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誰かがログアウトする前に。〜VTuber黎明期から、激動の界隈でただ一人、この世界から「落ちなかった」男の物語〜  作者: さじ
第3章:閉ざされた世界の熱狂 ―2020、ステイホームと選択の季節―

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第34話:2020年大晦日。6畳一間の狂乱と、リクルートスーツの重み

2020年12月31日。世界中が未曾有の事態に揺れた一年が、今まさに終わろうとしていた。YouStreamでは数多くの年越し配信が行われ、人々は画面越しに繋がりを求めていた。登録者10万人を超えたゼンもまた、大晦日の特別配信を敢行する。投げ銭が飛び交い、祝祭の空気に包まれるチャット欄。だが、ゼンの視線の先には、壁に掛けられた一着のリクルートスーツがあった。来春からの「内定」を承諾した、現実の証。彼は、嘘と真実が混ざり合う境界線上で、2020年最後の夜を駆け抜ける

2020年、12月31日。午後11時40分。

外は底冷えするような寒さで、窓ガラスにはびっしりと結露が張り付いている。だが、俺の6畳一間は、フル稼働し続けるデスクトップPCの凄まじい排気熱と、俺自身の焦燥感で、冬とは思えないほどに蒸せ返っていた。


モニターの向こう側では、とんでもない数の人間が、固唾を飲んで俺の言葉を待っている。


『2020年、お疲れ様でした。モヤシで越す年越し配信』


そんな、一切の飾り気もないふざけたタイトルの配信に、今夜は「同時接続数一万人」近いリスナーが雪崩れ込んでいた。

たった一人に向けて配信していた頃からは想像もつかない、暴力的なまでの熱狂の渦。


「……おう、お前ら。年越しそば? そんな上等なもん、うちにはねえよ。あるのは、いつものスーパーの底値で買ってきた、19円のモヤシだけだ」


俺が安物のマイクに向かって声を張り上げ、使い古したフライパンを振るたびに、油の跳ねる音に呼応するように、チャット欄が爆発的な速度で流れていく。

目視でコメントを追うことすら不可能なスピードだ。


『佐藤:ゼン、年越しにモヤシかよw 相変わらずブレねえな!』

『名無し:スジ通しすぎだろ! 一生ついていくわ!』

『黒猫:今年一年、ゼンの声に本当に救われました』

『モヤシ教:19円の神に乾杯! 来年もよろしく!』


極彩色のスーパーチャットが、年越しのカウントダウンを待たずに、画面の右半分を真っ赤に埋め尽くしていく。

一〇〇〇円、五〇〇〇円、一万円。

『蕎麦代にしてくれ』『来年も期待してるぞ』『最高のダチへ』。


そんな善意と期待の塊が、デジタルの冷たい数字となって、俺の銀行口座へと次々に吸い込まれていく。

その煌びやかな光景を見ながら、俺はふと、カメラの死角になる画面の端へと視線を逸らした。


そこには、クローゼットの扉に無造作に掛けられた、一着の安いリクルートスーツが吊るされていた。


数日前。

俺は、中堅IT企業から届いた内定通知への「承諾書」に印鑑を押し、ポストへ返送した。

来年の四月からは、俺はその黒いスーツを着て、息の詰まる満員電車に揺られ、名前の知れた企業の歯車の一つとして、社会のレールの上を歩いていくことが完全に決まっている。


画面の中で、俺は相変わらず「19円のモヤシを食う貧乏大学生」として振る舞い、社会の理不尽に中指を立て続けている。

リスナーは、俺のその泥臭く「足掻く姿」に共感し、自分たちの鬱憤を重ね合わせ、金を投げ、本気で応援してくれている。

「お前は俺たちの代弁者だ」と。


だが、現実の俺の懐には、いつでも奨学金500万円を完済できるだけの金がすでにあり、来春からの安定した正社員としての生活も、しっかりと約束されている。


壁に掛かったあの黒いスーツが、今の俺にとっての、リスナーに対する最大の「嘘」の象徴だった。


「……来年、か。どうなるんだろうな、俺たち」


俺の声が、一瞬だけ不自然に低くなったことに、熱狂の渦中にいる一万人のリスナーたちは誰も気づかない。

彼らにとって、俺はいつまでも「自分たちの代弁者」であり、「不器用な底辺の金髪アバター」でなければならないのだ。

だが、俺はもう、彼らのいるその泥臭い場所には、本当はいないのかもしれない。


ふと、デスクの端のスマホが短く震えた。

Mutterのダイレクトメッセージ。ルカからだった。


『ゼン、いい配信ね。同接一万人、本当におめでとう。……でも、あんまり無理しすぎないで。プロになるっていうのはね、自分のついた嘘を、自分自身で一生信じ抜くことでもあるのよ』


先輩としての、そして企業勢として地獄を見てきた彼女ならではの、重い助言。

スターライブという巨大な看板を背負い、自身の本名を捨てて「ルカ」という偶像として生きる彼女は、きっと俺の配信の端々に滲み出ている、この致命的な矛盾を見抜いているのだろう。


続いて、Discordの通知音が鳴った。セリナからだ。


『同接一万? 個人勢にしてはやりますわね。……でも、来年は私がその倍の数字を奪って、あんたを完全に過去の遺物にしてやりますわ。せいぜい、今のうちにその玉座を温めておきなさいな』


相変わらずの不遜な態度。けれど、その裏にある強烈なライバル心と、決して俺を見捨てないという彼女なりのエール。

彼女たちの言葉が、熱狂の渦中にいて麻痺しかけていた俺の心を、わずかに、けれど確実に現実に引き戻す。


「残り、10分!」


誰かがチャットで叫んだ。

2021年へのカウントダウンが、いよいよ始まる。

画面上の投げ銭は、さらに狂ったような激しさを増していく。


「おい、お前ら。……そんなに投げるな。バカか。俺は、ただモヤシを炒めて食ってるだけなんだぞ」


それは、紛れもない俺の本心だった。

ずっと金が欲しかったはずなのに。這い上がりたかったはずなのに。

いざこうして「成功」の形として莫大な金と称賛が降り注いでくると、自分自身の魂がすり減っていくような、奇妙で冷たい恐怖に襲われる。


俺が声高に語ってきた「スジ」。

俺が命懸けで守ってきた「19円」。

それは、この狂乱の中で、いつまで保てるものなんだろうか。


「5! 4! 3! 2! 1!……ハッピーニューイヤー!!」


チャット欄が、「おめでとう」「あけおめ」「よっす」の文字で真っ白に染まり、スパチャの雨が画面を完全に覆い尽くした。


2021年、1月1日。午前0時0分。

俺は、登録者10万人を超え、同接一万人を抱える怪物のような配信者として、新しい年を迎えた。


だが同時に、大学卒業まで、あと三ヶ月。

あの黒いスーツを着て、「安住善治」というただの社会人として生きるまでの、逃げられないカウントダウンもまた、残酷に始まっていた。


「……あけましておめでとう、お前ら。……今年も、最高に泥臭い一年を見せてやるよ。来年も、よろしくな」


精一杯の、作り笑い。

俺はマウスを握る手に力を込め、マイクのスイッチを切り、配信の終了ボタンを押した。


一瞬で訪れる、6畳一間の深い静寂。

PCのファンの回転音が、不気味なほどに大きく、部屋中に響き渡る。

俺は椅子から立ち上がり、壁に掛けられたリクルートスーツに、ゆっくりと手を伸ばして触れた。

冷たい、ポリエステルの人工的な感触が、指先から伝わってくる。


「……これで、いいんだよな」


誰にともなく、虚空に向かって問いかける。

500万円の借金を返し、安定した職に就く。

それは、親も、社会も、世間もが絶対に正解だと言う、誰にも非難されない全うな道だ。


だが、俺の心の奥底にある、あの同接0人の暗闇の中で泥を啜っていた頃の、ヒリヒリするような「何か」が。

19円のモヤシを食ってでも、巨大なシステムに抗いたかった俺の魂の根源が、このスーツに対して激しく、どうしようもないほどの拒絶反応を起こしていた。


2021年、1月。

10万人を熱狂させる「ゼン」としての圧倒的な栄光と、名もなき歯車である「安住善治」としての就職。

決して交わることのない二つの人生が、この狭い一つの6畳一間で、激しく衝突し、俺の精神を引き裂こうとしていた。


俺は、冷め切ったフライパンに残った最後の数本のモヤシを、箸で無造作に口に放り込んだ。

味は、しなかった。

ただ、奥歯で噛みしめた時のシャキッとした食感だけが、俺がまだここにいること、まだ「生きている」ことを辛うじて教えてくれた。


窓の外には、新しい年の、澄み切った冷たい星空がどこまでも広がっていた。

夜明けは、まだ遠かった。

ここまでお読みいただき、本当にありがとうございました。


キリの良い第3章の最後まで書き上げることができましたので、この第34話をもって本作は一旦「第一部完結」とし、連載をお休みさせていただきます。


毎日読みに来てくださった皆様、応援してくださった皆様の存在が、ここまで執筆を続ける何よりのモチベーションでした。深く感謝申し上げます。


またいつか、続きをお届けできる日が来ましたら、その時はよろしくお願いいたします。

今までゼンの物語にお付き合いいただき、本当にありがとうございました!

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