ちょっとお金を作ってきます
「――このたびはお忙しい中、弊社の選考にご応募いただき、誠にありがとうございました。選考結果について慎重に検討を重ねました結果、誠に残念ではございますが、今回はご期待に沿いかねる結果となりました。多くの企業の中から弊社にご関心をお寄せいただいたにもかかわらず、このようなご連絡となりましたことをお詫び申し上げます。セレンナーグ様の今後のご活躍をお祈り申し上げるとともに、弊社にご応募いただきましたことに深く感謝申し上げます。敬具」
住み慣れたリンデン家の、若干黴臭く感じる居間。
手にした書状を読み上げて、アリスターシャは深々とお辞儀をした。
「お祈り文書じゃないですか!」
「熟慮に熟慮を重ねた結果ではございますが……」
「もう引っ張らなくていいです」
冗談はさておき、アリスターシャだって悩んだのだ。
先日のイデス家での見合い話の帰り道、二人っきりの馬車の中で義弟のセレンナーグにくちづけられた。
青天の霹靂である。
アリスターシャたちは確かに義理の姉弟だが、お互いを子供と呼べる頃から一緒に育っている。感覚的にはほぼ、実の兄弟と変わらない。少なくともアリスターシャにとってはそうだった。
けれどセレンナーグにとっては違ったようだ。
――いいえ、姉弟はもうお終いです。
――僕じゃ、駄目ですか――?
告げられた台詞がふいに甦り、アリスターシャは手元の書面をぐしゃりと握りつぶした。
断じて、せつなげに細められた翡翠の瞳に色気を感じたりなどしていない。セレンナーグは弟、ただの弟だ。
「……そうじゃなきゃ困るのよ」
「姉上?」
「き、急に近づかないで!」
顔の前で×を作り、アリスターシャは後ずさる。
セレンナーグが捨てられた小動物のような表情をするが、ほだされてはいけない、と己を律する。
姉弟という問題もあるが、それ以上に、アリスターシャにはセレンナーグを選べない明確な訳があった。
「仮にあなたと結婚したら、我が家は没落一直線なのよ!」
財力も実業家としての能力も持たない、まだ十九歳になったばかりのセレンナーグと、彼に輪をかけて世間知らずのアリスターシャでは、お先真っ暗だ。間違いなく路頭に迷うだろう。
セレンナーグは珍しく気分を害したように眉をひそめた。
「……僕に力があれば、考えてもらえます?」
「無理ね。もう時間がないもの」
すでに家計は火の車だ。破綻するのも時間の問題だろう。
一応アリスターシャにも見合いの打診がある。貴族階級ではない商家な上に、後添いとしてだが。喜ばしい嫁ぎ先ではなくとも、援助は間違いなく期待できるだろう。あちらは地位を、こちらは金を。取引相手としては信用できる。
その場合、リンデン家はセレンナーグに継いでもらうことになる。
「モルド商会のお話を受けるわ」
「そんな! アリスタさん!」
声を荒げたのは、セレンナーグではなくその母のイリヤナだった。
そう、室内にはアリスターシャたちの両親もいたのである。
もはやアリスターシャたち二人の手に負える問題ではないので、家族会議の議題となったのだった。
両親がセレンナーグの心情を知っていたのには驚いたが、父などは「気づいていなかったのはアリスタだけだよ」と呆れた様子だった。断じて、アリスターシャが鈍感なのではないと反論したい。普通、幼い時分から共に育てば姉に恋心など抱かない。
「モルド氏は悪い方ではなさそうだが、なにぶんお年がなあ……」
「父上とそう変わらないお年ね。でも、仕方ないわ」
セレンナーグの渋面がますますひどくなる。
「姉上の言い分はわかりました。でも、僕にも多少譲歩してください。――半年、嫁ぐのは待ってください」
「半年で何をするつもり?」
「家を出ます」
「出て何をするんだい」
セレンナーグは身を翻し、父の問いかけを背中で受け止める。
「姉上が望まない結婚をしなくていいようにするに決まってるじゃないですか。時間をください。僕が必ずなんとかします」
そうして、義弟は姿を消した。
※
盛夏の茹だるような暑さが、ようやく鳴りを潜めてきた。
それでも昼日中はまだまだ汗をかいてしまう。できれば外出は避けたかったのだが、我がままは言えない理由がアリスターシャにはあった。
婚約者との逢瀬の約束である。
「――あの歌姫ツィタの絶唱が圧巻の観劇と聞いていますから、きっとアリスターシャ様のお気に召すと思いますよ」
正直なところ、家で涼んでいたい。
第一、高級劇場なんてほとんど社交界の一部だから、居心地の悪い思いをするのは目に見えている。
行き遅れ没落令嬢と年嵩の商人の婚約なんて、恰好の噂の的だ。
憂鬱な気持ちに蓋をして、アリスターシャは口角を上げてみせた。
「ありがとうございます、評判の舞台のようなので気になっていたんです。楽しみですわ」
婚約者ロレイン・モルドの丁重なエスコートで馬車を降りたアリスターシャは、差し出された彼の腕に右手を絡めて歩き出した。日傘の陰から、隣を歩くロレインの横顔を盗み見る。
運動をしているのか、引き締まった体躯をしている。姿勢もよく、四十二歳とは思えない若々しさを保っているが、やはり日に焼けた肌や目元の皺に、年齢の差を感じてしまう。
――この唇に、キスできるかしら。
アリスターシャはロレインのやや厚めの唇を見つめる。
別に嫌いではない。でも、触れ合うには抵抗がある。もし、いきなりくちづけでもされたら、突き飛ばしてしまうかもしれない。
セレンナーグの時は、驚きはしたが、嫌悪感はなかった。若い青年だからだろうか。
――そりゃあセレンだって、年を取ったら太ったり、皺ができたりするんだろうけど。その時には私も同じくらいの年齢だし……。
と、また義弟のことを考えている自分に気づいて、アリスターシャはロレインから視線をそらした。
あの日から、セレンナーグからの音沙汰はない。アリスターシャに便りひとつ寄越しはしない。
だが、行方知れずという訳でもない。
むしろ彼の話はよく耳に入ってきていた。
何なら、ここでも目にするはずだ。
「見て、ヒューゼル伯爵家のエリザンド様と、リンデン伯爵家のセレンナーグ様よ。エリザンド様のドレス、いつもどこか斬新で凝ってるのよねえ。あの方によくお似合いだわ」
「近頃よくお二人でお見かけするわよね。婚約者なのかしら」
「エリザンド様に伺ったら、何もおっしゃらずに微笑んでいらしたわ。どうなの、あれ?」
「セレンナーグ様って確かに、ちょっと見かけないくらい綺麗な方で、しかもお優しそうだけれど、『あの』リンデン伯爵家なのよね」
「あそこ、おうちが傾いてますものね。ほら、アリスターシャ様、とうとう、でしょう?」
「身売りされて――」
「ごきげんよう」
羽扇を吹き鳴らし、アリスターシャは彼女たちの傍らを一声かけて通り過ぎる。
「ちょっと、絶対聞こえてたわよ、あなた」
「なによ、本当のことじゃない」
周りの雑音なんて無視するに限る。
アリスターシャは傷つかない。こんなくだらない陰口で傷ついてなんていられない。令嬢たちの誰かが口にしたように、全部、本当のことだ。
だから――。
「エリザンド嬢、足元にお気をつけて」
「ありがとう、セレンナーグ様」
遠くからセレンナーグの楽しげな声が聞こえてきたとしても、別にどうでもいい。
「――で、どうでもよくないから憂さ晴らしにユクレール家へ来たと」
ルナリヤ・ユクレールが、呆れた顔を隠そうともせずアリスターシャへ小言を寄越す。
勝手知ったる他人の嫁入り先と、人払いのされた品のいい客間で、アリスターシャは大きく伸びをした。
「別にあんな不肖の弟なんて、どうでもいいわよ」
「素直じゃないんだから。――あの筋金入りのお姉さま大好き男が、商人のおじさんと結婚しなくていいよう動いてるんでしょう? 信じて待っててあげなさいよ」
「でも、明日で約束の半年になるのよ! なのに、なんっの連絡もないの!」
「ほらすぐ喚かない」
「他人事だから、そんな冷静なことが言えるのよ……」
アリスターシャは膝の上に抱えたクッションへ顔を伏せてしまう。
ルナリヤは、美しい白金髪が人目を惹くアリスターシャの数少ない友人だ。家族ぐるみで親交がある。アリスターシャと同い年なので、当然、既婚者だ。羨ましい。恋愛結婚なのも、ますます羨ましい。
「今まであなたに婚約者ができなかったのって、リンデンのおうちが貧乏っていうのもあるだろうけど、絶対別の原因よねえ……」
そう慰めてくれる、心優しい友なのである。別の原因とはアリスターシャの性格についてだろうか。難ありなのは自分が一番よく理解しているので、反論できない。
「いえ、まあ、そう思っておいた方が幸せかもね……。あ、実家からカイルを呼んであるから、セレンのことでも尋ねてみなさいよ。あの二人も、友達――みたいだし」
「いらないいらない、もう関係ないわよ、セレンなんて!」
「まあまあ、そうやけにならずに、ね?」
姉のように諭しながら背中を撫でてくれるルナリヤに、思わず抱きつく。
「ルナー! 大好きよ!」
「はいはい」
ひとしきり懐いていると、やがて先触れの侍女の呼びかけとともに、一人の青年が入室してきた。三白眼気味で目つきの鋭い、黒髪の男だ。整った顔立ちをしているが、険がある。第一印象はあまりよくないだろう。
抱き合っている女二人を見下ろして、心の底から嫌そうに口元を抑える。
「……あんまり二人で仲良くしてると、絶対怒られるぞ」
「誰が怒るっていうのよ、カイル」
反論するアリスターシャとは対照的に、ルナリヤは少し思案して、心もち体を離す。
「え?」
「お相手が嫉妬深いと大変よね」
「あ、旦那様ね。結婚してけっこう経つのに、仲がいいのね」
アリスターシャは居住まいを正し、カイル――カイルズ・ニルグを手招いた。カイルズはルナリヤの弟で、セレンナーグの学友でもある。
やっぱり渋い面持ちのまま近づいてきたカイルズは、
「あなたが私の婚約者になってくれれば話は早かったのよね。ニルグのおうち、財産持ちだし」
というアリスターシャのしみじみとした発言に、はっきりと目を剥いた。
「やめてくれ、セレンに殺される!」
カイルズの叫びに、ルナリヤが深く頷いたのを見て、アリスターシャはやっと気づいた。
――え、セレンの気持ちを知らなかったのって、本当に私だけだったの?
恐る恐る窺ってみると、二人揃って溜め息を吐かれた。
「昔からあからさまだったよなあ」
「ねえ。なんであの距離感で姉弟愛だと信じてたのか、逆に不思議よ。姉弟って、ふつう、我が家みたいな感じよ」
「あんまり変わらなくない?」
「あなたはね。問題はセレンの方よ!」
ルナリヤが頭を抱えてしまった。
その向かい側のソファに、やっと腰を下ろしたカイルズは、懐から一通の封筒を取り出す。リンデン家ではついぞ使われたことのない上質な紙だ。表書きは丁寧な飾り文字で書かれている。宛名はない。
「でも、ちょうどよかった。リンデン家を訪ねる手間が省けた」
「何、これ。招待状?」
「ああ、セレンからの預かりものだ」
今度はアリスターシャが苦々しい顔になる番だった。
「いらないわ。返しておいて」
「頼むから受け取ってくれ。でないと俺の命がない」
「殺されるとか命がないとか、さっきから物騒じゃない? セレンはそんな子じゃないわよ」
「だからあいつは、アリスタの前では巨大な猫を被ってるんだよ……」
この後は外せない予定が入っているのだと、冷めた紅茶を流し込み、慌ただしく帰っていったカイルズに押しつけられた封筒は、ひどく重たく感じられた。
夕食を一緒に、と誘ってくれるルナリヤへ丁重に辞去の意を伝え、自宅に戻ったアリスターシャは、一人きりの部屋で封を切る。
開いたカードには、一週間後に控えた公爵家主催の仮面舞踏会への招待の文言とともに、アリスターシャとロレインの名が記されていた。




