりに新しい焼き菓子と温かい紅茶が運ばれてくる。ピコはアルフレッドの手のひらへ座ったまま、蜂蜜菓子を一つ受け取った。


「セレスティア様は幸せなのでしゅか?」

 ピコが尋ねると、セレスティアは自分で選んだ仕事があること、二人の大切な友人がいることを挙げた。そのうえで、これからもっと幸せになる予定だと答える。ピコはようやく肩の力を抜き、蜂蜜菓子を半分に割った。


「それなら、ピコも森へ帰らないのでしゅ」

 ピコは半分をセレスティアへ渡し、残りを口いっぱいに頬張った。アルフレッドの指から手のひら、腕、肩と順番に飛び移り、最後は金髪の中へ飛び込む。自分の住み家がまだ残っていることを確かめると、満足そうに頬をこすりつけた。


「王子、ピコはここで待っているのでしゅ。ちゃんと自分の言葉で、好きな人を教えるのでしゅ♡」

 アルフレッドは頭上のピコへ片手を添え、必ず伝えると約束した。セレスティアは求婚用の衣装を考えるため帳面を開き、ローランドは森へ帰った回数を二回と訂正する。婚約は終わったが、アルフレッドとセレスティアの友情は変わらず、その間には桃色の羽を持つ小さな友人が残った。


 三人は冷める前に紅茶を飲み、床へ落ちなかった新しい木苺のケーキを分け合った。ピコは生クリームを鼻につけ、アルフレッドの髪から顔を出して笑っている。セレスティアは自分で選んだ新しい仕事の話をし、アルフレッドは自分で選ぶ求婚の日を考えた。それぞれが別の道へ進むことを決めても、同じテーブルで笑うことはできた。



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