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誰かがログアウトする前に。〜VTuber黎明期から、激動の界隈でただ一人、この世界から「落ちなかった」男の物語〜  作者: さじ
第3章:閉ざされた世界の熱狂 ―2020、ステイホームと選択の季節―

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第32話:内定通知と、チャンネル登録者数10万人の夜

2020年11月。季節が秋から冬へと移り変わる中、安住善治の元に二つの知らせが届く。一つは、数ヶ月に及ぶ就職活動の末に勝ち取った「内定」の通知。そしてもう一つは、YouStreamの管理画面に刻まれた「100,000」という登録者数の数字。6畳一間の住人は、社会人としての安定と、配信者としての熱狂、その両方を手に入れた。だが、その充足感の裏側で、彼はかつてない「停滞」の予感に震えていた。

ノートPCの画面上で、一通のメールが不気味なほど静かに、受信トレイの最上段に居座っていた。


『【内定通知】選考結果のお知らせ』


差出人は、都内に本社を置く、手堅い経営で知られる中堅のシステム開発会社だ。

 三度にわたるWeb面接。この狭い6畳一間の背景をぼかし、安物のリクルートスーツに身を包んだ俺は、PCのカメラに向かってありったけの「嘘」を並べ立てた。

 御社の社会貢献性の高い経営理念に、深く心打たれました。エンジニアとして、社会のインフラ基盤を根底から支えたいと考えています。大学のサークル活動で培ったチームワークを何よりも大切にし、御社に貢献したいです。


そんな、就活サイトのテンプレートから拾い集め、切り貼りしただけの中身のない言葉たちを、俺はさも自分の魂の叫びであるかのように、淀みなく、そして完璧な作り笑いで演じきってみせた。


震える指でマウスをクリックし、メールの本文を開く。

 そこには、厳粛なビジネスの文面で、安住善治の採用を決定した旨と、来年四月からの初任給や福利厚生などの雇用条件が、無機質な文字で羅列されていた。


「……終わった」


俺は深く息を吐き出し、軋むオフィスチェアに体重を預けて天井を見上げた。

 これで、俺は「真っ当な社会人」になれる権利を完全に得たのだ。

 大学を卒業すると同時に、毎月決まった額の給料が確実に口座に振り込まれ、社会保険に加入し、名刺を持ち、親や周囲の人間に対しても堂々と顔向けできる「正社員」という肩書きを手に入れる。

 俺の背中に重くのしかかっている、500万円を超える奨学金という呪いも。この「内定」という名の免罪符さえあれば、20年という長い歳月をかけて、着実に、安全に、世間のレールから外れることなく返していくことができる。


それは、数ヶ月前の俺が、吐き気を催すほどの不安の中で、死に物狂いで欲していたはずの「最高の安息」だった。


だが、俺の視線は、内定通知の画面から逃げるように、無意識のうちに隣のサブモニターへと吸い寄せられていた。

 YouStreamのクリエイター管理画面。

 そこには、俺のこれまでの足掻きと歩みを証明する、もう一つの、全く別の数字が並んでいた。


『現在のチャンネル登録者数:100,000人』


そのデジタルの数字が、ちょうど一分前、ついに六桁の大台に乗ったことを、管理画面のグラフがはっきりと示していた。


10万人。

 かつて同じ時期に底辺として配信を始め、三次元の重力に耐えきれずに消えていった同期の連中が、誰一人として到達できなかった遥か高みの場所。

 俺が配信界の先輩であるルカから、「まずは100人を目指しなさい」と呆れ半分で教えられ、数人のダチ相手に必死に声を枯らしていた、あの遠い日々。

 今の俺は、あの頃の千倍にもなる人間を、この6畳一間の、壁の薄いボロアパートから熱狂させ、扇動しているのだ。


内定という、現実世界(三次元)の「出口」。

 10万人という、仮想世界バーチャルにおける一つの「頂点」。


誰もが羨むであろう、二つの巨大な成功の節目が同時に訪れたこの夜。俺の胸の奥底にあるのは、熱い達成感でも、涙が出るような歓喜でもなかった。

 むしろ、足元が崩れ落ち、底知れない真っ暗な沼に足を取られたような、息の詰まる重苦しい停滞感だった。


『佐藤:ゼン、ついに10万人おめでとう! マジで泣きそう!』

『名無し:銀の盾きたああああ! 個人勢の星!!』

『黒猫:同接0人の頃から見ていました。本当に、本当におめでとうございます』

『19円最高:これで遂に底辺卒業か? でもモヤシは食い続けろよな!』


視界の端で、配信の待機所のチャット欄が、すでにお祭り騒ぎの様相を呈して凄まじい速度で流れている。

 10万人。銀の盾。

 それは、配信プラットフォームから公式に表彰され、配信者としての「格」が完全に一段階上がることを意味する。企業案件の単価は跳ね上がり、界隈からの目は変わり、俺の声はさらに遠くの、見知らぬ誰かまで届くようになる。


だが、それは同時に。

 俺がこれまで巨大なシステムに抗うための強固な盾としてきた、「19円のモヤシを食う底辺」という唯一無二のアイデンティティが、急速に形骸化し、ただの「設定」へと成り下がることを意味していた。


内定を得て、数ヶ月後には確固たる社会的な安定を手に入れる俺。

 10万人の登録者を持ち、すでに奨学金をいつでも一括で返せるだけの莫大な収益を口座に抱え込んでいる俺。

 そんな安全圏にいる男が、カメラの前で「金がねえ」「就活が辛くて明日が見えねえ」と愚痴をこぼし、安いモヤシをフライパンで炒める姿は、もはやリスナーの共感を貪るための、悪質な「嘘」でしかないのではないか。


かつて俺が救ったセリナは、今やトップクラスの人気配信者として、その不遜な美学と設定を命懸けで貫き通している。

 大手事務所に移籍したルカは、プロとしての厳しい制約や数字の重圧に縛られながらも、配信という過酷な戦場の最前線で、血を流しながら生き抜いている。


それに引き換え、俺はどうだ。

 「内定」という、絶対に傷つかないための分厚い保険を懐に忍ばせながら、表向きは反逆者のような顔をして「19円のスジ」という看板を掲げ続けている。

 俺が配信で偉そうに語ってきた「スジ」というやつは、いつの間にか、俺という人間を最も醜く縛り付ける呪いへと変わっていた。


俺は、重い手つきでスマホを手にとった。

 連絡先にある「ルカ」の名を呼び出し、数秒間、画面を見つめて迷った後、短いメッセージを打ち込んだ。


『内定出たわ。あと、10万人いきました』


すぐに返信は来なかった。彼女もまた今頃、プロとして華やかな配信の裏側で、必死に戦っている最中なのだろう。


次に俺は、かつての同期たち……今はもう誰も更新することのない、引退した連中のグループDMを開いた。

 そこには、去年の今頃、「いつかみんなで売れて、美味い焼肉でも食おうぜ」と語り合っていた記録が、まるで化石になった死んだ言葉のように並んでいる。

 俺は入力欄に『俺、10万人いったよ』と打ち込もうとして……指を止め、結局、文字をすべて消して画面を閉じた。


10万人という数字を手に入れ、内定という現実の切符を手にした今の俺が、夢破れて去っていった彼らにかけられる言葉なんて、もう一つも残されていなかった。

 成功は、時に残酷なまでに、人と人との住む世界を完全に分断してしまう。


立ち上がり、アルミサッシの窓を少しだけ開ける。

 外を見ると、11月の凍りつくような冷たい雨が、東京の街を黒く濡らしながら降り始めていた。

 ステイホームという時代の異常事態が、巨大な波となって、俺という何者でもない個人をここまで強引に押し流してきた。

 だが、この熱狂の波が引いた後、この6畳一間に一人取り残されるのは、一体誰なんだろう。安住善治か。それとも、ゼンか。


内定通知が届いた。10万人の登録者が集まった。

 なのに、心の中は、かつて同接0人の暗闇に向かって、たった一人で叫んでいたあの頃よりも、ずっと、ずっと空虚で寒々しかった。


「……冷めるな」


俺は、コンロの上に放置されたフライパンの上の、しなびたモヤシを見つめて呟いた。

 火は通っている。安い塩コショウで味もついている。

 けれど、それを「俺の真実」としてカメラの向こうに差し出すための熱が、自分の中から急速に失われかけているのを感じていた。


2020年11月。

 俺は、人生で最も望んでいたはずの強固な「盾」を二つ同時に手に入れ。

 そして、自分自身という物語の行方を、完全に見失い始めていた。


明日、俺は間違いなく、企業へ内定の承諾メールを返信するだろう。

 そして今日の夜には、10万人突破記念の特別配信で、満面の笑みをアバターに浮かべながら「これからも俺たちのスジを通そうぜ」と、ダチたちに向かって声高に語るのだ。


その、吐き気がするほど巨大な自己矛盾の中にこそ。

 今の俺の、誰にも言うことのできない、冷たい非日常が息づいていた。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。


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