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誰かがログアウトする前に。〜VTuber黎明期から、激動の界隈でただ一人、この世界から「落ちなかった」男の物語〜  作者: さじ
第3章:閉ざされた世界の熱狂 ―2020、ステイホームと選択の季節―

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第31話:積み上がる「19円」。奨学金完済への最短ルート

2020年10月。ステイホームの熱狂は、ゼンの6畳一間に、かつてない変化をもたらしていた。19円のモヤシを炒める音の裏側で、積み上がっていく視聴数と、それに伴う収益。彼を縛り続けてきた500万円超の奨学金。その巨大な壁が、初めて「手の届く距離」まで近づいていた。だが、その壁を壊すことは、同時に彼が積み上げてきた「何か」を失うことでもあった。


6畳一間の空気が、フル稼働を続けるデスクトップPCの排熱でわずかに淀み、生温かくなっている。


深夜2時過ぎ。

二時間のアクションゲーム実況配信を終えた俺は、安物のオフィスチェアに深く背もたれを預け、タバコのヤニで黄ばんだ天井の染みをぼんやりと見つめていた。

ヘッドホンを外した耳の奥には、さっきまで自分が張り上げていた声と、滝のように流れていたリスナーたちのチャットの残響が、耳鳴りのようにこびりついて離れない。


俺はゆっくりと身を起こし、少しだけ汗ばんだ手でマウスを握り直すと、ブラウザのタブを切り替えてYouStreamのクリエイター管理画面を開いた。


『今月の推定収益』


そこに表示されたデジタルの数字の羅列を、俺は何度も強く瞬きを繰り返しながら確認した。

見間違いじゃない。桁が一つ、いや二つ、俺の常識とは狂っている。


「……まじかよ」


思わず口から漏れた声は、自分でも驚くほどカサカサに乾いていた。

先月、先々月と、俺のチャンネルの収益は信じられない角度で右肩上がりに増え続けている。もちろん、ルカやセリナのようなトップ層の企業勢配信者に比べれば、まだまだ微々たるものだろう。


だが、つい一年前まで、深夜の物流倉庫で腰を痛めながら冷たい段ボールを運び、19円のモヤシで命を繋いでいた自分からすれば。

画面に表示されているその額面は、完全にバグか何かの魔法にしか見えなかった。

俺が倉庫で一年間、血と汗を流してボロボロになって稼いでいた額を、今やこの6畳一間でゲームをして喋っているだけで、たった一ヶ月で稼ぎ出している。


俺は立ち上がり、机の一番下の引き出しを開け、クリアファイルに挟まれた一冊の古いノートを取り出した。

そこには、俺が『日本学生支援機構』から借り受けている、第二種奨学金の詳細な返済計画書が挟み込まれている。


『貸与総額:5,440,000円』


無慈悲な明朝体で印字されたその数字。

大学の入学金、バカ高い授業料、そしてこの底辺の6畳一間の家賃を毎月払い続けるために、俺が自分の「将来」という名の不確定な時間を担保にして切り売りしてきた、絶対的な負債の証明書だ。


大学を卒業した瞬間、俺は社会という広大なマップに「マイナス500万円」という、信じられないほど重いデバフを背負った状態で放り出される。

月々、約2万5千円の返済。それを20年間。

42歳という、もはや若者とは呼べない年齢になるまで、俺は毎月毎月、この借金を返すためだけに、自分の血肉と時間を削って働き続けなければならない。


その途方もない恐怖と重圧が、俺を、不格好なリクルートスーツに袖を通させ、Web面接のカメラに向かって愛想笑いを浮かべさせ、企業という名の宇宙船に潜り込むための「インポスター(裏切り者)」に変えていたのだ。


俺は再びPCの前に座り、ネットバンキングの画面を開いた。

これまでの地道な貯金と、ここ数ヶ月の信じられないような配信収益。それらをすべて合わせれば、今、俺の口座の残高は、ようやく300万円という大台を超えたところだった。


全額完済には、まだ少し届かない。

けれど、その負債の半分以上を、今この瞬間にボタン一つで消し去ることができる。

あるいは、あと半年。卒業までの間、このステイホームの熱狂と配信バブルの勢いが奇跡的に続けば、俺は大学卒業を待たずに「無借金」の身になれる。

タカシたちのような普通の大学生と同じ、ゼロからのスタートラインに立てるのだ。


その「可能性」が現実味を帯びて目の前に提示された瞬間。

俺の喉の奥が、歓喜ではなく、強烈な焦燥感で焼け焦げるようにヒリついた。


これが、最短ルートだ。

スーツを着て、息の詰まる満員電車に揺られ、上司に頭を下げて、20年かけてコツコツと借金を返していく正規の道ではない。

この薄暗い6畳一間で、安物のマイクに向かって叫び、19円のモヤシを炒め続け、誰に頼まれたわけでもない俺個人の「スジ」を語り続けるという、ひどく歪で泥臭い道。


俺は、部屋の隅のハンガーに掛けられた、シワの寄ったリクルートスーツをじっと見やった。

明後日には、ある中堅IT企業の最終面接が控えている。

そこでの安住善治は、自分がいかにその企業の将来性に期待し、いかに御社の理念に深く共感し、チームのために粉骨砕身働きたいかを、心にもない綺麗な嘘でコーティングして語る予定だった。

すべては、毎月2万5千円を確実に払い続ける「返済能力」という名の免罪符を得るために。


だが、今、俺の目の前には明確に別の選択肢が存在している。


スマホを手に取り、俺は無意識のうちに、Mutterのタイムラインを遡り、かつて同期として配信の底辺を這いずり回っていた連中――ジャンクや、すでに引退していった数え切れない有象無象のアカウントの残骸を眺めた。


あいつらは今、どこかの会社で、あるいは深夜のバイト先で、社会の理不尽に耐えながら、俺と同じように迫りくる返済の足音や、見えない将来の不安に怯えながら生きているのだろうか。


同じ時期にデビューした個人勢の中で、俺だけが、この異常なステイホームという時代の波に乗り、偶然にも「勝って」しまった。

その事実が、急に胃の奥に鉛を飲み込んだような、重く苦しい罪悪感となってこみ上げてくる。


俺がやっていることは、本当に「仕事」と呼べるものなのか。

ただ画面の前で安い飯を食い、世間の理不尽に愚痴をこぼし、ダチとゲームをして笑い合っているだけの俺に、ジャンクたちが数年かけて血反吐を吐いて稼ぐ労働と同等の価値があるというのか。


『匿名希望:ゼン、今日も相変わらず美味そうにモヤシ食うな』

『佐藤:お前の配信見てると、俺の現実の安い飯でも、なんとか生きていける気がするわ』

『黒猫:ゼンの変わらなさが、私の救いです』


ブラウザの別タブで、今日の配信のアーカイブを開き、残されたコメントをゆっくりとスクロールする。


彼らは、俺の中に何を求めているんだろう。

ただゲームが上手いだけの男じゃない。面白いトークができるだけの男でもない。


「金がなくて、理不尽な現実に足掻いていて、それでもどこか楽しそうに世間に中指を立てている、自分たちと同じ底辺側の人間」


それが、「ゼン」というアイデンティティの根幹だ。

もし、俺が今ここで、この口座の金を使って奨学金の大部分を繰り上げ返済し、現実の生活に余裕が生まれてしまったら。

「実はもう借金ないんだわ」なんて笑って言える身分になってしまったら。


それでも彼らは、俺がフライパンで炒める19円のモヤシの音を、今までと同じ熱量で、同じ温度で聴いてくれるのだろうか。


「……まだ、だ」


俺は震える指でマウスを動かし、ネットバンキングのログアウトボタンを強くクリックした。


今、この金を使って借金を返してしまえば、俺は二度と「19円のゼン」という仮面を、心から信じて被り続けることができなくなる気がした。

金がある。返済の目処が立っている。

その三次元の精神的な余裕は、無意識のうちに俺の言葉から反骨心という毒を抜き、俺が炒めるモヤシの味を、ただの「エンタメとしての嘘」に変えてしまうのではないか。


自由になるということは、自分の「不幸」という最強の言い訳を失うことでもある。

『借金があるから』『就活が辛くて明日が見えないから』。

そんな、俺とリスナーを繋いでいた強固な盾を自ら手放した後、俺の配信には、一体何が残るというのか。


2020年10月。

俺は、「自由」へと続く薄暗い階段の、ちょうど踊り場に立っていた。

このまま上り切れば、借金からの解放という光が待っている。だが、その先にある明るい景色が、これまで俺の心をギリギリで支えてきた「何か」を決定的に壊していくような、そんな得体の知れない予感にひどく震えていた。


俺は結局、奨学金の繰り上げ返済の手続き画面を完全に閉じた。


代わりに、立ち上がって冷蔵庫を開け、いつもの安っぽいビニール袋に入った19円のモヤシを取り出し、冷え切ったフライパンに火をつけた。


ジャーッ!!


油が激しく跳ねる音が、深夜の6畳一間に暴力的に響き渡る。

通帳に三百万円が入っていようが、一千万円が入っていようが、今の俺の空腹を満たし、俺を俺たらしめるのは、この安っぽい野菜だけだ。


「……まだ、このままでいい。焦るな、俺」


俺は自分に言い聞かせるように、菜箸を乱暴に動かした。

奨学金を全額返し、あの不格好なリクルートスーツをゴミ箱に捨てる。その決断を下すには、俺はまだ、自分の「スジ」という不確かなものを、自分自身で信じきれていなかった。


少しずつ、だが確実に積み上がっていく数字。

少しずつ、膨張していくリスナーからの期待。

2020年の狂乱は、安住善治という一人の等身大の人間を置き去りにしたまま、さらに容赦なく加速していく。


俺は明日も、嘘を塗り固めるためにあのスーツを着る。

そして夜になれば、この6畳一間のPCの前に座り、19円の真実を声を枯らして演じ続ける。


その、いつ破綻するかも分からない歪な二重生活こそが。

今の俺にとっての、世界と繋がるための唯一の「スジ」だった。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。


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