第8話「心臓を繋ぎ止めろ」
「ゴホッ、ガハッ……! 最悪の環境だな、おい……!」
煙を吸わないように防熱ジャケットの襟元に顔を埋めながら、俺はメインサーバー室のと扉を力任せにこじ開けた。
室内はすでに、サウナなんて生ぬるいと言いたくなるほどの熱風が渦巻いている。天井のスプリンクラーは爆発の衝撃で配管ごと破壊されており、水が降った様子もない。
部屋の中央にそびえ立つ、時価総額700兆円の海外メガ企業の全データを司る黒い巨塔。それが世界経済の心臓部だ。
管理棟から伝わった熱のせいで、サーバーを覆うLEDインジケーターは、すべて危険を示す「赤」に染まり、警告の電子音が狂ったように部屋中に鳴り響いている。
(ブルルル……)
防熱ジャケットのポケットの中で、暗号化端末が激しく震えた。
「J、生きてるぞ。スピーカーにするから、手短に状況を言え!」
『波瑠様……! 信じられません、本当に入り込んだのですか! 現在のサーバー室の内部温度は推定で60度を超えています! 高電圧ケーブルが完全にショートし、同期が物理的に遮断されています!』
「そんなことは見れば分かる。直せばいいんだろ」
『残された時間はあと2分です! それを超えれば、基盤そのものが熱で物理的にドロドロに溶け落ちます。そうなれば、世界中の決済データも物流ラインも、文字通り永久に消滅します……!』
「2分か……。あいつらと鳴らす、新曲のサビの転調に比べれば、たっぷりと時間があるさ」
俺は冷たい床に膝をつき、ツールボックスから高精度ニッパーと圧着工具を取り出した。
高電圧が残る極太の電源ケーブルが爆風で引きちぎられ、あちこちで青白い火花を散らしている。水浸しの床に一歩間違えて触れれば、その瞬間に数万ボルトの電流が俺の身体を駆け抜け、消し炭になる。
感電の恐怖、そして迫り来る爆発の恐怖。それをすべて、脳の奥底に強制的にシャットアウトする。
(俺が守りたいのは、資産なんかじゃない)
頭をよぎるのは、放課後のスタジオ。汗をかきながら「今のフレーズ最高!」と笑うバンドメンバーの顔だ。
世界経済の崩壊なんてどうでもいい。ただ、あいつらと鳴らす、あの退屈で愛おしいカモフラージュ(日常)を、こんな場所で終わらせるわけにはいかない。
俺は工具を握り直し、引きちぎられた光ファイバーと高電圧ケーブルの束に手を伸ばした。
キーボードを叩くために極限まで鍛え上げた、ミリ単位の狂いも許さない繊細な指先。それが今、火花の散る配線を、一本ずつ、正確に結線していく。
バチッ、と火花が散って防熱グローブの表面が焦げる。だが、指先は1ミリもブレない。
一本、二本、三本……。
熱気で視界が歪み、汗が目に入って視界がぼやけるが、瞬きすら惜しい。コンソールのカウントダウンは残り「30秒」を指していた。
「……最後の一本、結線完了! J、強制再起動をかけろ!」
『起動シークエンス、開始……! 頼みます、動いてくれ……!』
一瞬の、静寂。
次の瞬間、目の前の巨塔が、まるで魂を吹き込まれたかのように、低いファン(駆動音)の唸りを上げ始めた。
赤く染まっていたLEDインジケーターが、上から順番に、鮮やかな「緑」へと次々に切り替わっていく。
『つ、繋がりました……! 全データ、無事です! 世界各地の物流・決済システム、オンラインに復帰! 市場の株価暴落も、底を打ってリバウンドを開始しました!』
インカムから、Jの歓喜の、そして安堵に震える声が響く。
「ふぅ……」
俺は工具を床に落とし、その場に背中から大の字に倒れ込んだ。
限界まで張り詰めていた神経がじんわりと解けていく。手元を見ると、指先がかすかに震えていた。
物理的な崩壊という、最悪の被害だけは未然に防ぎ切った。俺の資産も、そして日本で待っているあいつらとの日常も、首の皮一枚で繋がったのだ。
「よし……急いで着替えて、日本のスタジオに戻れるようにしないとな」
俺は立ち上がり、ブレザーについた煤を払った。世界を救う戦いはまだ始まったばかりだが、俺には何よりも優先すべき、あいつらとの「次の週末のライブ」があるのだから。
読んでいただきありがとうございます。
波瑠が直接巨塔で、データを守るというド派手な展開になりましたね。
次回、さらに進展します。テロ組織の目的とは?お楽しみに!




