第9話「山を越えた先の焦土」
「ただいま、J。……ひどい顔をしてるな」
煤と汗で汚れた防熱ジャケットを脱ぎ捨てながら、俺は再びセーフハウスの統制室へと戻ってきた。
部屋に入った瞬間、タスクフォースの最高幹部たち、そして画面の向こうのJが一斉に、まるで神仏でも見るかのような畏怖の視線を俺に投げかけてくる。
「波瑠様……! ご無事で、何よりです。現地防衛班からメインサーバーの完全オンライン化を確認いたしました。あなた様の物理修理により、世界規模のシステム凍結という『最悪のシナリオ』だけは、完全に回避されました」
Jが深く、深く頭を下げる。だが、その声にいつものような余裕は一切なかった。
「分かっている。だが、まだ日本には帰れないな。……損失の総額を出せ」
俺は総指揮官席に座り、冷徹に命じた。
システムが復旧し、株価の下落がストップしてリバウンドに転じたのは事実だ。しかし、この数時間で世界の最上流が受けた傷跡は、あまりにも深すぎる。
アリスカがコンソールを操作し、集計データを中央ホログラムに投影した。
そこに表示された数字の羅列を見た瞬間、部屋にいた百戦錬磨のエリートたちが、一斉に息を呑んだ。
「……データセンターの一部損壊、世界的な決済遅延による賠償金、そして我がグループが株価の下落を食い止めるために市場へ投入した買い支え資金。それらを合算した現在の純損失は――1兆円(約700億ドル)に達しています」
「1兆、か」
俺は背もたれに深く寄りかかり、小さく息を吐き出した。
天才高校生キーボーディストとしての俺たちが、命を懸けたライブツアーで稼ぎ出した利益が二十億円。その額が、一瞬で豆鉄砲のように思えるほどの、天文学的な損失。
俺の全財産が三兆円とはいえ、その3分の1を、わずか数時間のテロ攻撃によって力づくで削り取られたのだ。山は越えたが、目の前に広がっているのは、文字通りの『焦土』だった。
『波瑠様、これほどの損失は我がグループの歴史上でも過去最大です。さらに、拘束されたローレンス社長の裏口座を追跡したところ、彼が買い集めていた非上場株の資金は、すでに東欧のテロ組織のフロント企業を経由して、完全に洗浄された後でした』
「最初から、俺の資産を合法的に強奪する目的で仕組まれたキャピタル・テロだったってわけだ」
俺は低く笑った。怒りを通り越し、脳の芯がジリジリと冷えていくのを感じる。
テロ組織の狙いは、単なる施設の破壊ではない。世界最強の個人投資家である俺(波瑠)を引きずり出し、その財布から数千億の資金を強引に毟り取ることだったのだ。
「ローレンスの身柄は?」
「」
現在、我が社の特殊班がハウスの地下で追跡を行っていますが……彼の行方はいまだ…ただ、彼に指示を出していた端末が先ほど回収されました」
「その端末を解析しろ。世界経済の最上流で、俺の全財産を脅かそうとした不届き者だ。どこに隠れていようが、必ず引きずり出す」
俺はコンソールに指を走らせ、タスクフォースの幹部たちを見据えた。
「お前たちは引き続き、世界市場の監視を続けろ。これ以上の売り崩しが起きないよう、スイスの裏口座からさらに2000億を予備資金として凍結解除する。それから――現地の負傷した職員と、その家族への補償は一律で通常の三倍を支払え。金ならいくらでもくれてやる」
「は、はい……! ただちに!」
幹部たちが再び怒涛の勢いで動き始める。
見た目は18歳の少年。だが、1兆という巨額の損失を目の当たりにしてもなお、眉一つ動かさずに次なる包囲網を敷くその姿は、完全に世界を裏から支配する暴君そのものだった。
Jが静かに告げる。
「波瑠様、日本で待つ SKYTOON の皆様には、機材トラブルによるフライトの遅れとして、偽のスケジュールを送信しておきました。ですが……長居はできません。次のライブまで、あと7日です」
「ああ、分かっている」
窓の外、凍てつく東欧の夜空を見つめる。
この戦いを完全に終わらせ、裏の闇を全て片付けなければ、俺の愛おしい「カモフラージュ(日常)」へ戻ることは許されない。
俺の次なる、そして本当の反撃の火蓋が、いま静かに切って落とされようとしていた。
■ あとがき&ちょっとした用語解説
第9話をお読みいただきありがとうございます!
システム自体は直ったものの、大富豪の波瑠にとっても大ダメージである「7200億円」という超巨額の損失が発覚しました。まだ日本には帰れない、緊迫した戦後処理編のスタートです。作中の補足です。
・資金の洗浄
テロ組織や犯罪グループが、盗んだり騙し取ったりした「汚いお金」を、いくつもの海外の架空の会社や口座に何度も移動させることで、出所を分からなくして「綺麗なお金」に見せかける犯罪の手法です。ローレンス社長は、テロ組織のこのシステムに利用されていました。
・予備資金の凍結解除
波瑠が普段、世界市場に影響を与えないようにスイスなどの秘密口座に「鍵をかけて保管していた」莫大な隠し資産を、緊急事態のためにいつでも使えるようにすることです。7200億を失ってもなお、さらに2000億を即座に動かせる波瑠の底知れない財力が描写されています。
引き続きおねがいします。




