第26話:【閑話】 匿名希望の残業、救いの通知オン
2020年5月。緊急事態宣言の延長が発表され、世界がオンラインの檻に閉じ込められていた頃。都内のIT企業に勤める「匿名希望」は、終わりの見えないリモート残業の中で、ある一つの通知を待っていた。それは、6畳一間から世界へ抗う配信者「ゼン」が放つ、ささやかな、けれど確かな救いの合図だった。
24時をとうに過ぎた。
都内のはずれにある6畳一間のワンルーム。窓のカーテンは、もう何日も閉め切ったままだ。
デスクの端に追いやられたコンビニ弁当の空き殻が、無機質なLEDデスクライトの光を寂しく反射している。
俺はネットの海で「匿名希望」というハンドルネームを名乗り、ある個人勢VTuberの配信に毎晩のように通い詰めている。
現実世界での本名は、今の俺には必要ない。ただの、名前のない代替可能な歯車の一つ。社会という巨大なシステムを回すための、摩耗しきった部品でしかない。
「……終わんねえな」
ひび割れた声が、散らかった部屋に落ちる。
目の前のモニターには、無限に続くかと思われるようなExcelのセルと、難解なコードの羅列が網膜に焼き付くほど表示されている。
急激な社会の変化に伴い、俺の所属するIT企業へのシステム改修依頼は爆発的に増えた。
世間は「リモートワーク」という新しい働き方を推奨し、通勤電車から解放されたと持て囃したが、実態は違った。それは「24時間いつでも働ける環境」を、生活空間であるはずの自室に強制的に持ち込まれただけだった。
オンとオフの境界線はとうの昔に消滅した。
深夜になっても、上司からのチャットツールの通知音は容赦なく鳴り響く。
『この仕様変更、明日の朝イチの会議までに反映しておいて』
たった一文のメッセージが、俺の睡眠時間を軽々と奪っていく。同僚の疲れた顔を見ることも、愚痴をこぼし合う飲み会もなく、ただ無機質なデジタルの文字だけが、俺の精神をゴリゴリと削り取っていく。
もう、何のために働いているのかすら分からない。
感染の恐怖に怯えながら、誰とも会わず、ただ部屋の中で数字と文字を打ち込み続ける日々。息が詰まる。このまま誰にも気づかれずに、この6畳一間で干からびていくのではないかという錯覚に陥る。
不意に、デスクの横に置いていたスマートフォンの画面が明るくなった。
会社支給のチャットツールではない。Mutterからのプッシュ通知だ。
『【19円のモヤシ】ゼンがYouStreamで配信を開始しました:5月病? 知るかそんなもん、モヤシ食え!』
そのふざけた、けれど力強い文字を見た瞬間だった。
ずっと肺の奥底に溜まって固まっていたような濁った空気が、ふっと抜けていくような気がした。
俺は無意識にマウスを動かし、仕事用のメインモニターの横にある、小さなサブモニターでYouStreamを開いた。
「よっす。……あー、今日も今日とて、世界は止まってるけど俺の配信は止まらねえぞ。……お前ら、ちゃんと息して生きてるか?」
黒い背景の画面の中で、フリー素材の金髪アバターが不敵に笑う。
安物のマイクから拾われる、少しノイズ混じりの、けれど真っ直ぐな声。
「ゼン」という男の物語を、俺は2018年の冬、彼がデビューしたその日からずっと追いかけている。
あの頃の彼は、もっと危なっかしくて、不器用だった。同時接続数なんて常にゼロで、俺が初めてコメントを落とすまで、たった一人で暗闇に向かって叫び続けていた。いつ心が折れて消えてもおかしくないような、6畳一間の底辺配信者。
けれど、彼はそこから這い上がった。
数千人、数万人という巨大な数字を持つ大手企業勢の理不尽に巻き込まれながらも、決して媚びず、自分の足で立ち続けた。巨大資本からの数千万という専属契約の誘惑すらも「スジが通らねえ」と蹴り飛ばし、1万人という登録者の壁を、自らの実力と意地だけでこじ開けたのだ。
あの日の同接0人の地獄を知っているからこそ、今、彼の配信に集まっている「同接1000人」という数字の重みが、俺には痛いほどよく分かった。
彼が武器にしてきた「19円のモヤシ」というリアル。嘘をつかず、等身大の自分を晒し続けるその生き様が、俺のような「流されるだけの社会人」には、どうしようもなく眩しくて仕方がなかった。
『匿名希望:ゼン、今日も残業のお供にさせてもらうわ』
凄まじい速度で流れていくチャット欄。数え切れないほどのコメントと、飛び交うスーパーチャットの濁流。
昔のように、俺のコメントが画面にポツンと残ることはもうない。
それでも、俺が投げたその一文を、彼は一瞬で見つけ出した。
「おっ、匿名希望。……残業か? 5月の深夜に働くなんて、お前も物好きというか、社畜の鑑だな。……でもまぁ、安心しろ。俺が配信してる間は、お前は一人じゃない。……よし、今日はこいつを食いながら、L-SwitchでE-Legやるぞ」
画面の向こうで、バキバキと安っぽい咀嚼音が鳴る。
19円のモヤシだ。
今や彼は、同接一千人を安定して抱える人気配信者になりつつある。広告収益や投げ銭の額を考えれば、もっといいものを食えるはずなのに、彼は相変わらず、スーパーの底値で買ってきたモヤシを炒めて食っている。
「金を持ったら人は変わる」というのがこの界隈の常識だが、彼は意地でも変わろうとしない。
その変わらなさが、世界がひっくり返ってしまった今、俺には何よりの救いだった。
「……なぁ、お前ら」
E-Legの降下画面を見つめながら、ゼンがふと、独り言のようにつぶやいた。
「……最近、配信バブルだなんて言われて、俺の同接数字も確かに異常なくらい増えた。……でもな、俺は知ってるぞ。この数字の裏にあるのは、ステイホームで家にいるお前らの『暇』だけじゃなくて、圧倒的な『寂しさ』だってな」
ゼンのその言葉が、Excelに数字を打ち込んでいた俺の手をピタリと止めた。
彼は鋭い。
画面の中では傍若無人に振る舞っているが、その本質は恐ろしいほどに他人の痛みに敏感だ。
本人だって、「安住善治」という一人の大学生として、オンライン化された就職活動や、見えない将来の不安に苛まれている真っ最中のはずなのだ。
数日前の配信で、E-Legのチャンピオンを獲った直後に彼が見せた、あの「安置外」を見つめるような、ひどく寂しげで焦燥感に駆られた表情。古参のリスナーである俺は、その微かな翳りを見逃さなかった。
彼自身もまた、この狂った世界の中で、必死に自分の居場所を探して足掻いている一人の若者に過ぎない。
けれど、彼はマイクの前では、決して弱音を吐かず「ゼン」であり続けようとする。
俺たちのような、行き場のない連中に「ここが特等席だ」と救いを与えるために。
「世界がどんなに変わっちまっても、俺の食うモヤシの味は変わらねえし、お前らがこの部屋に来れば、俺はいつも通り『よっす』って言う。……それだけで、今は十分だろ?」
画面の中で激しい銃声が響き、ゼンが軽快にキャラクターを操作し、次々と敵をなぎ倒していく。
「っしゃあ! 見たかお前ら!」と吠える彼の声を聞きながら、俺は再び、仕事用のExcel画面に向き直った。
不思議と、さっきまで鉛のように重かった指が、滑らかにキーボードの上を動き始める。
淀んでいた頭の中がクリアになり、複雑だったコードの絡まりがスルスルと解けていくような感覚があった。
2020年5月。
誰もが口元をマスクで隠し、すれ違う他人をウイルス扱いして疑い、ソーシャルディスタンスという名目で距離を置いていたあの春。
俺たちは、物理的な接触を断たれた絶望の中で、6畳一間から発信される一人の青年の不器用な声に、確かに「社会」との繋がりを感じていた。
深夜2時半。
ようやく明日の会議に間に合う分の仕事の目処がついた頃、ゼンの配信も終わりの時間を迎えていた。
「……じゃ、今日はこの辺で。……明日はモヤシをバターで炒めてみるわ。少しはマシな味になるだろ。……おつモヤ。……ちゃんと寝ろよ、お前ら。……生きてまた明日、ここで会おうぜ」
ブツリ、と配信が終了し、サブモニターが真っ暗になる。
部屋には再び、PCの排気音だけの静寂が戻ってきた。
けれど、数時間前まで心の奥底にぽっかりと開いていた冷たい空洞は、今はもう、確かな熱を持った温かい何かで満たされていた。
スマートフォンの画面に目を落とす。
YouStreamとMutterの通知オン設定。
この小さなベルのマークが、俺の明日を辛うじて繋ぎ止める命綱だった。
(……ゼン。お前がその6畳一間でスジを通し続ける限り、俺もこの理不尽な世界で、もう少しだけ足掻いてみるよ)
俺は伸びをして凝り固まった肩をほぐすと、保存を終えたPCの電源を落とした。
カーテンの隙間から、ほんのわずかに、白み始めた朝の光が差し込もうとしていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
もし「面白い」「続きが読みたい」と思っていただけましたら、ページ下部の☆☆☆☆☆から評価をお願いいたします。
執筆の励みになります。




