第24話:ステイホームの狂騒曲。島でのスローライフと、止まった現実
2020年4月。突如として訪れた「足止めの春」。大学のキャンパスは閉鎖され、アルバイト先も休業。6畳一間に閉じ込められた安住善治を待っていたのは、かつてない規模の「数字」の暴走だった。誰もが癒やしを求めて無人島へ移住する中、ゼンの島だけは、現実逃避の最前線と化していく。
世界から、日常の音が消え失せた。
正確には、窓の外を走る車のせわしないエンジン音や、近所の公園で夕暮れまで遊ぶ子供たちの甲高い声が、ある日を境にぷつりと途絶えたのだ。遠くの幹線道路から時折聞こえてくる救急車のサイレンだけが、今が平時ではないことを無機質に告げている。
代わりに俺の耳に届くのは、L-Switchという携帯ゲーム機から流れるのどかな波の音と、この狭い6畳一間に重く鳴り響くデスクトップPCの排気音だけだった。
「……よっす。……今日も今日とて、『アニマル・アイランド』で島開拓な。……いや、もう開拓っていうか、現実の俺たちからすれば、これは監獄の慰問品みたいなもんだよな。出られないんだもん、外に」
2020年4月。
画面の中、俺の分身である金髪のアバターは、色鮮やかな無人島の海岸でのんびりと釣り竿を垂らしている。
配信プラットフォーム・YouStreamのチャット欄の流れる速度は、ほんの数ヶ月前、1月の頃とは比較にならないほど速くなっていた。
『佐藤:ゼン、今日も配信助かる。マジでやることないんだわ』
『黒猫:ずっと家に一人でいるから、ゼンの声が唯一の癒やしです……』
『匿名希望:今日もモヤシ食ってるか? 外出自粛でもモヤシは売り切れてないから安心だな』
『19円最高:同接、もう800超えてるぞ! 今日1000いくんじゃね!?』
同時接続数、800人。
たった少し前、180人という数字を見て「酸欠になる」と怯え、歓喜していた自分が、まるで遠い過去の別人のように思える。
今、世界中が「ステイホーム」という絶対的な大義名分の下、息を潜め、行き場のない時間を抱えながら、四角い画面の中に居場所を求めていた。
かつては「引きこもり」だの「生産性がない」だのと世間から揶揄されていた俺たちの主戦場であるインターネットが、今や人類にとって、ウイルスから身を守るための唯一の安全圏になっていたのだ。
この無人島移住ゲーム、通称『アニ島』の爆発的な大流行は、皮肉にも俺のような個人勢の配信者に、かつてないほどの巨大な追い風をもたらしていた。
学校が休みになり、会社がテレワークになり、娯楽施設が軒並みシャッターを下ろした世界で、人々は猛烈な勢いで「誰かとの繋がり」を渇望している。
「800人か……。ありがとな。……でもお前ら、あんまり俺の配信に依存しすぎるなよ? 画面の中じゃ偉そうに喋ってるけど、俺も現実じゃただの、19円のモヤシ食って生き延びてるだけのしがない大学生なんだからさ」
マイクに向かって軽口を叩きながら、俺は自分の心臓の鼓動が、不自然に速くなっているのを感じていた。
数字が増えるのは、配信者として素直に嬉しい。けれど、今目の前で跳ね上がっているこの数字の正体が、行き場を失った人々の「暇」と「不安」と「孤独」の巨大な集合体であることを、俺は痛いほどに理解していた。
俺の実力で集めたというより、世界が狂ったから、そのおこぼれに預かっているだけだ。その事実が、足元をひどくぐらつかせる。
ふと、モニターから視線を外し、デスクの端に目をやる。
そこには、3月に届くはずだった大学の春学期の履修案内と、就職活動のために買ったきり、一度も袖を通していない安物のリクルートスーツが、ビニールカバーを被ったまま無造作に掛けられている。
大学は春からのすべての講義をオンラインへの移行すると決定し、キャンパスは立ち入り禁止になった。そして、俺がいよいよ本格的に向き合わなければならなかったはずの「就職活動」も、合同説明会はすべて中止になり、面接はパソコンのカメラ越しに行う「Web面接」へと急激に切り替わった。
(……止まってるのは、俺だけじゃない)
俺は、事あるごとにそう自分に言い聞かせている。
世の中全体が止まっているのだ。だから、俺が安住善治としての就職活動を一時停止して、こうして毎日ゲームをしていても、それは個人の怠慢ではなく「不可抗力」なのだと。
そう、この未曾有の配信バブルこそが、俺が三次元の厳しい現実と向き合うことを先延ばしにしてくれる、最強のシェルターとして機能していた。
「おっ、タイが釣れたぞ。……これ、現実なら料亭で出るような高級食材だけど、この島じゃただのグラフィックなんだよな。食えねえ魚に何の意味があるんだって話だわ。……俺の今日の夕飯? 安心しろ、スーパーで買い占められずにポツンと残ってた、安定のモヤシ炒めだよ」
自虐で笑いを取る。チャット欄に「草」の文字が弾幕のように流れる。
画面の中の島は、色鮮やかで、平和で、誰も傷つかないスローライフに満ちている。
けれど、二時間の配信を終え、部屋の電気を消してPCの電源を落とした瞬間。
圧倒的な静寂と闇の中から、「安住 善治」という何者でもない現実が、冷たい手で俺の足首を掴みながら這い出してくる。
スマホを開くと、通知ランプが点滅していた。
大学の友人、タカシからのMutterのダイレクトメッセージだった。
『安住、生きてるか? 俺、Web面接5連敗中。カメラ越しに熱意伝えるとかマジで無理ゲーすぎるわ。回線落ちたら終わりだし、面接官の反応も読めねえし。……お前は、まだ「例のやつ」やってんの? 就活どうしてる?』
「例のやつ」。
タカシにとって、俺の配信活動はまだ、その程度の認識だ。彼の中では、俺は現実逃避をしている痛い大学生のまま止まっている。
だが、現実はどうだ。
今日の同接は800人を超えた。そして、毎晩のように投げられるスーパーチャットや広告による月間の推定収益は、俺が物流倉庫で汗水垂らして稼いでいたバイト代を、すでに遥かに超え始めている。大卒の初任給すらも凌駕しそうな勢いだ。
それでも、俺はタカシに「俺は配信で稼げてるから順調だ」なんて、口が裂けても返信できなかった。
この金は、この数字は、世界が異常事態に陥っているからこその、いびつで脆いバブルに過ぎない。そんな泡のような数字を盾にして、必死に現実の就職活動で傷ついている友人を見下すことなんて、俺の「スジ」が許さなかった。
『生きてるよ。俺も何も手についてねえわ。お互い、今は耐えるしかねえな』
当たり障りのない嘘の返信を打ち込み、スマホをベッドに放り投げる。
暗い部屋で、俺は自分の両手をじっと眺めた。
L-Switchのコントローラーを何時間も強く握りすぎたせいで、指先が少し赤くなり、痺れている。
この指で、俺は本来、企業へのエントリーシートのキーボードを叩くべきなのか。
それとも、画面の向こうで不安に震えているさらに多くのリスナーを笑わせるために、明日もまた、新しいゲームの実況や企画を練るべきなのか。
立ち上がり、アルミサッシの窓を少しだけ開ける。
春の生暖かい風が入り込んでくる。窓の外、月明かりに照らされた東京の通りを見下ろすと、金曜の夜だというのに、見事なまでに無人だった。
遠くに見えるマンションの窓には、無数の明かりが灯っている。あの無数の光の一つ一つに、行き場を失い、画面を見つめている人間がいる。
2020年の春。
俺たちは、インターネットという不可視の糸でかつてないほど「繋がって」いて、それなのに、かつてないほど「孤独」だった。
「……スジ、通さなきゃな」
誰にともなく、震える唇から呟いた言葉は、生暖かい夜風とPCの排気音に吸い込まれて消えた。
画面の中の、平和な島でのスローライフ。
そして、この狂ったステイホームの熱狂。
それがいつか終わり、元の世界が動き出した時、俺は一体、三次元のどこに立っているのだろうか。
暗闇の6畳一間で、俺は冷え切った19円のモヤシの袋を強く握りしめたまま、ただ朝が来るのを待っていた。
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