第2話 お城には大きなベッドと甘い誘惑がいっぱいなのでしゅ!
第2話 お城には大きなベッドと甘い誘惑がいっぱいなのでしゅ!
王城の正門をくぐったピコは、アルフレッドの頭から身を乗り出し、忙しそうに首を左右へ動かした。夕日を受けた白い城壁は蜂蜜を塗った菓子のように輝き、中庭では白いエプロンをつけた侍女たちが、雨に備えて干していたシーツを取り込んでいる。騎士たちの訓練場からは剣のぶつかる音が聞こえ、厩舎から漂う干し草の匂いに、厨房から流れてくる焼き菓子の甘い香りが混じっていた。森の木の実と花しか知らないピコには、城の何もかもが珍しかった。
「大きなおうちなのでしゅ! 王子は、このお城を一人で使っているのでしゅか?」
ピコが尋ねると、アルフレッドは馬から下りながら首を横に振った。王族のほかに、文官、騎士、侍女、料理人など、千人近い者が働いていると説明する。その人数を想像できなかったピコは、両手両足の指を使って数え始めたが、二十を超えたところで諦めた。
「そんなにいたら、朝のごあいさつだけで夜になってしまうのでしゅ」
ピコは眉を寄せ、毎朝全員の頭を回って挨拶をする自分の姿を想像したらしい。アルフレッドは、守護妖精だからといって全員へ挨拶する必要はないと教えた。するとピコは胸をなで下ろし、まずは王子の世話だけを完璧にすると宣言した。
「殿下のお世話には、すでに侍従が十二人おります」
後ろからローランドが口を挟むと、ピコは頬を膨らませた。彼は栗毛の馬を従者へ預け、森で食べ残した干し肉の袋を大切そうに腰へ戻している。ピコはその袋を見て先ほどの辛さを思い出したのか、舌を少しだけ出した。
「ピコは十三人目になるのでしゅ。十三は、なんだか強そうな数字なのでしゅ!」
アルフレッドには十三のどこが強いのか分からなかったが、ピコはすっかり納得していた。彼女は頭上で立ち上がり、胸を張ろうとして足を滑らせた。アルフレッドは落ちてきた小さな体を片手で受け止め、そのまま肩へ乗せた。
城内へ入ると、正面玄関の天井には巨大なシャンデリアが下がっていた。何百もの水晶が魔法灯の光を反射し、壁や床へ虹色の模様を作っている。広間の隅では年配の侍女が花瓶の水を替えており、取り出された萎れかけの薔薇から、かすかな香油の匂いがした。ピコはアルフレッドの肩で口を開けたまま、頭上の光を見つめた。
「お空のお星しゃまが、お城の中に落ちてきたのでしゅ!」
ピコは止める間もなく飛び立ち、シャンデリアの周囲をぐるぐると回った。桃色の羽からこぼれる金色の粉が水晶へ付着し、シャンデリアはいっそうまぶしく輝いた。侍女や衛兵たちは掃除の手を止め、初めて見る妖精を見上げた。
「ピコ、ぶつかるぞ。ゆっくり飛びなさい」
アルフレッドが呼びかけた直後、ピコの額が水晶へ当たった。小さな音を立てて回転しながら落下した彼女を、アルフレッドは両手で受け止める。ピコは額を押さえ、目の前を飛ぶ見えない星を手で追い払った。
「お星しゃまに攻撃されたのでしゅ」
ピコは水晶をにらんだが、アルフレッドに額をなでられると、すぐに機嫌を直した。見物していた侍女の一人が笑いをこらえながら、冷たい水で濡らした布を持ってくる。ピコは布の端を額へ当ててもらい、その侍女に妖精用の小さな布も用意してほしいと頼んだ。
アルフレッドが執務室へ向かおうとすると、ピコの羽が急に激しく動いた。廊下の先から、焼いたバターと砂糖の匂いが流れてきたのである。床を磨いていた下働きの少年も鼻を動かし、厨房のほうを見た。朝から働いているらしく、彼の前掛けには石鹸水の白い染みがいくつも残っていた。
「王子、あちらから、とても大切な匂いがするのでしゅ!」
ピコは空中で方向を変え、匂いを追って廊下を飛んでいった。アルフレッドは呼び止めたが、桃色の羽は角を曲がって見えなくなる。ローランドは腰の干し肉を確かめ、妖精も食欲には勝てないようですねと、妙に感心した声で言った。
「追うぞ。厨房の鍋へ落ちたら大変だ」
アルフレッドは外套を侍従へ預け、ピコのあとを追った。森で泥のついた長靴は玄関で履き替えていたが、それでも磨かれた床を急ぐと靴音が大きく響く。すれ違う使用人たちは、走る第一王子を見て慌てて壁際へ避けた。
厨房では、夕食の支度が最も忙しい時間を迎えていた。大鍋では牛肉と根菜の煮込みが湯気を立て、料理人が長い木べらで焦げつかないよう混ぜている。作業台には皮をむいた玉葱、切りかけの人参、籠から転がった小さなジャガイモが並び、洗い場には昼食で使った皿がまだ積まれていた。その奥では、料理長が焼き上がったばかりの苺ケーキへ粉砂糖を振りかけていた。
「白いお山なのでしゅーーーっ!」
ピコはケーキへ向かって一直線に飛び、柔らかな生地の中央へ頭から突っ込んだ。粉砂糖が煙のように舞い上がり、料理長は絞り袋を持ったまま固まった。アルフレッドが厨房へ入ったときには、ケーキから桃色の羽と二本の脚だけが出ていた。
「ピコ、そこから出なさい」
アルフレッドが脚をそっとつまんで引き抜くと、ピコの顔は生クリームで真っ白になっていた。口の周りには苺の赤い果汁がつき、花びらのワンピースにもスポンジの欠片が張りついている。それでもピコは両手にクリームを抱え、満足そうに舐めていた。
「王子のお城は、食べられるお山まであるのでしゅ! ピコはここへ来てよかったのでしゅ♡」
ピコはアルフレッドの指へクリームを塗り、王子も食べるよう勧めた。料理長は眉をひくつかせながら、今夜の食後に出す予定のケーキだったと説明する。アルフレッドは謝罪し、新しく作るために必要な材料を使うよう命じた。
「この子の分は、もっと小さく作ってやってくれ」
アルフレッドが頼むと、料理長は親指ほどの小さなスポンジを切り出した。その上に生クリームを絞り、小粒の野苺を一つ載せる。ピコは両手を頬へ当て、宝石でも見つけたように瞳を輝かせた。
「ピコだけのケーキなのでしゅ!」
料理長が小皿を用意すると、ピコは椅子代わりの砂糖壺へ腰を下ろした。フォークでは大きすぎるため、デザート用の細い串を両手で握って食べ始める。三口目には食べる速度が落ちたが、残すのはもったいないと考えたらしく、膨らんだ腹をさすりながら最後まで口へ運んだ。
「食べすぎではないか?」
アルフレッドが心配すると、ピコは平気だと答えた直後、小さなしゃっくりをした。羽を動かそうとしても体が重く、砂糖壺から立ち上がれない。アルフレッドは指先で彼女をすくい上げ、ハンカチで顔と服のクリームを拭いた。
「王子は、ピコのお口を拭くのが上手なのでしゅ。毎日お願いするのでしゅ♡」
ピコは彼の親指へ頬を寄せ、目を細めた。料理長は壊されたケーキの前でため息をつきながらも、妖精用に残った生地を焼き始めている。ローランドは作業台の端にあったジャガイモを拾って籠へ戻し、その手際を料理長から褒められていた。
食事を終えたピコを連れ、アルフレッドは自分の寝室へ向かった。部屋には天蓋つきの大きなベッドがあり、青いカーテンと白いシーツが整えられている。窓辺の机には読みかけの歴史書と、昨夜使ったままのインク壺が置かれ、紙の端には乾いた黒い染みが残っていた。椅子には朝脱いだ部屋着が掛けっぱなしになっており、完璧な王子にも片づけの癖まではないらしい。
「ここが私の部屋だ。君の寝床は、明日までに用意させよう」
アルフレッドはピコをベッドの上へ下ろした。ピコは白いシーツを踏みしめ、足が沈む感触を何度も確かめる。やがて近くにあった大きな枕へ飛びつき、そのまま柔らかな羽毛の中へ体を沈めた。
「ふわふわなのでしゅ! 王子の頭より、もっとふわふわなのでしゅ!」
ピコは枕の上で何度も跳ね、勢い余って裏側へ転がり落ちた。シーツの上へ仰向けに倒れても、笑いながら手足を動かしている。アルフレッドが枕を元へ戻すと、ピコはその端へ頬を押しつけた。
「ここをピコのお部屋にするのでしゅ。王子は反対側で寝ればいいのでしゅ」
ピコは枕の右端へ木の実や干し肉を並べる場所を作ると言い、左端にはセレスティアからまだもらってもいない服をしまう場所まで決めた。アルフレッドが用意する小型の寝台はどうするのかと尋ねると、昼寝に使うと即答した。夜は王子を守るため、同じ枕で眠らなければならないらしい。
「同じ枕では、寝返りを打ったときに君を潰してしまう」
アルフレッドは自分の手のひらより小さなピコを見下ろした。彼女がシーツのしわへ入り込めば、気づかず上から腕を置いてしまうかもしれない。想像しただけで落ち着かなくなり、枕から離れるよう言い聞かせた。
「大丈夫なのでしゅ。王子が右を向いたら、ピコは左へ逃げるのでしゅ」
ピコは枕の上を走り、寝返りから逃げる練習を始めた。ところが三往復したところでケーキの食べすぎが響き、腹を押さえて座り込む。アルフレッドは小さな体を持ち上げ、明日、柵のついた安全な寝台を作らせると約束した。
「王子はピコのお部屋まで作ってくれるのでしゅか?」
ピコは嬉しそうに羽を動かし、アルフレッドの顔の前まで飛んだ。将来はもっと大きなベッドを用意し、自分と王子が一緒に眠れるようにすると語る。さらに白いドレスを着て王子のお嫁さんになれば、毎晩ここへいても誰にも叱られないと思いついた。
「ピコが王子のお嫁しゃんになるのでしゅ♡ 朝はほっぺにキスして起こして、お昼はポケットで一緒にお仕事して、夜はここで眠るのでしゅ!」
ピコはアルフレッドの鼻先へ抱きつき、具体的な新婚生活まで話し始めた。アルフレッドは頬を赤くしながら、鼻をふさがれて息ができないと訴える。ピコは慌てて離れたが、今度は彼の頬へ小さな唇を押しつけた。
「そう簡単に嫁になるとは言わないものだ」
アルフレッドはピコを手のひらへ移し、執務へ戻るため白い手袋を外した。森の魔獣と戦った際、手袋の指先が裂けていたのである。新しいものを出そうと引き出しを開けたとき、ピコの視線が彼の左手で止まった。
アルフレッドの指には、青い宝石をはめ込んだ銀色の指輪があった。婚約相手であるセレスティアも同じ意匠の指輪を持っている。ピコは指輪へ近づき、鏡のように磨かれた表面へ手を置いた。先ほどまで忙しく動いていた羽が、ゆっくり閉じられた。
「王子、このきれいな輪っかは何なのでしゅか?」
ピコは指輪を見たまま尋ねた。アルフレッドは一瞬だけ答えを迷ったが、隠してよいことではない。セレスティア・フォン・ローゼンバーグという公爵令嬢と婚約している証だと、はっきり説明した。
「こんやくとは、何なのでしゅか?」
ピコは意味を確かめるように、聞き慣れない言葉をゆっくり繰り返した。アルフレッドは、将来夫婦になると約束した相手だと教える。ピコは手にしていた厨房の砂糖菓子を見下ろし、それを机の小皿へそっと戻した。
「王子には、もうお嫁しゃんになる人がいるのでしゅね」
ピコは乱れた花びらのワンピースを両手で直し、枕の端に置いた木の実を拾い集めた。頬には乾きかけたクリームがまだ少し残っていたが、舐めようとはしない。作るはずだった枕の上の家も、もう片づけたほうがよいのかと尋ねた。
「まだ結婚したわけではないが、大切な約束だ」
アルフレッドはピコの変化に気づき、彼女と目線を合わせるため机へ手のひらを置いた。セレスティアとは幼い頃からの知り合いで、両家が認めた正式な婚約である。嘘をついたわけではなかったが、胸の奥に小さな棘が残った。
「そのお姉しゃまは、王子のことが大好きなのでしゅか?」
ピコの問いに、アルフレッドはすぐ答えられなかった。セレスティアとは互いに信頼しているが、好きだと口にしたことも、口にされたこともない。それでもピコへ複雑な事情を説明するのは難しく、婚約者として尊重しているとだけ答えた。
「分かったのでしゅ」
ピコは大きくうなずくと、アルフレッドの指輪を小さな手で磨いた。誰かの大切な人を横から取るのは、森の妖精でもしてはいけないことだという。木苺の茂みに先客がいたら、奥の実がどれほど甘そうでも、無理に押しのけてはいけないのと同じらしい。
「ピコは立派な守護妖精になるのでしゅ。王子のお嫁しゃんにはならないのでしゅ」
ピコは胸を張ったが、声はいつもより小さかった。アルフレッドの手のひらを離れ、机の上に置かれた歴史書の陰へ移動する。乾いたインクの染みを指でこすりながら、これからは王子を遠くから見守るのだと自分へ言い聞かせた。
「この部屋にいてもよい。君を追い出すつもりはない」
アルフレッドはピコのために小さな椅子を用意しようと、積み重ねた本の一冊を横へ倒した。ピコは本の上へ座り、膝を抱えたまま婚約指輪を見た。窓の外では雨が降り始め、先ほど侍女たちが取り込んだシーツが廊下を運ばれていった。
「王子を大好きなのは、今日で終わりなのでしゅ」
ピコは立ち上がり、両手を腰へ当てて宣言した。明日からは普通の守護妖精として接し、むやみに抱きついたり、キスをしたりしないという。アルフレッドは胸の奥に妙な空白を感じたが、それはよい心がけだとうなずいた。
「ピコなら約束を守れる。立派な守護妖精になりなさい」
アルフレッドが励ますと、ピコは目を潤ませながら勢いよく飛び立った。彼の右頬へ一回、左頬へ一回、額、鼻先、最後にもう一度右頬へ唇を押しつける。小さなキスの音が、静かな寝室へ五回続けて響いた。
「今のは何だ?」
アルフレッドが頬へ手を当てると、ピコは桃色の羽を動かし、枕の陰へ逃げ込んだ。白いシーツから顔だけを出し、今日はまだ大好きでいてもよい日だから、残っていた分を全部使ったのだと説明する。明日からは我慢するので問題ないと、自信満々に言い切った。
「今日の分のキスなのでしゅ♡ 明日からは、本当にがまんするのでしゅ!」
アルフレッドは返事をせず、五回も口づけられた頬を手で覆った。婚約指輪の青い宝石が、雨の日の薄暗い部屋で冷たく光っている。その夜、ピコは約束どおり妖精用の寝台へ移されたが、朝になると、なぜかアルフレッドの枕の上で彼の金髪を抱きしめて眠っていた。




