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誰かがログアウトする前に。〜VTuber黎明期から、激動の界隈でただ一人、この世界から「落ちなかった」男の物語〜  作者: さじ
第3章:閉ざされた世界の熱狂 ―2020、ステイホームと選択の季節―

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第23話:2020年の幕開け。静かに忍び寄る影と、見慣れた就活サイト

2020年1月。世界がまだ「いつも通り」だった最後の1ヶ月。大学3年生の冬を迎えた安住善治あずみ よしはるは、地道に積み上げてきた配信者「ゼン」としての手応えと、出口の見えない「就活生」としての現実の間で、静かな板挟みに遭っていた。

2020年1月。

年明けの喧騒が嘘のように引いていき、世間がただの冷たい日常へと戻っていく季節。

アルミサッシの隙間から入り込む冬の乾燥した隙間風が、6畳一間の自室に重く居座っている。暖房をつける余裕のないこの部屋で、唯一の熱源であるデスクトップPCが、今日も苦しげな排気音を立てていた。


「……よし、今日はお疲れ様。また明日、適当な時間に。おつモヤ」


俺は、少しだけ掠れた声でマイクにそう告げ、配信ツールの終了ボタンをクリックした。


数秒前まで、俺のひび割れたモニターの中には「同時接続数800人」という、熱狂の渦が巻き起こっていた。画面右端を滝のように流れていたコメント欄がふっと消え去り、部屋にはファンの回転音だけが残される。

ヘッドホンを外すと、耳の奥にこびりついた電子音の残響と、リスナーたちの幻の声が、今の物理的な静寂をよりいっそう深いものにしていた。


800人。そして、登録者数1万人。

東京ドームを埋め尽くすような天文学的な数字ではない。けれど、この狭く薄暗い6畳一間に、毎晩800人もの人間が詰めかけていると想像すれば、それはもう、熱気と酸欠で死んでしまうほどの圧倒的な暴力だ。

2年前、視聴者ゼロの暗闇に向かって、ただ虚空に独り言を投げかけていた頃の俺からすれば、今の状況は間違いなく奇跡と呼べるものだった。


俺は小さく息を吐き、ブラウザの別タブをクリックした。

配信画面の裏側で、二時間前からずっと開いたままになっていたページが、目に突き刺さるような白さで表示される。


就職情報サイト『ネクストキャリア2021』のトップページ。


「……自己分析、ね」


画面の中央には、スーツを着た爽やかな男女のフリー素材と共に、「あなたの強みを見つけよう」「早期エントリーで差をつけろ!」という、どこか俺を急き立てるような、けれど決定的に他人事のようなキャッチコピーが躍っている。

ログイン情報の欄には、俺の本名である『安住 善治』の文字が、無機質な明朝体で固定されていた。


19歳、大学1年生の冬。何者かになりたくて、ノリと勢いだけで始めたこの配信活動も、気づけば丸2年が経とうとしている。

ガサリ、と嫌な音がして、デスクの足元に無造作に積み上がっていた企業からのダイレクトメールの山が崩れた。そこには「御社」だの「インターンシップ」だのという、俺の生活圏には存在しないはずの単語が羅列されている。


大学の友人たちは、冬休みが明けた直後から、急に「ESエントリーシートの添削がどうの」「グループディスカッションの対策がどうの」と、まるで別世界の未知の言語を話し始めている。


「安住君、卒業したらどうするの?」


数日前のゼミの後、真面目な女子学生に無邪気に尋ねられた言葉が、抜けないトゲのように胸の奥底に刺さったままだ。


配信者「ゼン」としての俺は、画面の中で「よっす」と不敵に笑い、数千人のリスナーの悩みを聞き、19円のモヤシをどう美味く食うかをドヤ顔で語る、一種のカリスマだ。彼らは俺の言葉に熱狂し、時に数千円のスパチャを投げてくれる。

けれど、一人の大学生としての「安住 善治」はどうだ。

スーツすら持っておらず、資格もなく、ただ6畳一間で将来の行き止まりを眺めているだけの、何者でもない21歳だ。


翌日。

俺は、鉛のように重い足取りで大学のキャンパスへと向かっていた。

冷たい1月の風が、枯れ木の間を吹き抜けていく。すれ違う学生たちの何割かは、すでに黒いリクルートスーツに身を包み、焦燥感を顔に貼り付けて早足で歩いていた。


学食の入り口付近で、同じ学部の友人、タカシが声をかけてきた。


「よっ、安住。お前、昨日のゼミ、なんで来なかったんだよ。……まあいいけどよ、今の時期に単位落とすと、就活に響くぞ。俺、もう3社インターン決まったわ」


得意げに笑うタカシの手には、分厚い『SPI対策・完全攻略問題集』が握られている。その白黒の無骨な表紙を見ただけで、俺の胃のあたりがキュッと収縮し、軽い吐き気を覚えた。


俺が昨日の夜、同接800人の前で「賞味期限ギリギリのモヤシをいかにシャキシャキに炒めるか」を、己の魂を削って熱弁していた時。彼はどこかの小綺麗な会議室のような場所で、大人たちを相手に「御社の理念に共感し、社会に貢献したく……」と、自分でも心の底からは信じていないであろうセリフを、真剣な顔で練習していたのだ。


「……安住、お前さ。まさかとは思うけど、あの『配信』で一生食っていくとか思ってねえよな?」


タカシの言葉は、あくまで友人としての冗談めかしたトーンだった。だが、その奥には明確な「社会の正論」という名の鋭いナイフが隠されていた。

お前のやっていることはお遊びだ。そろそろ現実を見ろ。

彼の言葉の裏にあるメッセージは、痛いほどに理解できた。


「……ははっ、まさか。ただの暇つぶしだよ。俺もそろそろ、ネクストキャリア登録して動き出すところだわ」


俺は、自分でも驚くほど乾いた愛想笑いを返し、適当に話を逸らしてその場を逃げるように去った。

背中に突き刺さるタカシの視線が、酷く冷たく感じられた。


その日の夜。

6畳一間に戻り、冷え切った手をこすり合わせながら、俺はいつものようにPCを立ち上げ、マイクの前に座った。

配信開始のボタンを押した瞬間、三次元の暗闇だった世界に、二次元の強烈な光が灯る。


「よっす。……あー、お前ら。……今日も今日とて、19円のモヤシが最高に美味い夜だな。お前ら、ちゃんと息してるか?」


いつもの挨拶。強気の声色。

チャット欄には、待ってましたとばかりに、いつもの常連たちが集まってくる。


『佐藤:兄貴! 今日も冷えるな!』

『黒猫:仕事でミスして最悪でしたが、ゼンの声で持ち直しました』

『匿名希望:ゼン、今日も大学お疲れ様。そういやお前、3年だろ? 就活、進んでるか?』


数あるコメントの中で、「匿名希望」のチャットが目に留まった瞬間、俺の喉がキュッと締まり、言葉が一瞬だけ詰まった。

悪気がないのは分かっている。むしろ、初期の頃から俺の配信に入り浸っている彼は、俺の将来を本気で心配してくれているダチの一人だ。


「……あー、就活な」


俺は、少しだけ沈黙した後、努めて明るい声を作った。


「……まあ、ボチボチだよ。エントリーシートっていう名の、三次元で最高に難解なクソゲーと格闘中だわ。マジでボスのHP高すぎて萎えるぜ」


嘘だった。

一枚も書いていないし、サイトの登録情報を埋めることすら途中で投げ出している。


画面の中の金髪アバターは、モーションキャプチャーに連動して不敵に笑っている。だが、その裏側で、俺は自分の発した言葉の軽薄さと不甲斐なさに、激しい自己嫌悪を覚えていた。


俺の配信の最大の売りはなんだ?

「スジを通すこと」じゃなかったのか。

自分の本音を隠さず、巨大なシステムに中指を立てて、19円の真実を叫ぶことじゃなかったのか。

それなのに、俺は今、一番の味方であるはずのリスナーに、一番くだらない「見栄」のための嘘をついている。


俺が「安住 善治」として履歴書に書けることなんて、何一つない。

「ゼン」としてなら、365日休まず配信を続け、巨大事務所の案件を蹴り飛ばし、1万人の登録者を集めたという強烈な実績がある。けれど、それはこの息苦しい社会では、履歴書の資格欄に書くことすら許されない、「遊び」の延長線上でしかないのだ。


1月下旬。

ネットニュースの片隅や、テレビのワイドショーでは、海の向こうの隣国で流行しているという「新型ウイルス」の話題が、少しずつ、だが確実にその報道ボリュームを増していた。


世界がこの後、未知の恐怖に包まれ、それに伴って「ステイホーム」という言葉が生まれ、配信者にとっての劇薬とも言える狂乱のバブル時期に突入することになる。

そんな未来を、この時の俺たちは、まだ誰も知らなかった。


「……なーんて、冗談だよ、バカ! 俺が就活でスーツ着てペコペコ頭下げるなんて、100年早いっての!」


俺は、胃の奥に広がる不快感を力任せに押し殺し、マイクに向かって無理やり声を張り上げた。


「さあ、今日のメインイベントだ。冷蔵庫の奥で眠ってた、賞味期限が1時間前に切れたモヤシを、最高級のステーキに見せる魔法の炒め方を見せてやるよ! 見逃すなよ、お前ら!」


フライパンに火をつけ、油を引く。激しい音が、部屋の空気を振動させる。

画面の向こう側の熱狂が、チャットの流れの速さが、三次元の冷たい現実と俺の嘘を、一時的に塗りつぶしていく。


けれど、二時間の配信を終え、PCの電源を落とした後に訪れた6畳一間の暗闇は。

昨日よりも少しだけ、深く、重く、俺の肩にのしかかっていた。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。


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