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誰かがログアウトする前に。〜VTuber黎明期から、激動の界隈でただ一人、この世界から「落ちなかった」男の物語〜  作者: さじ
第3章:閉ざされた世界の熱狂 ―2020、ステイホームと選択の季節―

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第33話:【閑話】 届かない「銀の盾」、2020年12月の孤独

2020年12月。世界は依然としてパンデミックの渦中にあり、人々は家の中で静かな、しかし熱狂的な冬を過ごしていた。YouStreamの登録者数が10万人を超えたゼンには、運営から「銀の盾」の申請フォームが届く。それは配信者としての確かな成功の証のはずだった。だが、内定通知書を机の引き出しに仕舞い込んだゼンの心には、その輝かしい盾を受け取る資格があるのかという、実体のない問いが澱のように溜まっていた。

12月の凍てつくような夜風が、隙間だらけのアルミサッシをすり抜け、6畳一間の冷え切った部屋に容赦なく忍び込んでくる。

暖房をつけるのを躊躇うこの底辺アパートにおいて、PCのモニターが放つ無機質な青白い光と、排気口から吐き出される微かな熱だけが、この空間の唯一の熱源であるかのように俺の指先を照らしていた。


画面の中央には、YouStream運営から届いた一通の英語のメールが開かれている。


『Congratulations on reaching 100,000 subscribers!』


おめでとうございます。あなたのチャンネルは10万人の登録者に到達しました。

その華やかな文面の下には、クリエイター表彰プログラム……界隈で通称「銀の盾」と呼ばれる記念品を申請するための、専用コードとURLが記されていた。


10万人。

かつて、俺が右も左も分からずに配信を始めたばかりの頃。同じように同接0人の暗闇でもがき、底辺で足掻いていた連中と、「いつか俺たちも銀の盾をもらって、背景に並べて飾れたら最高だよな」なんて、酒も飲めない安アパートで夜通し語り合っていた。

あの頃の俺たちにとって、それは途方もなく遠い、絶対に手の届かない夢の結晶だった。


今、俺は、その権利を完全に手に入れた。

目の前にあるこの申請フォームをクリックし、自分の住所と、盾に刻むチャンネル名を入力して送信ボタンを押すだけだ。そうすれば数週間後には、海外から本物の「銀色の輝き」が、この埃っぽいボロアパートのポストに届く。


だが、マウスを握る俺の指は、クリックすれすれのところで硬直したまま、どうしても動かすことができなかった。


「……ゼン、か」


ひび割れた声が、静まり返った部屋に落ちる。

盾に刻む名前。そこに「Zen」というたった三文字のアルファベットを打ち込むことが、今の俺には、吐き気がするほど酷く傲慢で、ひどく醜悪な行為に思えて仕方がなかったのだ。


俺は、19円のモヤシを炒め、就活から逃げる貧乏な大学生という等身大の姿を売りにして、社会の理不尽に中指を立てることで、一万人、そして十万人というリスナーの同情と、強烈な共感を集めてきた。

大手に媚びない。金に魂を売らない。俺は俺のままでいる。

それが、俺がこの狂った界隈でただ一つ貫いてきた「スジ」だったはずだ。


だが、そのカメラの裏側で、今の俺はどうだ。

俺のデスクの一番下の引き出しには、先日承諾のサインをした「内定通知書」という名の、社会的な安全圏を約束する絶対的なカードが大事に仕舞い込まれている。

さらにネットバンキングを開けば、ここ数ヶ月の配信バブルで稼ぎ出した、500万円の奨学金をいつでも一括で返せるだけの莫大な貯蓄が、すでに積み上がっているのだ。


俺が毎晩、カメラの前で声を枯らして語ってきた「スジ」というやつは、もうとっくに、自分自身の保身によってへし折られているのではないか。

金がなくて、未来が見えなくて、それでも必死に足掻いている「ゼン」という偶像。

俺は、そんな都合のいい虚像を作り上げ、特等席に座ってくれている一万人のダチたちを、笑顔で騙し続けているだけなのではないか。


そんな終わりのない自問自答が、12月の鋭い冷気と共に肺の奥の奥まで入り込み、俺の心を芯から凍らせていく。


ふと、デスクの端に置かれたスマホが短く震えた。

Mutterのダイレクトメッセージ。ルカからの返信だった。


『内定と10万人、おめでとう。……これで、あんたも「こちら側」ね』


「こちら側」。

スターライブという巨大な看板と、それに伴う重い責任を背負い、プロの表現者として生きるルカの言葉には、個人勢の俺には計り知れない独特の重みがあった。

それは後輩への純粋な祝福であると同時に、「もう後戻りはできない」という、冷徹な宣告のようにも聞こえた。


プロの配信者になるということは、純粋な楽しさや情熱だけでなく、自分自身の感情や、日常の生活、時には己の「嘘」すらも、切り売り可能な「エンタメコンテンツ」として最適化し、提供し続けていくことだ。

自分のアイデンティティが崩壊していくこの恐怖を抱えたまま、俺は、その覚悟ができているのだろうか。


通知がもう一件鳴る。

かつて俺がその手を引っぱり上げた、没落令嬢ことセリナからも、短いメッセージが届いていた。


『10万人? ただの通過点に過ぎませんわ。……でも、今日くらいは少しだけ誇っていいですわよ。私が圧倒的な数字で追い越して、その自尊心をへし折ってあげるまではね』


相変わらず不遜で、けれど誰よりも真っ直ぐな言葉。

彼女は、自分が「セリナ」という虚構の配信者であることを、誇りに思っている。現実で深夜のコンビニバイトに疲れ果てていようが、たとえどんなに辛いことがあろうが、カメラの前では完璧な「セリナ」であり続けることに、彼女は己の命を懸けているのだ。

嘘を真実に変えるほどの、圧倒的な覚悟。


それに引き換え、俺はどうだ。

内定通知書という強固な保険を懐に忍ばせ、いつ画面から消えても生きていける「普通の大学生・安住善治」という逃げ道を、しっかりと確保している。

覚悟なんて、最初から一ミリもなかった。


俺は、大きく息を吸い込み、マウスのカーソルを動かして「銀の盾」の申請フォームのタブを、そっと閉じた。


今、この物理的な盾を受け取ってしまったら。俺はもう、二度と引き返せなくなる。

それは、配信者としての目覚ましい成功を認めること以上に、自分の中にある「弱さ」や、リスナーを騙しているという「嘘」を、一生の十字架として背負い続けることを意味していた。


窓の外を見下ろす。

12月の街は、パンデミックの最中とはいえ、クリスマスや正月の準備で、どこか浮き足立ったような、温かい光に包まれている。

だが、この6畳一間だけは、まるで世界の時間から完全に切り離され、止まってしまったかのように、ひどく静まり返っていた。


俺はゆっくりと立ち上がり、冷蔵庫を開け、スーパーの袋に入ったいつもの19円のモヤシを取り出す。

使い古したフライパンをコンロに乗せ、火をつけ、油を引く。


ジャーッ。


激しく油が弾ける、聞き飽きたはずの音が、狭い部屋に暴力的に響き渡る。

かつては俺の心を奮い立たせ、リスナーたちとの絆を証明する心地よい戦いのゴングだったこの音が。今は、なぜかひどく空々しく、耳障りなノイズのように聞こえた。


この安っぽい音が、いつまで自分の耳に「真実」として心地よく響くのか、今の俺には全く分からなかった。

10万人という途方もない数字が重なれば重なるほど、そして俺の通帳の残高が増えれば増えるほど。このモヤシの味は、少しずつ、確実に薄く、味気ないものになっていくような気がして。

俺はただ、焦燥感を振り払うように、無心でフライパンを振り続けた。


窓の外の遠い空には、冬の星座が氷のように冷たく輝いている。

俺の名前が刻まれた銀の盾なんてなくても、今の俺の部屋を白く照らすには、このPCモニターの光だけで、もう十分すぎた。


2020年12月。

俺は、配信者としての人生で最も輝かしいはずの季節を、かつて経験したことのないほどの、絶対的な孤独の中で過ごしていた。

10万人の登録者が熱狂していても、内定という確固たる安定があっても。俺の心にぽっかりと開いた深い空洞を埋めてくれるものは、現実にも、仮想空間にも、どこにもなかった。


「……寒いな」


誰に聞かせるわけでもない独り言が、白い息となって薄暗い部屋に消えていく。

俺は、皿に盛った冷めかけたモヤシを箸で掴み、無理やり口に運んで飲み込んだ。

舌にへばりつくような安っぽい苦味だけが、今の俺がまだ、安住善治としてかろうじて「生きている」ことを証明する、唯一の確かな感覚だった。


2020年、最後の日々。

俺は、手が届く場所にある「銀の盾」の申請フォームを放置したまま、ただ、次の配信で話すための適当なネタを、空っぽの頭で探し続けていた。


それが、この矛盾だらけの自分に残された、最後の「スジ」だと信じて。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。


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