第30話:【閑話】激動の裏側、ルカとセリナの非日常
2020年10月。世界がオンラインという名の新しい日常に慣れ始めた頃。YouStreamで圧倒的な存在感を放ち始めた「ゼン」の躍進を、複雑な想いで見つめる二人の女性配信者がいた。個人勢から大手事務所『スターライブ』へと羽ばたいた先輩・ルカ。そして、かつてどん底でゼンに救われた恩義を抱くライバル・セリナ。激動の時代の裏側で、彼女たちが過ごしていた「プロとしての非日常」を綴る。
深夜2時。
ルカは、完全な防音設備が施された自室の配信デスクに深く腰を沈めていた。
数時間前に終えた自身の生配信の余韻に浸ることもなく、疲れ切った眼差しを前に向ける。横に並べられた三台の大型モニターが放つ暴力的なまでの青白い光が、彼女の顔を無機質に照らし出していた。
中央の画面に映し出されているのは、今や飛ぶ鳥を落とす勢いで伸び続けている、ゼンのチャンネル統計データと、彼が先ほどまで行っていた配信のアーカイブ映像だ。
そして、国内外から絶え間なく届く、膨大な通知とスーパーチャットの履歴。
「……同時接続、五千人。事務所の看板背負ってる私でも、この勢いはちょっと背筋が寒くなるわね」
ルカは細い指でブルーライトカット眼鏡のブリッジを押し上げ、誰に聞かせるわけでもない小さく深い溜息をついた。
彼女は現在でこそ、業界最大手と言われる事務所スターライブに所属するトップクラスのプロ配信者だ。しかし、もともとは一切の後ろ盾を持たず、個人勢として泥水を啜りながら活動していた叩き上げである。
ゼンとはその個人勢時代、彼がまだ右も左も分からず、ボロボロの安物マイクでノイズ混じりの声を張り上げていた頃からの付き合いだった。配信機材のいろは、リスナーとの適切な距離感、荒らしへの対処法、そして何より「数字が出なくても継続すること」の難しさと苦しさを、彼女は先輩として彼に叩き込んできた自負がある。
だが、今のゼンは、ルカが教えた枠組みをとうに超え、手に負えないほどの「化け物」になりつつあった。
スターライブという巨大な組織に守られ、厳格なコンプライアンスや企業イメージという制約の中で自身のブランドを維持しなければならない今の彼女にとって。
6畳一間のボロアパートから「19円のモヤシ」という、あまりにも安っぽく、けれど唯一無二の鋭い武器を手に界隈で暴れ回るゼンの姿は、あまりにも眩しく、そして同時に、酷く危ういものに映っていた。
(ゼン……あんた、ちゃんと寝てるんでしょうね。……あんまり無理して、自分の居場所を壊さないでよ)
ルカは、マイカップに入った冷めたコーヒーを口に含みながら、ゼンがこの急激な環境の変化に戸惑い、密かに精神をすり減らしていないかを本気で危惧していた。
五千人という同時接続数は、単なる景気の良いデータの羅列ではない。
それは、五千の異なる感情が、一人の人間に向けられているということだ。五千の好意、五千の悪意、そして何より恐ろしいのは、五千の「過剰な期待」が、一人のただの青年の肩に重くのしかかっているという残酷な事実だった。
リスナーは神様ではない。彼らは無意識のうちに配信者を消費し、自分たちの理想の偶像を押し付けてくる。少しでも「スジ」から外れれば、昨日までの称賛は一瞬にして刃に変わる。ルカ自身、過去の炎上でその恐ろしさを骨の髄まで味わっていた。
だからこそルカは、ゼンがその重圧に押し潰されないよう、時折裏のチャットで技術的な助言を送り、彼一人では捌ききれない配信トラブルの相談に乗ることを、先輩としての、そして一人の表現者としての「務め」だと感じていた。
自身の過密なスケジュールと配信をこなし、事務所のマネージャーとの神経をすり減らす打ち合わせに追われながら、深夜のわずかな自由時間には後輩の状況を気遣う。
ルカの非日常は、プロとしての重い責任感と、どうしても放っておけない一人の不器用な青年への「情」の間で、静かに、そして激しく揺れ動いていた。
「安住くん……なんて本名で呼ぶことは、もう一生ないんだろうけれど」
彼女はモニターの端に映る「ゼン」という金髪のアバターを見つめ、ふっと自嘲気味に笑った。
ネットという底なしの仮想の海で、本名も、本当の顔すらも知らない相手の無事と幸福を祈る。傍から見ればひどく滑稽かもしれないが、それが、この狂った時代を共に生きる配信者たちの、歪で、けれど確かな絆の形だった。
◇
一方、同じ夜。
都心の高層マンションの一室で、セリナは自身の体に合わせて特注された豪華な配信ブースの椅子に深く腰掛け、タブレット端末を胸に抱きしめるようにして画面を凝視していた。
画面の中では、ゼンが相変わらず不器用な手つきで、焦げ付いた使い古しのフライパンを振っている。スピーカーからは、油が跳ねる激しい音と、彼の少しガサツな声が流れていた。
「……バカね。そんなに熱いなら、一度火を弱めればいいのに。相変わらず、不器用で生き急ぎすぎなのよ、あの男は」
セリナは呆れたように呟きながらも、その視線を画面から一秒たりとも外そうとはしなかった。
彼女の勝気な瞳の奥には、数年前の、ボロボロだった自分の姿が重なって映っていた。
没落令嬢という設定を持て余し、配信者として完全に行き詰まり、誰にも届かない言葉をネットの深淵に吐き捨てていた日々。3Dモデルの資金を稼ぐために深夜のコンビニで働き、身も心もすり減らし、絶望の淵に立たされていたあの日。
そんな、何の価値もないと思われた自分を、損得勘定抜きで真っ先に「助けてくれた」のは、他でもない、この6畳一間に引きこもる偏屈な金髪の男だった。
彼が不器用に差し伸べてくれた手の温もりと、あの時見せてくれた「絶対に嘘をつかない」という泥臭い生き様を、彼女はあの日から一秒たりとも忘れたことはない。
今やセリナは個人勢でありながら、業界でも指折りの圧倒的な人気と美貌を誇るトップ配信者へと上り詰めた。
だからこそ、今のゼンのチャット欄に溢れ返る新規リスナーたちの熱狂的な称賛の言葉の数々は、彼女にとってどこか薄っぺらく、そして無性に腹立たしく感じられた。
『ゼンくん、すごい!』
『いつも頑張ってるね、応援してる!』
そんな、そこら辺のアイドルのような安い同情や称賛の言葉で、彼という人間を簡単に定義してほしくなかった。
彼がどれほど汚い泥をすすり、どれほど真摯に「19円の自分」を貫いてきたか。彼がどれほど孤独な戦いを続けてきたか。それを誰よりも深く、そして痛いほどに理解しているのは、昨日今日ファンになった有象無象ではなく、この自分だという強烈な自負が彼女にはあった。
「守られるような弱いタマじゃないわよ、あいつは。……せいぜい、その泥臭い美学とやらを、私が完全に追い越すまで意地でも持ち続けてみなさいな」
セリナは、同業のプロフェッショナルとして、今のゼンを取り巻く「スパチャ収益の異常な増加」や「ステイホーム特有の異常な熱狂」が、どれほど孤独で、どれほど脆い砂上の楼閣であるかを正確に理解していた。
数字が増えれば増えるほど、人は自由を失い、数字の奴隷になっていく。少しでも歩みを止めれば、あっという間に忘れ去られる。
ゼンは今、その恐ろしい魔境の入り口に立っているのだ。
セリナは、Mutterの裏アカウントを開き、宛先のない送信しないままのメッセージを素早いフリックで打ち込んだ。
『今日の最後のエモーショナルな語り、一分長かったわよ。聞いててこっちが恥ずかしくなりましたわ。次はもっとスマートにやりなさい。……じゃないと、私が先に100万人に到達して、あんたを見下ろしてやりますからね』
それは彼女なりの、最大級の「敬意」と、不器用な「エール」だった。
ゼンに救われたあの日から、彼女は彼の最大のライバルであり続けることを、自分自身に固く課していた。彼がどこまでも昇り続け、どれほど大きな存在になるというのなら、自分もまた、その背中を追い越し、彼を心底驚かせる存在にならなければならない。
それが、彼女にできる唯一の恩返しだった。
2020年10月。
事務所の看板という巨大な責任を背負いながら、プロの視点でかつての後輩を案じる先輩・ルカ。
かつて救われた恩義を誇りに変え、同じ戦場で誰よりも鋭く牙を剥き続けるライバル・セリナ。
二人の「配信者」は、激動の時代の中心で、6畳一間の王が切り開く狂乱の未来を、誰よりも熱い眼差しで凝視していた。
ルカが静かにマウスをクリックし、ゼンのアーカイブ映像を閉じる。
セリナがタブレットの電源を落とし、暗闇の中で決意に満ちた瞳で天井を見つめる。
彼女たちの非日常は、ゼンの物語という巨大な歯車の一部となって、今夜も静かに、けれど熱を帯びながら確実に回り続けていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
もし「面白い」「続きが読みたい」と思っていただけましたら、ページ下部の☆☆☆☆☆から評価をお願いいたします。
執筆の励みになります。




