第3話 がまんの誓いと、あふれる好き好きなのでしゅ♡
第3話 がまんの誓いと、あふれる好き好きなのでしゅ♡
翌朝、ピコはアルフレッドより早く目を覚ました。昨夜は妖精用の小さな寝台で眠ったはずなのに、今は王子の枕の上で金色の髪を両腕いっぱいに抱えている。窓の外では細かな雨が降り、濡れた石畳を荷車が通る音が聞こえていた。ピコはアルフレッドを起こさないよう髪を放したが、名残惜しくなって一房だけ頬へ押し当てた。
「今日から、がまんするのでしゅ」
ピコは小声で自分へ言い聞かせた。アルフレッドにはセレスティアという立派な婚約者がいるため、勝手に抱きついたり、同じ枕で眠ったりしてはいけない。そこでピコは、寝台に置いてあった木炭の欠片を持ち、木の葉へ「がまんの決まり」を書き始めた。
「一つ、王子に抱きつかない。二つ、王子にキスしない。三つ、王子のお耳をかじらない、なのでしゅ」
字を書くたびに木炭で指が黒くなり、花びらの寝間着にも小さな染みがついた。三つの決まりを書き終えたピコは満足してうなずいたが、肝心の文字は曲がった線と丸にしか見えない。それでも本人には読めるらしく、木の葉を寝台の壁へ貼りつけた。
そのとき、アルフレッドが寝返りを打ち、掛け布団から右腕を出した。白い寝間着の襟が少し乱れ、金髪が額へかかっている。昨夜遅くまで執務をしていたため、机には書類が積まれ、飲み残した香草茶も冷たいまま残っていた。ピコは眠る王子の顔を見つめ、決まりを書いたばかりの黒い指を握った。
「寝ている王子に一回だけなら、数には入らないのでしゅ」
ピコはそう結論づけ、アルフレッドの額へ飛んでいった。髪をそっとかき分け、唇を近づけたところで、王子の青い瞳が開く。ピコは空中で固まり、何もしていないふりをして口笛を吹いた。
「おはよう、ピコ。私の顔の前で何をしている?」
アルフレッドは上半身を起こし、枕の上に落ちていた木炭の粉を手で払った。ピコは朝の見回りだと答え、王子の鼻、眉、頬を順番に確認する。異常なしと報告したあと、我慢できずに額へ一度だけキスをした。
「決まりはどうした」
アルフレッドが指摘すると、ピコは木の葉を背中へ隠した。これは守護妖精としての健康確認であり、普通のキスではないと説明する。アルフレッドは額を押さえたが、口元にはわずかな笑みが浮かんでいた。
朝食の席では、アルフレッドが紺色の騎士服を身につけ、焼いた黒パンへバターを塗っていた。テーブルには茸のスープ、香草入りの卵焼き、薄切りの梨が並んでいる。ピコは厨房から用意してもらった木の実の椀へ座り、角砂糖ほどのパンを両手で持っていた。昨夜ケーキを食べすぎたため、料理長から朝は甘いものを控えるよう言い渡されている。
「蜂蜜を一滴だけ欲しいのでしゅ」
ピコは蜂蜜の壺を見つめ、アルフレッドへ両手を合わせた。一滴だけならよいと言われると、料理用の細い串へ蜂蜜をつけてもらい、それをパンへ丁寧に塗る。ところが一口食べたところで、アルフレッドの左手にある婚約指輪が目に入った。
「ピコは、もっと遠くに座るのでしゅ」
ピコは自分の椀を押し、テーブルの端へ移動しようとした。直径十五センチほどの木の椀は彼女の体より大きく、押してもほとんど動かない。何度も踏ん張るうちに足が滑り、ピコはパンと一緒に椀の中へ転がった。
「無理をするな。そこにいればいい」
アルフレッドは椀ごとピコを自分の近くへ戻した。ピコはパンくずのついた髪を直し、これは距離を置く練習なのだと訴える。婚約者へ失礼のない守護妖精になるため、今日から王子へ近づきすぎないつもりだった。
「その心がけは立派だ。しかし、テーブルから落ちる場所まで離れる必要はない」
アルフレッドは卵焼きを小さく切り、ピコの皿へ一つ載せた。焼きたての卵から香草とバターの匂いが立ち、ピコの羽が嬉しそうに震える。彼女はお礼を言ったあと、これは王子との間接的な愛情ではなく、ただの朝食だと三回確認してから食べた。
朝食後、アルフレッドは執務室へ向かった。ピコは距離を置くため廊下の反対側を飛んでいたが、磨かれた甲冑へ映る自分の姿に気を取られ、柱へぶつかりそうになった。さらに書類を運ぶ侍女の頭上を通った際には、開いていた窓から強い風が入り、軽い体が廊下の端まで流された。雨上がりの冷たい風に羽をあおられ、ピコはカーテンへしがみついた。
「やはり、こちらへ来なさい」
アルフレッドが手を差し出すと、ピコは迷いながら彼の周囲を一周した。肩に座れば婚約者へ悪い気がし、頭の上では近すぎる。しかし、もう一度風が吹くと、ピコは迷いを捨ててアルフレッドの上着のポケットへ飛び込んだ。
「これはくっついているのではないのでしゅ。風から身を守っているだけなのでしゅ」
ピコはポケットから顔だけを出し、誰に聞かれたわけでもないのに説明した。内側には王子が使っている香油と革の匂いが残り、胸の鼓動も布越しに伝わってくる。ピコは頬を赤くし、なるべく体へ触れないようポケットの端へ寄った。
「分かったから、そこでおとなしくしていなさい」
アルフレッドが歩き始めると、ピコは揺れるポケットの中で両手を広げ、倒れないよう踏ん張った。すぐに布の壁へ転がり、王子の胸へ背中を預ける形になる。ピコはこれも不可抗力だと小声で繰り返した。
執務室では、文官たちが朝の会議の準備をしていた。長机には地方から届いた報告書や帳簿が積まれ、端の席には誰かが昨夜食べた胡桃の殻が一つ残っている。若い文官が慌てて殻を拾い、袖口についたインクの染みを隠しながらアルフレッドへ頭を下げた。ピコはポケットから周囲を眺め、難しい顔をした大人が大勢いることに驚いた。
「殿下、森で討伐した魔獣の魔石から、吸収された精霊魔力が検出されました」
魔導官が資料を広げると、アルフレッドは椅子へ座り、内容を確認した。森の異変は一時的に収まったが、魔獣がどこから現れたのかは分かっていない。会議が長引くにつれ、テーブルの紅茶は冷め、窓から入る日差しが書類の端まで移動した。
「今後一週間、森の監視を強化する。妖精の集落にも異常がなかったか確かめたい」
アルフレッドが話していると、金髪の間から桃色の顔が現れた。ポケットにいたはずのピコが、いつの間にか上着を登り、王子の頭へ移動していたのである。文官たちは視線を上げたまま、話を聞くべきか妖精を見るべきか迷っていた。
「ピコ、なぜそこにいる」
アルフレッドが小声で尋ねると、ピコは周囲へ聞こえないよう彼の耳元へ近づいた。ポケットの中では会議の様子が見えず、王子を守れないと思ったらしい。息が耳へかかり、アルフレッドはわずかに肩を動かした。
「頭の上なら、悪い人が来てもすぐ分かるのでしゅ」
ピコはそうささやいたあと、目の前にあるアルフレッドの耳を見つめた。幼い頃から剣術の稽古をしてきたため、耳の上には小さな古傷がある。ピコはそこを治してあげたいと思い、両手で耳の縁を抱いた。
「何をしている?」
アルフレッドが振り向くより先に、ピコは耳を小さく甘噛みした。会議室にいた文官たちは一斉に書類へ目を落とし、誰も見ていなかったふりをする。ローランドだけは無表情のまま、手元の帳面に何かを書き込んだ。
「傷があったから、妖精の力で治しているのでしゅ」
ピコの唇から淡い光が広がり、古い傷を包んだ。何年も前の傷なので治療する必要はなかったが、確かに耳の周囲が温かくなる。アルフレッドは、治療に甘噛みが必要なのかと尋ねた。
「必要なのでしゅ。たぶん必要なのでしゅ」
最初は胸を張っていたピコの声が、途中から小さくなった。アルフレッドが婚約者のことを忘れていないかと聞くと、ピコは慌てて耳から離れる。文官たちは肩を震わせながら資料を読み続けた。
昼になると、城の使用人用食堂はピコの話で持ちきりになった。侍女たちは豆と鶏肉の煮込みを食べながら、王子の頭から顔を出した妖精がかわいかったと話している。洗濯係の女性はパンをスープへ浸し、今朝取り込んだシーツの一枚に金色の粉がついていたと報告した。厨房では料理長が、ピコ用の小さな食器を木工職人へ注文したという。
「ピコ様、こちらへいらっしゃいませんか?」
若い侍女が手のひらへ干した木苺を載せると、廊下を飛んでいたピコがすぐに降りてきた。今日は甘いものを控える約束だったが、木苺は森の食べ物なので菓子ではないと判断したらしい。彼女は木苺を両手で受け取り、侍女の肩へ座ってかじり始めた。
「王子様へのキスは、本当にやめられたのですか?」
侍女が尋ねると、ピコは木苺を飲み込み、自信を持ってうなずいた。朝の額への一回は健康確認であり、耳を噛んだのは治療なので、普通のキスには数えないという。侍女たちは顔を見合わせたあと、笑いをこらえながら立派だと褒めた。
「ピコは、とても強い心でがまんしているのでしゅ」
ピコが胸を張ると、通りかかったローランドが足を止めた。彼は午前の会議中に書いていた帳面を開き、王子への接触回数を読み上げる。額へのキス一回、ポケットへの侵入一回、頭上への移動二回、耳への甘噛み一回と、細かく記録されていた。
「ローランドは、いじわるなのでしゅ!」
ピコは食べかけの木苺を抱え、侍女の髪の中へ隠れた。ローランドは記録係として事実を書いただけだと答え、昼食の焼いた腸詰めを食べるため食堂へ入っていく。侍女たちは、王子とピコの様子を記録した帳面をいつか読ませてもらおうと相談し始めた。
午後、アルフレッドは執務室で山積みの書類へ署名を続けていた。昼食の魚と野菜のパイは半分残され、冷めた皿から焼いた玉葱の匂いが漂っている。肩は長時間同じ姿勢で固まり、指にはペンだこが赤く浮いていた。ピコは窓辺に置かれた小さな椅子から、その様子を何度も振り返った。
「王子、お昼ごはんを残しているのでしゅ」
ピコは心配になり、魚のパイが載った皿の前へ飛んだ。小さなフォークで一口分を切り出し、両手で持ち上げようとしたが、重すぎて動かない。そこで魚だけを指でつまみ、アルフレッドの口元まで運んだ。
「口を開けるのでしゅ」
アルフレッドは書類から顔を上げ、素直に口を開けた。ピコは魚を食べさせ、次は柔らかく煮えた人参を運ぶ。何度も往復するうちに、アルフレッドの皿は空になった。
「世話をしてもらうのはありがたいが、距離を置くのではなかったのか?」
アルフレッドが尋ねると、ピコはフォークを抱えたまま固まった。これは王子の健康を守る守護妖精の仕事であり、好きだから食べさせたのではないと説明する。アルフレッドが礼を言って頬を近づけると、ピコは反射的にその頬へ抱きついた。
「これは抱きついているように見えるが」
アルフレッドは頬についたピコを指でつまみ、手のひらへ移した。ピコは両腕を後ろへ隠し、王子が急に近づいたから体が勝手に動いただけだと訴える。その瞳は潤み、羽は叱られた犬の耳のように下がっていた。
「責めているわけではない。だが、君には君自身で決めた約束があるのだろう」
アルフレッドはピコの頭についた魚の欠片を指先で取った。婚約者がいることを忘れたふりをして、彼女の好意へ甘えてはいけない。それでもピコが離れていく姿を想像すると、書類を持つ指に力が入った。
「忘れていないのでしゅ。だから、すごくがまんしているのでしゅ」
ピコはうつむき、自分の指を数え始めた。昨日は一日のうちに十三回キスをしたが、今日は十回までに減らす予定だという。すでに健康確認の一回を使ったため、残りは九回しかないと真剣な顔で説明した。
「キスは一日十回までにしているのでしゅ。昨日より三回も減らしたのでしゅ!」
アルフレッドは額へ手を当て、しばらく返事ができなかった。十回という数字を決めた努力は認めたいが、一般的な我慢とは大きく違っている。窓辺で書類を整理していた文官も、背中を向けたまま肩を揺らしていた。
「それを我慢と呼ぶのか?」
アルフレッドが尋ねると、ピコは力強くうなずいた。羽を大きく広げ、昨日より三回も減らしたことの重大さを訴える。十回を八回に減らすには、少なくとも一か月の訓練が必要らしい。
「すごい我慢なのでしゅ♡」
ピコはそう言うと、努力を褒めてもらうためアルフレッドの鼻先へ飛びついた。鼻へ一回、右頬へ一回、左頬へ一回と、立て続けにキスをする。アルフレッドが今ので三回使ったと指摘すると、ピコは声を上げ、頭を抱えながら机の上を転がった。
夜になっても、アルフレッドの執務は終わらなかった。寝室の机には追加の書類が積まれ、蝋燭の炎が小さく揺れている。夕食に出された牛肉の煮込みはすっかり冷め、皿の表面には白い脂が浮いていた。アルフレッドは目元を指で押さえ、同じ行を三度読み直した。
「王子、もう眠るのでしゅ」
ピコは白い寝間着へ着替え、花びらの帽子までかぶっていた。妖精用の寝台には小さな毛布が敷かれ、厨房でもらった木苺が籠に入っている。ところが、ピコは自分の寝床へ入らず、アルフレッドの肩へ降りた。
「これだけ確認したら休む」
アルフレッドはそう答えたが、ペンを持つ手にはほとんど力が残っていなかった。ピコは彼の横顔を見つめたあと、騎士服の襟元から胸元へ潜り込む。突然入ってきた小さな体に、アルフレッドは背筋を伸ばした。
「ピコ、どこへ入っている」
アルフレッドが襟を引いて中を見ると、ピコはシャツ越しに胸へ両手を当てていた。桃色の羽から柔らかな金色の光が広がり、疲れで冷えていた体をゆっくり温める。森の花と蜂蜜に似た匂いが立ち、アルフレッドの重かった瞼が少しだけ軽くなった。
「王子の体が冷たくなっていたのでしゅ。ピコが温めるのでしゅ」
ピコは胸の鼓動へ耳を当て、満足そうに目を閉じた。これは守護妖精の大切な仕事であり、抱きついているわけではないという。しかし、両腕はしっかりとアルフレッドのシャツをつかんでいた。
「婚約者がいることを忘れていないか?」
アルフレッドが念のため確認すると、ピコは胸元から顔だけを出した。セレスティアの名前は忘れておらず、王子の体を温め終わったらすぐ離れるつもりだと答える。そのまま数分が過ぎても、ピコは動かなかった。
「もう温まったぞ」
アルフレッドが告げると、返事の代わりに小さな寝息が聞こえた。ピコは王子の胸へ頬を寄せ、シャツをつかんだまま眠っている。アルフレッドは起こそうとしたが、昼間にあれほど飛び回っていたことを思い出し、手を止めた。
翌朝、城の使用人たちは、ピコが王子の胸元から寝ぼけた顔を出す姿を目撃した。侍女は洗いたてのシーツを抱えたまま足を止め、料理人は朝食のパン籠を持って廊下に立ち尽くした。ピコは大きなあくびをしたあと、自分がどこで眠っていたのか気づき、慌てて飛び出した。
「これは違うのでしゅ! 王子を温めていたら、朝になっただけなのでしゅ!」
ピコが必死に説明するほど、集まった使用人たちの笑顔は広がった。その日から、王子と妖精が今日は何回キスをしたか、城のあちこちで密かに予想されるようになった。厨房にはピコ専用の木の実ケーキが並び、洗濯係は妖精用の小さなシーツを作り、門番まで彼女が通ると木苺を差し出した。
「ピコは、王子からちゃんと距離を置いているのでしゅ!」
ピコは王城の人気者になっても、自分は我慢を続けていると主張した。そのときもアルフレッドの頭へ座り、両手で金髪を抱きしめている。アルフレッドは訂正することを諦め、落ちないよう彼女の背中へ片手を添えた。




