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誰も本当の俺を知らない〜人気バンド天才キーボディストは裏の大富豪〜  作者: にんじんさん


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第3話「始まりの予感」


「よし、新曲のサビ、もう一回頭からいくぞ! ワン、ツー、スリー、フォッッー!」


 久の力強いカウントが響くと同時に、スタジオの狭い空間に爆音が弾けた。


 宗介の叩き出す重いバスドラが床を揺らし、それに絡みつくように結人のベースが太い低音を這わせる。蒼のギターは相変わらず鋭く、正確にコードを刻んでいく。


 俺はキーボードの前に立ち、彼らの生み出す音の渦にじっと耳を澄ませていた。そして、ここしかないという絶妙なタイミングで、鍵盤の上に指を滑らせる。

 俺の指先から紡ぎ出されるなまの旋律が、久の伸びやかなボーカルラインと綺麗に重なり、楽曲全体の輪郭を鮮やかに押し上げていった。


「――っし、そこまで! 今の繋ぎ、めちゃ最高!」

「いい感じじゃん!」


 曲が終わった瞬間、久がギターを抱えたまま、拍手しながら歓声をあげた。

 ドラムの宗介もスティックをくるくると回しながら、額の汗を拭ってニカッと笑う。


「おい波瑠、今のフレーズ何だよ! 鳥肌立ったわ。お前、昨日フレンチ食って帰った後、マジでこれ裏で仕込んできたのか?」

「ホントそれな。音源の段階だとちょっと大人しいかなって思ってたけど、ライブ映えの塊じゃん。いつの間にあんなの思いついたんだよ」


 結人がベースのネックをポンポンと叩きながら、羨ましそうに視線を送ってくる。蒼も口元をわずかに緩め、小さく頷いていた。


「あはは、昨日みんなと解散した後、なんかテンション上がっちゃってさ。家でキーボード触ってたら、ふっと浮かんできたんだ。気に入ってもらえてよかったよ」


 俺は頭を掻きながら、いかにも「少し練習を頑張った気弱な高校生」らしい苦笑いを浮かべてみせた。

 鍵盤に触れる指先には、昨日触れたあの高級フレンチの感覚が、まだ少しだけ残っている。数十万のディナーよりも、このスタジオで、こいつらと泥臭い音をぶつけ合っている時間のほうが、今の俺にはずっと贅沢に思えた。


「ちょっとトイレ行ってくる。みんなもしっかり水分補給しなよ」


 スポーツドリンクのボトルを置き、俺はスタジオの重い防音扉を開けてロビーへと出た。

 平日の夕方ということもあり、通路には人気がない。自販機の脇を通り抜け、一番奥にある非常階段の踊り場へと向かう。


(ブルルル……)


 誰もいないことを確認した瞬間、ブレザーの内ポケットで、もう一台のスマホが静かに、振動を始めた。

 世界最高峰の暗号化が施された、限られた人間にしか繋がらない特注の端末。画面には『J・K』の文字が再び冷たく光っている。


「……俺だ。手短に頼む。今は練習の合間だ」


 通話ボタンを押し、声を一段低くして囁く。


『夜分に恐れ入ります、波瑠様。スタジオでの有意義なお時間を邪魔してしまい申し訳ありません』


 スピーカーの向こうから聞こえるのは、いつも通りの冷徹で洗練された老紳士のトーン。

「何の用だ。」


『例のメガ企業の件で、一つ動きがございました。ローレンス社長から、あなたへプライベートホテルの最上階スイートでの、アフタヌーンティーの招待が届いております。特別に入手した最高級の茶葉と特製スイーツを用意したとのことですが……いかがなさいますか?』


「断れ。あの男とテーブルを挟んでも、中身のない世間話にしかならない、つまらない。」


 俺は即座に吐き捨てた。表向きは世界的な大企業のトップでも、俺から見ればただの雇われに過ぎない。しかし、Jはわずかに間を置いて、声をさらに潜めた。


『それが……今回はただの親睦会ではないようでして。我々の精査データによりますと、彼、ここ数週間でやけに特定の非上場企業の株式を、不自然な高値で買い集めている形跡がございます。おそらく、その一部をあなたに譲渡する見返りとして、何らかの『後ろ盾』を求めての席かと思われます。彼の個人的な資金繰りも、少々不透明な動きをしておりますので』


「ふん……。自分の椅子が危うくなって、大株主の俺に縋り付こうってわけか。哀れな男だな。貸しを作るにしても、相手は選びたい。適当な理由をつけて跳ね除けておけ」


『かしこまりました。そのように手配いたします。……それともう一点、東欧の物流ラインで一部の管理システムに遅延が出ていた件ですが、現地からは『軽微なシステムエラー』として処理されたとの報告が入りました。念のため、ご報告まで』


「ただのエラー、か。本当にそれだけならいいがな」


『ええ。引き続き、網は広げておきます。それでは波瑠様、良き日常を』


 ツーツーと、無機質な切断音が響く。

 スマホをポケットに収め、俺は小さく息を吐き出した。


 ローレンスが必死にかき集めている謎の株式。そして、東欧で起きたという、あまりにもタイミングの良すぎる「システムエラー」。

 世界経済の最上流で蠢く、ドロドロとした陰謀の取引の気配が、ほんの一瞬だけ、この錆びついた非常階段の空気に混ざり込んだような気がした。


 だが、すぐに頭を振って「裏の支配者」の思考をシャットアウトする。


「なーにサボってんだよ波瑠! 次、新曲の後半の展開、ちょっと変えてみたいんだけど!」


 スタジオの扉から顔を出した結人が、大声で俺を呼んでいた。


「あ、ごめんごめん! 今行くよ!」


 いつもの、少し気弱で温厚な高校生キーボーディストの笑顔を張り付け、俺はメンバーたちの待つ光の中へと走った。


 まだ、この時は良かったのだ。

 社長の必死な誘いも、遠い異国の小さなエラーも、すべては自分たちの演奏には関係のない、ノイズに過ぎないはずだった。

 それが、この愛おしいバンド活動のすべてを根底から吹き飛ばす、巨大な嵐の『最初のひと波』だということには――この時の俺を含め、まだ誰も気づいていなかった。


読んでいただきありがとうございます。

引き続きよろしくお願いします。

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