まったくお金がないんです
「あの子、またお見合い相手からお断りされちゃったんだってさ。アリスタ」
「セレンってば、帰ってきちゃったのよ、アリスタさん。困った子よねえ」
お断りされちゃった、では済まないのだ。
帰ってきちゃったのよ、はいそうですか、で終わらせられるなら、必死に見合い相手など見繕ってはいない。
大変だったのだ、新たな婿入り先候補を見つけるのは。
リンデン伯爵家は分かりやすく傾いている。そんな家から婿をもらうなどという話になれば、大抵の家が二の足を踏む。たとえ娘自身が彼を気に入り、婚姻を懇願したとしてもだ。
なのに、この能天気な両親ときたら。
アリスターシャ・リンデンは目を瞑って眉間をもみながら、二人に向き直った。
「……お父様、お義母様。セレンはどこですか」
すると背後から艶のある声が降ってきた。
「ここにいますよ、姉上。あなたのセレンが帰ってまいりました」
アリスターシャは無言でセレンナーグ――二つ年下の義弟の頭をはたいた。
「痛ったっ!」
癖のない銀髪が揺れる。アリスターシャの黒い癖毛とは正反対だ。
セレンナーグは頭をさすりながら、形のよい眉を下げてアリスターシャを見下ろした。我が弟ながら、とても整った顔面をしている。義母に似て、咲き初めの花のように美しい。
アリスターシャにこの容姿が備わっていたならば、話は早かったのに。
「私のあなた、じゃないのよ。なにお断りされてるの。なに帰ってきちゃってるの。ヒューゼル伯爵家なら、家格は同格、奥様になるのは美人かつ聡明な社交界の華エリザンド様で、領地は交易の要所、手堅く資産を蓄えてる上に、宝石の鉱山を複数持ってる優良株だったの! お兄様はいらっしゃるけど、どうにも評判いまいちな方らしいから婿取りになったのよ。つまりあなたの奥様が未来の伯爵様になったかもしれないの。なのになんで、なんで、帰ってきちゃったのっ?」
「だって、姉上に会いたかったので」
アリスターシャはもう一度セレンナーグの頭をはたいた。自分に非があると感じている時、セレンナーグは避けない。アリスターシャによって、幼い頃からそう教育されているもので。
アリスターシャは無言で両親を振り返ると、顎をしゃくる仕草だけで目の前のソファへ並んで座らせた。二人が縮こまりながら腰を下ろしたのを睥睨してから、その端にセレンナーグを、やっぱり眼差しだけで座らせる。
「……あねうえ」
「黙る」
「あの」
「黙りなさい」
「……はい」
両親同様、小さくなったセレンナーグにひとつ頷いてから、アリスターシャは腕組みをした。
リンデン伯爵家臨時家族会議の始まりである。
「何度も言いましたよね。我が家にはお金がないんです。セレングの婿入りだけが頼みの綱なんです」
すると父伯爵がおそるおそる右手を挙げた。
アリスターシャは黙ったまま頷き、父の発言を促した。
「セレンの婿入り・逆玉の輿で援助を狙うよりも、アリスタが資産家から婿をもらって持参金をもらう方が手っ取り早くないかい?」
グランスタン王国は長子相続である。セレンナーグも養子縁組をしているので跡継ぎには成り得るが、年長のアリスターシャが家を継ぐのが順当な流れだ。
しかしアリスターシャは鼻で笑ってみせた。
「前にも話したでしょう。持参金は一時的なものです。焼け石に水、山火事にバケツの水一杯の効果くらいしかないわ」
そう言い切ってから、一転して両手で顔を覆う。
「それに! ……私の器量では、財産がないのを押して貧乏伯爵家に婿入りしてくれる殿方が見つかりませんでした……。気づけば二十歳を越してたわ」
「こんなに可愛いのにね、姉上は」
「そうよねえ、アリスタさんは旦那様に似て魅力的なのに。ねえ、セレン」
「憐みはいらないわ……」
うなだれたまま、アリスターシャは絞り出すように呟いた。
だが、へこんでいる暇はない。資金繰りは待ってくれないのだ。
「だから、セレンがお金持ちのお嬢様に見そめられて、手練手管でうまぁく世間知らずの妻から援助を引き出してくれるしか、我が家が生き残る術はないのよ! 何回言わせるの」
はい! と今度は義母が挙手した。
アリスターシャが指名する前に話し出す。
「でもね、アリスタさん。お金は確かに大事だけれど、それだけじゃないと思うのよ。わたくし、旦那様――アリスタさんのお父様に初めてお会いした時、こうね、ビビッときたのよ。わかるかしら、左胸の辺りがね、ビビッと」
「イリヤナ……私もだよ! アリスタの母を亡くして気落ちしている私の前に現れた君は、まるで慈愛の天使のようだった――」
「はいはい、その話は長くなるからまた今度で」
両手をパンパンと打ち鳴らし、アリスターシャは脱線しかけた話の軌道修正を試みた。
「つまりお義母様は、セレンも同じようにビビッとくるやつ、いわゆる恋愛結婚をさせてあげたいとおっしゃるのね?」
両親だけでなく、セレンナーグも弾かれたように何度も頷いてみせる。
心情的には分かるのだ。アリスターシャだって悪魔ではない。八歳の頃から十三年余り、一緒に育った義弟に対する愛はある。
だが、現実は残酷なのだ。
アリスターシャは息をつくと、いつも首から下げている金庫の鍵を胸元から引っ張り出した。
アリスターシャが持っているのが一番確実だからと、父から預かっているのだ。
そうして父の書斎の方角を指し示した。
「今回、なけなしの領地だけじゃなく、この屋敷まで抵当に入ったわ。お父様が新規事業とやらに手を出したせいで」
「グランスタンではまだまだ珍しい果物を使った果実酒作りの事業だよ。当たると思わないかい?」
「思わないわ! さんざん辛酸を舐めてきたもの! どうして資金を出す前に疑わないのよ、調べないのよ! 事業は紙の上だけの偽物、見学に行った醸造工場も果実酒そのものも共同経営者も全部偽物! 差し押さえも時間の問題よ」
「姉上……」
「私たち、このままだと住むところもなくなるのよ、セレン」
アリスターシャはセレンナーグに歩み寄り、すがるようにその両肩を掴んだ。
心なしかセレンナーグの頬が薔薇色に色づく。
「ねえ、セレン、お願いよ」
アリスターシャは義弟に顔を寄せ、にっこりと微笑んだ。
「――観念してお婿に行ってちょうだい、今度こそ」
そして二ヶ月後。
アリスターシャはすこぶる上機嫌だった。
産まれた時から仕えてくれている侍女のメイサに「アリスターシャ様、何も喋っていない時にまで満面の笑顔を浮かべていらっしゃると不気味です」と苦言を呈されたが、無視である。
舗装されていない道を馬車に揺られての長旅も、着古された侍女の衣装に袖を通していることも気にならない。あ、腰はかなり痛い。
それでも、またセレンナーグの婿入り先候補が見つかった喜びに比べれば、腰痛なんて何のそのである。
笑み崩れているアリスターシャとは対照的に、セレンナーグは頬杖をつき、不満を隠そうともしない面持ちで窓の外に視線を投げている。
あからさまにご機嫌斜めだが、そこは麗しの美形。眉間にしわを寄せていても、翡翠の瞳が尖りを帯びていても、唇が真一文字を描いていても、一服の絵画のように様になっているのだった。
黒地に金刺繍の施された詰襟の礼服が、またよく似合っている。
「……姉上、嬉しそうですね」
こちらを一瞥もせず、セレンナーグが呟いた。
「そりゃあ嬉しいわよ。この間断られたヒューゼル家より、さらに条件のいい婿入り先だもの」
「侯爵家なんて、後妻の連れ子の僕には荷が重すぎますよ」
「あなただって実のお父様は男爵でしょ。爵位持ちじゃない。大丈夫、あちらから是非にと乞われてのお見合いだもの、もう上手くいく気しかしないわ」
「楽観的ですね」
皮肉げにそう笑われたので、
「なによ、あなたを信じてるのよ。こーんなにかっこいいんだもの」
と返してやると、セレンナーグは押し黙り、さらに窓の外を向いてしまう。
――我が弟ながら、ちょろい。
なにしろ姉であるから、アリスターシャはセレンナーグを動かすツボを心得ているのだ。
あの日、結局セレンナーグはアリスターシャの『お願い』に折れた。
新しいお見合い先を見つけてきたら断らない、との言質を取ったアリスターシャは、セレンナーグの相手探しに奔走した。彼を伴って大嫌いな夜会に顔を出し、友人知人顔見知りに頭を下げ、義弟を売り込んでいると、背後から視線を感じた。
給仕から新しい飲み物のグラスを受け取るふりをしながら振り向くと、勢いよく目を逸らした令嬢が一人。
アリスターシャの第六感が働く。
――セレン、と肘で腰の辺りをつつくと、夜会用に前髪を上げ、男ぶりの増したセレンナーグは、アリスターシャの目くばせに「仕方ありませんね」と囁いて、過たず目当ての令嬢の元へと歩み寄っていった。
それからとんとん拍子に話は進み、本日、お日柄もよき王国建国記念の日、アリスターシャたちは新たなる婿入り先候補のイデス侯爵領へと向かっているのである。
今まではセレンナーグと両親だけでお見合いに行かせていたのだが、今回はもう失敗できないと、アリスターシャも侍女に化けて乗り込むことにした。
侯爵令嬢ミクリアルには顔が割れているから、化粧と眼鏡、それに茶金髪の鬘で誤魔化している。硬質で真っ直ぐな髪はアリスターシャの憧れだ。知らず知らず鼻歌まで口ずさんでしまう。
「楽しそうですね、姉上」
ふと隣を見やると、恨みがましげな翡翠の瞳がアリスターシャを睨んでいた。
「楽しいに決まってるじゃない。我が家の将来が薔薇色になるかどうかは、あなたにかかってるのよ」
「……僕は楽しくない。昨日今日会ったばかりの子と結婚なんて考えられない」
「二ヶ月前に会った子だから平気よ」
「屁理屈!」
セレンナーグは乱暴に脚を組み替えて、また窓の方を向いてしまう。
アリスターシャは、なだめるようにその膝頭を軽く叩いた。
「あなただけが頼りなのよ、セレン」
「……姉上は」
「うん?」
「リンデンの家のことが一番なんですね。売られる僕の気持ちなんか、ちっとも考えてない」
「セレン様、それは言い過ぎですわ」
今まで沈黙を貫いていたメイサが咎めるように口を挟んだのを、アリスターシャは首を振って制した。
「――そうね」
セレンナーグの膝から手を離し、代わりに簡素なエプロンスカートを握りしめる。
「私が売れ残ったものだから、買い手がつくあなたが売りに出される。悪いと思ってるわ」
「そんな意味で言ったんじゃありません」
「いいのよ。どう言葉を繕ったって、意味は同じだわ。でもね、家名を残したいから、あなたに婿入りして欲しい訳じゃないの。……生活を守りたいのよ」
「生活?」
「そう。どうしようもないけど憎めないお父様がいて、ちょっとお気楽な気質のお義母様がいる我が家。私とあなたが育ったおうち。無くしたくないのは、そんな毎日なのよ。一度失ったら、きっともう戻ってこないわ」
没落すれば、雪崩のように日常は崩れ去る。今ある笑顔は消え、遠からず家族は散り散りになるだろう。最悪、命さえも奪われる。
アリスターシャたち一家だけの問題ではない。領民だってどうなるかわからない。
アリスターシャはそんな最悪な未来が訪れるのを回避したいのだった。
真摯な気持ちが伝わったのか、セレンナーグは小さく溜め息をついて「……分かりましたよ」と頷いた。
※
頷いたはずだったのに、
「――それは私の自慢のアリスターシャ姉上が得意としているのです」
――こいつ……!!
アリスターシャはセレンナーグの背後に立ち尽くし、鬘の長い前髪で表情を隠しながら、わきあがる怒りをおし殺すしかなかった。
※
遡ること数刻前。
イデス侯爵領には国内有数の穀倉地帯が含まれており、実り豊かな上に内海にも面した南寄りの広大な平原が続く。
幾つかの街を通り過ぎ、やがて見えてきた古めかしくも立派な城塞都市、その中心にそびえる堅固な砦のような城を見上げた時、アリスターシャは勝利の雄叫びをこらえるのに必死だった。
代わりに小さく拳を握る。
――やった、由緒正しき上位貴族! しかも資産家!
姉の内心が分かるとでも言いたげなやれやれ顔のセレンナーグの肩を揺さぶりながら、窓の外を舐めるように眺めやる。
「ちゃんと見ておきなさいよ、ここがあなたの故郷になるんだから」
「はあ……」
どこまでもやる気のないセレンナーグは、この際放っておくことにして、アリスターシャは巡視の気分で街を見つめた。
行き交う人々の表情はみな明るく、活気に満ちあふれている。領地が豊かな証だ。――リンデンの領民に、この顔をさせられているだろうか。アリスターシャは朱鷺色の瞳を揺らした。
城へ近づくと、到着予定に合わせてあらかじめ待機していたらしい先導の馬車に導かれ、跳ね橋を渡って城内へと入る。
馬車を降りると、もう一台の二人乗り馬車――こちらは親族からの借り物だ、リンデン伯爵家は本当は御者を雇う金だって惜しい――から姿を見せた両親と合流する。
アリスターシャはメイサの後ろ、最後尾につき、様子を窺った。
出迎えの門番のうやうやしい態度から、歓迎されている気配は伝わってくる。
正面玄関を開け放たれれば、左右に居並ぶ使用人の数に圧倒されながら、中央階段をのぼる。使用人も多ければ、そこかしこに飾られた調度品の何もかもが年代物の高価な品だ。思わず感嘆の溜め息が洩れてしまうほどの。
来賓室はさらに気品に溢れていた。
侍女に扮したアリスターシャとメイサは前室で待機するしかないが、壁際に置かれたこの椅子だって、リンデン家のどの椅子より立派なものだった。
セレンナーグたち三人は、すでに来賓室に揃っていたイデス侯爵家の面々と挨拶を交わしているようだ。
アリスターシャは必死に耳をそばだてる。会話の内容はあまり聞こえてこないものの、セレンナーグはうまくやっているようだった。時折、品の良い笑い声が混じる。
「……セレン、今回は大丈夫そうね」
メイサにそう耳打ちすると、彼女はアリスターシャを流し見て、独りごちるように呟いた。
「『今日、こちらに来ることが叶わなかったアリスターシャお嬢様』は、本当にこれでよろしいのでしょうか。セレンナーグ様を手放すことに納得されていらっしゃるのでしょうかね」
アリスターシャがセレンナーグを実の弟のように可愛がっているのを、メイサはよく知っている。姉弟を誰よりも間近で見守ってきてくれた人だった。
「……『アリスターシャお嬢様』は、『セレンナーグ様』に幸せになってほしいんだと思いますわ、『メイサ様』。このままリンデンの家にいたって、いいことはないですから。援助は別に、いえ、もらえるものなら欲しいけれど、でも、まず――『弟』に、ただ幸せになって欲しいんですわ、『姉』の分まで」
アリスターシャがそう言い切ると、メイサはもう口を開かなかった。ただ、わずかに震えるアリスターシャの拳の上にそっと手を乗せた。
――そう、セレンまで泥舟にしがみつき続ける必要はない。
まずは義弟だけでもこの困窮から抜け出せればいいと、アリスターシャは見合い話を組んでいるのだった。もちろん、援助がもらえれ有難いに越したことはないが。
しばらくすると人々が立ち上がる気配がし、セレンナーグが出てきた。エスコートするようにミクリアル・イデス侯爵令嬢の白いレース手袋に包まれた手を取って。
侍女の数を減らしたリンデン家では、アリスターシャも家事を手伝う。アリスターシャはメイサと共に立ち上がり、深くお辞儀をしながら、自分のあまり美しくない指先を見つめた。
するとセレンナーグがアリスターシャを覗き込むように視線を合わせてきた。
不躾な仕草だが、妙に似合っている。皆まだ歓談中なのか咎める者もいない。ミクリアルに至ってはセレンナーグしか見えていないようだ。よく手入れが施された金茶の巻毛の下の肌は赤く上気し、彼女がセレンナーグに夢中なのが見てとれた。
「今からミクリアル嬢に庭を案内してもらうから、ついてきてよ、『リーシャ』」
リーシャ――アリスターシャの幼少時の愛称を呼ぶ。
「ミクリアル嬢の方も従者がつくから、僕には君。未婚の男女だからね、健全にお付き合いしないと」
――ああ、相手の体裁を気にかけるだなんて、今度こそセレンも乗り気になってくれたみたい。
アリスターシャは胸内を吹き去っていった一抹の寂しさを表に出さないよう、静かに微笑んで一礼してみせた。
そして『後は若いお二人で』の舞台となる、中庭は四阿。
穏やかに春の庭を散策する彼らに付き従い、緊張からか、つっかえつっかえ話すミクリアルを見守るように、穏やかな口調で返すセレンナーグの背中を眺めているうちに辿り着いた四阿には、贅を凝らした茶会の準備が整えられていた。給仕も二人立っている。
「簡単なものですけれど、も、もう少しお話がしたくて用意させましたの。お茶にいたしましょう、セレンナーグ様」
「いいですね」
セレンナーグも応じて腰を下ろす。
そして豪華なティーセットに、まさに手をつけんとした瞬間、爆弾を落としたのだ。
「ああ、正式なグラン様式のアフタヌーン・ティーですね。アリスタ姉上ともご一緒したかったな」
ティーカップを手に取ろうとしたミクリアルの動きが止まる。
アリスターシャもセレンナーグの背後で固まった。
「アリスターシャ様……ですか?」
「ええ。姉上ときたら、木苺のパイに目がないのです。イデス侯爵家で供されるパイならきっと絶品でしょう。食べさせてあげたかったな」
アリスターシャが木苺のパイを好むという事実はない。
邪気の見えない笑みを浮かべるセレンナーグを前に、ミクリアルは落ち着きなく視線をさまよわせた。
「あ、の……よ、よろしければ、お帰りの際にお持ちになってくださ」
「ありがとうございます、姉上も喜びます」
食い気味に礼を返すと、セレンナーグはさらにまくしたてる。
「姉上といえば、お菓子作りが得意なのですよ。ミクリアル嬢もお菓子を作られますか? そうですか、是非いただいてみたいものです。でも、私の姉上は本当に何でも作ってしまうのです。母が再婚したばかりの幼い頃、まだ屋敷に慣れない私を気遣って姉上がふるまってくれた黒スグリのジャムのクッキーは、とても優しい味がしました。家族の誕生日のたびに焼いてくれるケーキも絶品ですし、もちろん料理も得意なのです。私はもう姉上の手料理無しには生きられない体になってしまいました」
ちなみにアリスターシャはお菓子作りなどほとんどしない。黒スグリのクッキーをふるまった記憶はないし、ケーキなんてとてもとても、である。料理についても言わずもがなだ。
全部セレンナーグの口から出まかせである。
しかしミクリアルは泣きそうな面持ちで身を震わせている。
「そ、んなに素晴らしい方なのですね、アリスターシャ様は」
「はい、それはもう自慢の姉上です。私の――大好きな人です」
今すぐ、目の前の弟の口を塞いで物陰へ引きずっていきたい。
そんな衝動に駆られるのを、アリスターシャは渾身の気力で耐えた。
もうすでに台無しだが、ここでアリスターシャが正体を明かせば、状況はさらに悪化の一途を辿るだろう。
――こうやって、いつも私を引き合いに出しては、あることないこと話して見合い話を潰してたのね!
全身が沸騰するような怒りに襲われているアリスターシャの、ちょうど向かい側に控えていたミクリアルの従者が、咎めるように口を開いた。
「恐れながら、セレンナーグ様。このたびは貴方様と当家の姫ミクリアル様の見合いの席でございます。姉君とはいえ、ミクリアル様とは別の女性の名を出すだけでなく、褒め称えるとは、あまりにも配慮に欠けてらっしゃるのではないでしょうか」
セレンナーグは従者の青年を見上げて、面白そうに片眉を上げた。
「配慮に欠けているのはお互い様じゃないかな。話は耳に入ってるんだ。――確か、旅の役者がお相手だったか」
セレンナーグがそう口にした途端、ミクリアルの体がふぅっと傾いだ。
「ミクリアル様!」
すんでのところで彼女を支えた青年の顔色も、気の毒なくらい真っ青になっている。
――どういうこと?
尋常でない二人の様子に頓着することなく、セレンナーグは優雅な所作で立ち上がり、アリスターシャに微笑んでみせた。
「帰りましょう、我が家に。うまい話なんて、そうそう転がってないんですよ」
事態がいまだ飲み込めていないアリスターシャと、イデス邸で待機していた両親、そしてメイサを追い立てるように乗せて、二台の馬車は帰路を急ぐ。セレンナーグは一人、したり顔だ。
あの様子では、今回も破談になるだろう。
ミクリアルたちの態度もおかしかったが、ろくな挨拶もせず立ち去るなんて、イデス侯爵家に対する礼を失している。後で詫び状を書かないとならない。
父母が乗ってきた小さな馬車に乗り換え、セレンナーグと二人きりで話す機会を作ったアリスターシャは、暑苦しい鬘を剥いで義弟に詰め寄った。
「で、何だったの一体? 説明してちょうだい」
アリスターシャの向かいに座ったセレンナーグは、何から話そうか思案するように、曲げた人差し指を顎の下へ押し当てた。
「あの歓待ぶり、変だと思いませんでしたか。僕は貧乏伯爵家の養子です。金は持っていないし、家格だって低い。なのに出迎えてくれた皆さん、実に好意的だった」
「確かに妙だとは思ったけど、ミクリアル様は三女だから溺愛されてて、多少の我がままは通るのかなって……」
「姉上は、そういうところが世間知らず――いや、可愛らしいですね」
アリスターシャは半眼で義弟を睨んだ。
「ふざけてるの?」
「いいえ、義父様と同じでお優しいなと」
「お父様と似ていたら困るのよ!」
「まあまあ、言葉のあやですよ」
気持ちを落ち着かせるように両手のひらをアリスターシャの方へ向けて、セレンナーグはあからさまな作り笑いを浮かべる。
「……わかった、その話は後にするわ。なんであなたの一言でお見合いが駄目になったのか、その訳を教えて」
あの父に似ているなどと、看過できない発言だが、とりあえず今は保留だ。それより見合い話の方が大切である。
アリスターシャが譲歩すると、セレンナーグは背もたれに深く身を預けた。軽く腕を組む。
「――ミクリアル嬢には、お子がいらっしゃるんですよ」
「え?」
「二年ほど前、旅の役者と一夜を共にしたらしいです。よっぽど色男だったんでしょうね。そして子ができてしまった」
「何、それ」
「社交界ではうまく『病気療養』で隠せていたようですが、ちょっと調べたら、すぐに出てきましたよ。裕福な侯爵家の令嬢が、貧乏伯爵家の後妻の息子で妥協する理由」
まあ、とセレンナーグは続ける。
「姉上の言う逆玉を狙うなら多少の瑕疵には目を瞑らなきゃならないと思ったんですが、ご令嬢自身があんなに打たれ弱いんじゃつまらないなあと」
セレンナーグから明かされた衝撃の事実に、アリスターシャはもう二の句が継げない。
前言撤回、アリスターシャは父とそう変わらないではないか。うまい話の裏を考えようとせず、簡単に目の前にぶら下げられた餌に飛びついた。充分世間知らずだ。
沈黙をどう捉えたのか、セレンナーグは腕組みを解き、申し訳なさそうに頭を下げた。
「……ごめんなさい。僕がおとなしく婿入りしていたら、きっと姉上が望む通り、イデス侯爵家からそれなりの援助を受けられたと思います。姉上の努力を、僕は無駄にしてしまった。謝って済む話じゃありませんが、謝罪します」
「……なによ、馬鹿にして……!」
アリスターシャの唇からこぼれた呟きを受けて、セレンナーグは戸惑ったように目をまたたかせた。言葉の真意を測りかねているのだろう。
アリスターシャは真正面からセレンナーグを見ることができず、ふいと横を向いた。
「行かなくていいわよ、そんな家に。こんなふざけた婿入り話、ぶっ潰して正解だわ。あなたを大切にしてくれない場所になんて、行く必要ない」
「でも、援助がなくては……姉上はそのために、僕へ見合い話を幾つも持ってきたんでしょう」
「別に私は、あなたの不幸の上でリンデン家の建て直しをやってのけようとするつもりはないの。人をどんな悪魔だと思ってるの?」
「……僕より家の方が大事、なのかなと」
「怒るわよ」
「いつも宣言する前に怒ってるじゃないですか」
「うるさい」
「理不尽だなあ、もう」
耳に痛い台詞を吐くセレンナーグに向き直り、その頬を両手で挟み込む。黙らせてやるためだ。
案の定、セレンナーグは口をつぐんだ。
さらに頬を押さえる手へ力を込める。こうすると美形も台無しだ。
けれどアリスターシャは、そんなちょっと不細工な義弟の顔も好きだった。たった二人きりの姉弟なのだから。
しばらく姉のするがままに任せていたセレンナーグだったが、やがてアリスターシャの両手首を掴んで下ろさせる。
――もう少し面白い顔、見ていたかったんだけど。
アリスターシャがそんな意地の悪いことを思ったのを知ってか知らずか、セレンナーグはそのままアリスターシャの手首を離さない。
どちらからともなく沈黙が落ちた。
狭い馬車の中で二人、見つめ合う。
いつにないぎこちなさに耐えかねたアリスターシャが口を開こうとしたのを遮るように、セレンナーグは告げた。
「ねえ、姉上。この際、僕で妥協しません?」
思いがけない発言を受けて、アリスターシャの思考は停止した。
セレンナーグの醸し出す雰囲気が、どことなく普段と違う。眼差しがわずかに潤み、切れ長の目尻に艶が乗る。色香というのだろうか。いつもの『弟』がまとう空気ではない。――このままじゃ駄目。直感がそう告げる。なのに視線を逸らせない。奪われたままだ。
「妥協、って何」
「なら、提案です。貧乏伯爵家のご令嬢と、貧乏伯爵家の後妻の息子。二人で家を建て直しましょう」
「……姉弟として、よね」
慎重に確認するアリスターシャに、セレンナーグは首を振った。
「いいえ、姉弟はお終いです。僕はもう、いい加減苦しい」
そう耳元で囁いたかと思うと、セレンナーグはアリスターシャを強く抱き寄せ、その頤に手をかけてかぶさるようにキスをした。
「っ、セレン……!」
「僕じゃ駄目ですか?」
触れ合ってすぐ離れた唇、その形のよい唇を小さく舌で舐めあげながら、セレンナーグはアリスターシャに常より低みを帯びた声で問いかけた。
「駄目って、駄目って、それは――」




