第27話:画面越しの「乾杯」。オンライン飲み会と、戻らない日常
2020年6月。季節は梅雨に入り、止まっていたはずの時計の針が、歪な音を立てて再び動き出した。大学の友人たちから届いた一通のメッセージ。たまにはオンラインで飲もうぜ。画面越しに交わす乾杯の裏で、安住善治を待っていたのは、着実に社会へと踏み出した友人たちと、配信という名のモラトリアムに浸る自分との、埋めようのない溝だった。
PCのカメラから視線を外すと、6畳一間の壁がやけに白く、そして無機質に見えた。
窓の外からは、梅雨特有の重く湿った雨音が絶え間なく響いている。換気扇を回しても、部屋の中にはアルミ缶の結露と、少し埃っぽい匂いが籠もっていた。
デスクの上に置かれたのは、いつもの19円のモヤシ……ではなく、今日は少しだけ見栄を張って買ったコンビニの塩焼き鳥と、冷えた第三のビールだ。
目の前のモニターには、いつも俺が配信ツールを開いているのと同じ画面に、ビデオ通話ツールの中に均等に分割された「四つの顔」が映し出されていた。
「おう、安住! 久しぶりだな。お前、相変わらずその部屋、死ぬほど狭そうだな」
画面の左上で快活に笑っているのは、同じ学部の友人であるタカシだ。
大学の講義室でよく隣に座り、くだらない冗談を言い合っていた友人たちは、それぞれ自分の部屋からこの通話に参加しているはずだった。だが、彼らの背景は南国のビーチや、お洒落なカフェの画像といった「バーチャル背景」で綺麗に上書きされており、俺の背後に映る黄ばんだ壁紙と、乱雑に積まれた段ボールの山だけが、酷く生々しい現実感を放っていた。
「……まあな。俺にはこのカプセルホテルみたいな狭さが落ち着くんだよ。……ほら、さっさと乾杯しようぜ」
俺がカメラに向かってアルミ缶を掲げると、コンマ数秒のラグを伴って、四つの画面で一斉に「乾杯」の声が響き渡った。
最初は、ただの他愛もない愚痴の言い合いだった。
大学のオンライン講義の課題が異常に多いだとか、Webテストのカンニング対策が厳しすぎるだとか、ずっと家にいて気が狂いそうだとか。画面越しとはいえ、半年ぶりに顔を合わせた友人たちとの会話は、俺に少しだけ「普通の大学生」としての時間を取り戻させてくれた。
けれど、それぞれの缶が空き始め、アルコールが脳を麻痺させ始めた頃。
会話の焦点は、ごく自然な流れで「その先」の話題へと移っていった。
「あ、そういえばさ。俺、先週ようやく内定出たんだわ」
タカシが、残ったビールを煽りながら、さらりとそう言った。
一瞬、俺の焼き鳥へ伸びていた手が空中でピタリと止まる。
「マジで? おめでとう。……この時期にすげえな。どこだよ?」
「都内の中堅のIT商社。第一志望の大手は最終で落ちたけど、この状況下でまともな正社員の枠をもらえたんだから、御の字だろ。Web面接の背景用にわざわざリングライトまで買って、死ぬほど練習した甲斐があったわ」
安堵と誇りが入り混じったタカシの表情。
その言葉を皮切りに、他の二人も堰を切ったように自身の進捗を語り始めた。
一人は大手メーカーの最終面接の結果待ちで胃が痛いと笑い、もう一人は志望業界を急遽絞り直して、毎日オンラインの企業説明会をハシゴしているという。
画面の向こう側の彼らは、2020年の狂乱と未曾有の不景気に翻弄されながらも、必死に社会というフィールドでの「安置」を求めて戦い、そして着実に結果を出し始めていた。
「安住はどうなんだよ。お前、あんまりMutterでも就活の話とか呟かないし。……相変わらず、あの動画のやつに熱中してんのか?」
不意に、タカシの矛先が俺に向いた。
「あの動画のやつ」。
その言葉の響きに、俺の喉が不自然に鳴り、口の中がカラカラに乾くのを感じた。
YouStreamでの「ゼン」としての活動。
ステイホームの追い風を受け、同時接続数は今や安定して一千人を超える。毎晩のように投げられるスーパーチャットと、動画の再生数から弾き出される広告収益は、タカシが内定をもらったIT企業の「新卒の初任給」を、すでに優に上回る月すらあった。
ゼンとして、俺はこの狂った世界の中で、誰にも頼らずに一つの正解を叩き出しているという強烈な自負があった。
けれど、それを「安住善治」として、今この場で語ることができるか?
「俺は就活なんてしてない。配信で月に三十万稼いでるからな」
そんなことを言えば、必死にスーツを着て頭を下げている彼らに対して、ただの嫌味な自慢話にしか聞こえないだろう。あるいは、現実から目を背けている痛々しい大学生の、一時的な泡銭の自慢として、哀れみの目を向けられるだけだ。
社会的な信用。保証された未来。世間からのまともな評価。
俺の手元にあるのは、明日にも消え去るかもしれない仮想の数字だけで、彼らが手に入れようとしているそれらの「本物」は、何一つ持っていないのだ。
「……あー、俺は、まぁ。……ボチボチだよ。この状況だし、ちょっと様子見っていうかさ」
自分の声が、嘘みたいに薄っぺらく、酷く頼りなく聞こえた。
様子見なんて、完全な嘘だ。
俺はただ、真っ白なままのエントリーシートに、何一つ書くべき「自分」を見出せないまま、PCのモニターという逃げ道に引きこもっているだけだった。
「様子見って、お前……。今はもう、止まってる時期じゃないぞ。むしろこの騒ぎで、どこの企業も採用枠をガンガン減らしてるんだから。悠長なこと言ってる場合じゃないだろ」
タカシの声から、先程までの酔った笑いが消えた。
画面越しの彼の目が、真っ直ぐに俺を射抜く。
「……安住、お前さ。あの配信がちょっと上手くいってるからって、本気でそれを一生の仕事にするつもりじゃないだろ?」
それは、友人としての純粋な心配であり、そしてあまりにも残酷な、社会からの宣告だった。
彼らから見れば、俺の血を吐くような毎日の活動は、あくまで就活の足しになるかもしれない、あるいはモラトリアムの暇つぶしである「ちょっと変わった趣味」の領域を出ないのだ。
19円のモヤシで、巨大なシステムに対してスジを通す。
消えていったジャンクとの約束を守り、画面の向こうのダチの居場所を作る。
俺が命を懸けているそんな青臭い理想は、Web面接のカメラ越しに語るにはあまりにも非論理的で脆く、そして「社会」という強固なフィルターを通せば、ただの生産性のない遊びに分類されて即座に弾かれる。
「……分かってるよ。……分かってるって」
俺は、生温かくなったビールの残りを、逃げるように一気に飲み干した。
炭酸の抜けた苦い液体が喉を通り、胃の奥に冷たく落ちていく。
画面の向こうで再び盛り上がり始めた「初任給で何を買うか」「収束したら卒業旅行はどこへ行くか」という輝かしい未来の話が、まるで別世界、あるいはゲームの中の出来事のように遠く、輪郭のぼやけたものに感じられた。
一時間後。
「明日、朝からオンラインの面談があるから」と適当な理由をつけて、俺は誰よりも早く通話を退出した。
『退出しました』という無機質なシステムメッセージと共に、モニターが真っ暗になる。
そこに、酷く疲れた顔をした、金髪のただのフリーター予備軍の男が映り込んだ。
タカシたちは今頃、俺が抜けた後の画面で、次の乾杯をどこでするかを語り合っているはずだ。
あるいは、「安住のやつ、現実見えてなくてヤバいよな」と、心配という名の優越感に浸っているかもしれない。
俺たちの日常は、もう二度と以前のようには戻らない。
大学の薄暗い部室で、安いコンビニ弁当を食いながら、意味のない冗談を言い合って笑っていたあの頃の俺たちには、もう絶対に。
俺は震える手でスマートフォンを取り出し、Mutterのアプリを開いた。
タイムラインには、俺の配信を待つリスナーたちの言葉が、絶え間なく流れ続けている。
『ゼン、今日もやる?』
『残業終わった。ゼンの声で癒やされたい』
『特等席、全裸待機してます!』
彼らは、俺を求めている。
社会の歯車になろうとしている安住善治ではなく、19円のモヤシを炒める「ゼン」という偶像を。
「……やるか」
独り言が、誰もいない冷たい壁に虚しく跳ね返る。
俺は慣れた手つきで、いつもの安物のマイクの電源を入れ、YouStreamの配信管理画面を開いた。
そして、ためらうことなく『配信開始』の青いボタンをクリックする。
暗闇だった6畳一間が、再びモニターの強烈な青白い光に満たされる。
数秒も経たないうちに、待機していた数百人のリスナーたちが雪崩を打ってチャット欄に押し寄せてきた。
「よっす。……あー、お前ら。……今日はちょっと、安い酒飲みすぎたわ。……19円のモヤシも、たまには酔うんだな、これが」
マイクを通した瞬間、俺の喉から、いつもの不敵で余裕のある「ゼン」の声が出る。
画面の中では、俺は何者でもない王だ。
俺の言葉一つで千人が笑い、千人が熱狂する。
けれど、笑い声を作るためにミュートボタンを押すたび。
俺の耳の奥では、タカシの『本気じゃないだろ?』という、三次元の正論が、鋭い呪いのようにいつまでも鳴り響いていた。
2020年6月。
梅雨のじめじめとした夜の底で。
俺は、自分が通すべき「スジ」のレールが、完全に二つに割れていくのを感じていた。
そして、そのどちらの道を選んだとしても。俺はきっと、自分自身の心の一部を、完全に殺さなければならない。
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