第4話 おっきな恋のライバル、婚約者様のご到着なのでしゅ!
第4話 おっきな恋のライバル、婚約者様のご到着なのでしゅ!
セレスティア・フォン・ローゼンバーグ公爵令嬢が王城を訪れるという知らせは、朝食の席でアルフレッドから告げられた。彼は白いシャツの上に紺色の正装を着込み、金糸で刺繍された襟を侍従に整えてもらっている。食卓には焼きたての胡桃パン、茸入りの卵焼き、林檎の甘煮が並び、ピコの前にも指先ほどのパンと小さく切った苺が用意されていた。窓の外では夜明け前に降った雨が薔薇の葉に残り、開いた窓から湿った土の匂いが入ってきた。
「セレスティアが昼前に来る。森の調査について、彼女の父上から預かった資料も持参するそうだ」
アルフレッドは胡桃パンを切り分け、薄くバターを塗った。婚約者という言葉を聞いたピコは、苺を口へ運びかけた姿勢で止まった。昨日まで一日十回に減らすと宣言していたキスが、今日は一度もできなくなるかもしれないと考え、手にしていた苺を皿へ戻した。
「こんやくしゃ様が、お城に来るのでしゅか?」
ピコはアルフレッドの左手にある青い宝石の指輪を見つめた。胸の奥へ冷たい木の実を飲み込んだような感覚が広がり、桃色の羽がゆっくり下がる。それでも誰かの大切な人を奪ってはいけないという誓いを思い出し、両手で頬をたたいた。
「今日こそ、本当の本当にがまんするのでしゅ。ピコは王子から百歩離れるのでしゅ!」
ピコは椅子から立ち上がり、テーブルの上を歩き始めた。一歩が三センチほどしかないため、百歩進んでも食卓から出られない。四十二歩目で林檎の甘煮の匂いに負け、足を止めて一切れだけ口へ入れた。
「まず朝食を済ませなさい。百歩離れる必要もない」
アルフレッドはピコの椅子を元の場所へ戻し、皿へ新しい苺を載せた。セレスティアは礼儀を重んじる女性だが、理由もなく小さな妖精を責めるような人ではない。それでもピコは、婚約者から見れば王子のポケットや髪に住みつく自分は十分怪しいと考え、苺をかじりながら何度も首を横に振った。
朝食後、王城では公爵令嬢を迎える準備が始まった。玄関広間の床は鏡のように磨かれ、侍女たちは昨日飾った花から傷んだものを一本ずつ抜いている。洗濯係の女性は客室の白いシーツを交換し、厨房では昼食用の鴨肉を香草と葡萄酒へ漬け込んでいた。廊下には蜜蝋と焼きたてのパンの匂いが混ざり、使用人たちの靴音が絶えず響いていた。
「婚約者様は、どれくらいおっきいのでしゅ?」
ピコはアルフレッドの肩へ座り、侍女たちの働く姿を眺めながら尋ねた。アルフレッドは人間の女性として普通の背丈だと答えたが、ピコにとっては人間なら誰でも山のように大きい。踏まれないよう気をつけなければならないと思い、王子の襟を両手で強くつかんだ。
「セレスティア様は、怖いお顔なのでしゅか?」
ピコが耳元でささやくと、アルフレッドは彼女の姿を思い浮かべた。セレスティアは社交の場で感情を乱さず、誰に対しても正しい礼儀を守る。幼い頃、泥遊びをして服を汚したアルフレッドを無言で池へ突き落としたこともあるが、その思い出は今ここで話さないほうがよいと判断した。
「気品があり、聡明な女性だ。話せば分かる」
アルフレッドが答えると、ピコはさらに肩を落とした。気品も聡明さも自分にはなく、昨日は会議中に王子の耳を甘噛みしたばかりである。今朝も花びらのワンピースを前後逆に着て、侍女に直してもらった。
「ピコには、食欲と羽しかないのでしゅ」
ピコは自分の丸い腹を見下ろし、朝食の林檎を三切れ食べたことまで後悔し始めた。アルフレッドは、森で魔獣に追われながらも諦めなかった勇気があると伝える。するとピコは少しだけ羽を上げ、王子を守る重たい愛も持っていると付け加えた。
「それは自分で言うことなのか?」
アルフレッドが笑うと、ピコは彼の頬へ飛びつきかけた。しかし、今日は婚約者が来ることを思い出し、空中で急停止する。勢いを失った体はそのまま落下し、アルフレッドの胸ポケットへすっぽり収まった。
「今のは事故なのでしゅ。抱きつこうとしたのではないのでしゅ」
ピコはポケットから顔を出し、聞いていた侍女たちへ向かって弁解した。侍女たちは花瓶を抱えたまま、分かっていますとうなずく。全員の口元が緩んでいたため、ピコは信用されていないことだけは理解した。
午前の執務中も、ピコは落ち着かなかった。机の上には地方から届いた帳簿が積まれ、一番上の紙には運搬中についた泥の跡が残っている。アルフレッドが羽根ペンを動かす横で、ピコは自分の服装を何度も確かめた。今日は赤い薔薇の花びらを三枚重ねたワンピースに、若草色の蔓を腰紐として結んでいる。
「婚約者様のお洋服も、花びらなのでしゅか?」
ピコはスカートの裾を広げ、虫に食われた小さな穴を見つけた。急いで閉じようと両手で引っ張ると、穴はかえって大きくなった。アルフレッドは羽根ペンを置き、机の引き出しから裁縫道具を取り出した。
「人間の服は布で作る。これは侍女に直してもらおう」
アルフレッドが呼び鈴へ手を伸ばすと、ピコは慌てて止めた。穴を直してもらっている間にセレスティアが到着したら、服を着ていない姿で会わなければならないと思ったのである。王子のハンカチを体へ巻く案も出たが、白い布が大きすぎて、ピコがどこにいるのか分からなくなりそうだった。
「私が縫おう」
アルフレッドは細い糸を針へ通し、破れた花びらを慎重に縫い合わせた。王子が裁縫できることに驚いたピコへ、遠征先では服のほつれくらい自分で直すと説明する。縫い目は少し曲がったが、ピコは新品よりすてきだと言い、直された場所へ何度も頬をこすりつけた。
「王子が縫ってくれたお洋服は、宝物なのでしゅ♡」
ピコは感激してアルフレッドの指へ抱きついた。数秒後、自分が我慢中だったと思い出し、ぱっと両腕を離す。アルフレッドは何も言わず、もう一度羽根ペンを持ったが、署名するはずの場所へ少しだけインクを落とした。
正午が近づくと、王城の正門へ公爵家の馬車が到着した。白い車体には薔薇の紋章が描かれ、四頭の黒馬は銀色の飾りをつけている。御者が扉を開けると、先に二人の侍女が降り、そのあとから淡い紫色のドレスをまとったセレスティアが姿を現した。銀色の髪は宝石のついた髪飾りでまとめられ、手には白いレースの手袋をはめていた。
「おっきいのでしゅ……」
玄関広間の柱の陰から見ていたピコは、思わず声を漏らした。セレスティアはピコの十倍以上の背丈があり、背筋を伸ばして歩く姿には、周囲の者が自然に道を譲る気品がある。白薔薇の香油が風に運ばれ、森の花びらをまとったピコの鼻先まで届いた。
ピコは自分の手足を見下ろした。靴は朝露で濡れた木の葉を乾かして作ったもので、片方の紐はすでにほどけている。アルフレッドに縫ってもらったワンピースも、セレスティアの絹のドレスと並べれば野原の落とし物に見えた。ピコは髪へ手を当てたが、朝食のパンくずが一つ出てきた。
「婚約者様は、きらきらなのでしゅ。ピコは、パンくずなのでしゅ」
ピコがつぶやくと、隣に立っていたローランドが膝を折り、小さな櫛を差し出した。厨房の料理長が蜂蜜菓子を作るときに使う道具を借りてきたらしい。ピコは礼を言い、桃色の髪を急いでとかした。
「パンくずは取れました。これで妖精に見えます」
ローランドが真顔で言うと、ピコは最初から妖精だと抗議した。ローランドは訂正せず、今度は花びらの裾についた砂糖を指で払った。二人が身支度に苦労している間に、アルフレッドはセレスティアを迎えるため玄関へ進んでいた。
「ようこそ、セレスティア。遠いところをよく来てくれた」
アルフレッドが右手を差し出すと、セレスティアは優雅に手を重ねた。二人の指には同じ青い宝石の指輪があり、並ぶと婚約者同士であることがはっきり分かる。ピコは胸の前で両手を握り、自分は守護妖精だから気にしてはいけないと何度も言い聞かせた。
「お招きいただき、ありがとうございます。父からの資料もお持ちしましたわ」
セレスティアは侍女へ目配せし、革張りの箱を差し出させた。落ち着いた声は広い玄関にもよく通り、アルフレッドも公務の顔で応じている。二人が並んで歩き始めると、王城に飾られた王子と王女の絵のように見えた。
ピコは二人から離れようと、柱の陰で後ずさった。しかし、アルフレッドとセレスティアが近づくほど、小さな足は反対に王子のほうへ動いた。床を歩く人々の靴音が急に大きく聞こえ、踏まれる想像をしたピコは我慢の誓いを忘れて飛び立った。
「王子、緊急避難なのでしゅ!」
ピコはアルフレッドの上着へ突進し、襟元から胸の内側へ潜り込んだ。突然冷たい手足が触れたため、アルフレッドは肩を揺らす。セレスティアは足を止め、婚約者の胸元から桃色の羽が消えていくところを見つめた。
「アルフレッド様、今、胸元へ何か入りませんでしたか?」
セレスティアの声は穏やかだったが、ピコの耳には尋問の鐘のように響いた。アルフレッドは襟元へ手を入れ、シャツをつかんで離れないピコを引き出そうとする。しかし、ピコは布を両腕で抱え、足まで突っ張って抵抗した。
「森で保護した妖精だ。危険な存在ではない」
アルフレッドは事情を説明しながら、どうにかピコの腰を指先で支えた。ピコは胸元から顔だけを出し、セレスティアの紫色の瞳と目が合うと、すぐに引っ込んだ。白薔薇の香りが近づき、心臓の鼓動まで早くなった。
「妖精ですって?」
セレスティアの整った眉が、わずかに上がった。彼女はアルフレッドの胸元をまっすぐ見つめたまま、どこで出会い、なぜ城へ連れ帰ったのかを尋ねる。アルフレッドは魔獣に襲われていたこと、羽を負傷していたこと、自分の守護妖精になると本人が主張していることを順番に話した。
「それだけではないでしょう」
セレスティアはアルフレッドの襟に付着した金色の妖精粉へ目を向けた。さらに右頬へ小さく残った桃色の口紅のような跡を見つけ、紫色の瞳を細める。今朝、ピコが我慢できずに一度だけキスした跡だった。
「ピコは怪しくないのでしゅ!」
ピコは胸元から叫んだが、姿は見せなかった。森の平和を守り、王子の体調を確認し、食べ残した昼食まで口へ運ぶ立派な守護妖精だと説明する。ところが話せば話すほど、王子の生活へ深く入り込んでいることが明らかになった。
「毎晩、どこで眠っているのです?」
セレスティアが尋ねると、ピコは答えに詰まった。最初は妖精用の寝台で眠るつもりだったが、朝になるとなぜか王子の枕や胸元にいる。嘘をついてはいけないと思い、その事実も小さな声で白状した。
「昨日は王子の胸で眠ってしまったのでしゅ。でも、温めていただけなのでしゅ!」
セレスティアの表情から微笑が消えた。アルフレッドは額へ手を当て、誤解を招く言い方をやめるようピコへ伝える。玄関広間にいた侍女や衛兵は仕事を続けるふりをしながら、三人の会話へ耳を傾けていた。
ピコは、このまま隠れていては立派な守護妖精になれないと考えた。王子の婚約者に追い出されるとしても、最後まで礼儀を守らなければならない。そこでアルフレッドの胸ポケットに隠していた細い木の枝を取り出し、震える両手で構えた。
「ピコ、なぜ武器を持っている?」
アルフレッドが尋ねると、ピコは森の妖精に代々伝わる魔法の杖だと答えた。実際には、庭で見つけて拾った普通の小枝である。先端には昼食に食べた果実の皮が刺さっており、威力があるようには見えなかった。
「婚約者様と戦ってはいけないのでしゅ。でも、追い出される前に、ピコが悪い妖精ではないと伝えるのでしゅ!」
ピコは意を決し、アルフレッドの胸元から飛び出した。桃色の羽を広げ、小枝を剣のように構える。ところが勢いをつけすぎたため空中で一回転し、小枝から果実の皮が飛んでローランドの額へ張りついた。
「王子は婚約者様のものでしゅ。ピコはちゃんと、がまんしているのでしゅ!」
ピコは涙のたまった大きな瞳でセレスティアを見上げ、王子を奪うつもりはないと訴えた。その言葉とは裏腹に、着地した場所はアルフレッドの肩であり、片手は彼の金髪をしっかりつかんでいる。アルフレッドは、これを我慢と呼んでよいのか分からず、返事をせずに見守った。
セレスティアは厳しい表情のまま、アルフレッドの肩へ顔を近づけた。ピコは小枝を抱き、羽を体へ巻きつけるように閉じる。白薔薇の香りが強くなり、セレスティアの紫色の瞳に、怯えながらも逃げない小さな妖精の姿が映った。
「あなたが、ピコさんなのですね」
セレスティアはゆっくり片手を差し出した。ピコは叱られると思い、目を閉じながら小枝を頭上へ掲げる。玄関広間には、古時計の針が進む音だけが響いた。
次の瞬間、セレスティアの頬が真っ赤になった。気高く整っていた眉が下がり、固く結ばれていた唇が大きく開く。未来の王妃として一度も崩れたことのなかった完璧な微笑は、十五センチの妖精を目の前にして、跡形もなく崩壊した。




