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誰かがログアウトする前に。〜VTuber黎明期から、激動の界隈でただ一人、この世界から「落ちなかった」男の物語〜  作者: さじ
第2章:2019年「三次元への宣戦布告」

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第19話:【閑話】匿名希望の、一番長い月曜日

2019年6月。令和の熱狂も落ち着き、日常が淡々と牙を剥く季節。画面の向こう側で数千人を熱狂させるゼンの声は、現実世界で「歯車」として生きるリスナーたちにどう届いているのか。これは、ゼンの「特等席」を死守し続けるあるリスナーの、孤独で、けれど独りではない夜の記録です。

2019年、6月17日。月曜日。

午後11時42分。都内を走る中央線の車内は、湿った空気と、疲れ果てた大人たちの沈黙に満ちていた。

吊革を掴む私の手は、冷房の冷たさと、一日中叩き続けたキーボードの疲労で感覚が麻痺している。

私の名前は、ない。いや、正確にはあるのだが、この12時間、私は「課長」や「担当者」や「おい」という代名詞でしか呼ばれていなかった。


今日は、最悪の一日だった。

午前中の会議で理不尽に怒鳴られ、午後は後輩のミスを肩代わりして頭を下げ、夜は接待という名の「若手芸人」を強要された。最後の一杯を断り、終電間際の電車に逃げ込んだ時、私の自尊心は19円のモヤシよりも薄っぺらくなっていた。

(……何のために、働いているんだろうな)

窓ガラスに映る自分の顔は、ひどく老けて見えた。

令和になれば何かが変わる気がしていた。けれど、現実は残酷なまでに「昨日」の続きでしかない。


私は震える指でスマートフォンを取り出し、イヤホンを耳の奥に押し込んだ。

開くのは、見慣れた赤いアイコンのアプリ。

そこには、私の「名前」がある場所。

「……よっす。……あー、お前ら、月曜日からお疲れさん。死んだ魚の目してスマホ眺めてんじゃねえぞ」

耳元に飛び込んできたのは、少し音割れした、けれど世界で一番頼もしいダミ声。

VTuber、ゼン。


画面の中では、金髪のアバターが、いつも通りの汚い六畳一間で、いつも通りの19円のモヤシを炒めている。


『佐藤:兄貴! 今日も残業でボロボロだわ! 癒してくれ!』

『セリナ:ゼン様! ワタクシ、今日の講義で居眠りしてしまいましたわ!』

チャット欄を流れる文字を見ていると、不思議と呼吸が楽になる。

私はログインし、慣れた手つきで文字を打ち込んだ。

『匿名希望:こんばんは、ゼンさん。今、終電です。今日ほど月曜日が長く感じたことはありません。』

書き込んだ瞬間、画面の中のゼンが、ふと手を止めたように見えた。

「……お、匿名希望。生きてたか。一番長い月曜日、か。……いいよ、よく帰ってきた。お前が終電の吊革を掴んでるその手は、今日一日、誰かのために汚れて、誰かのために頭を下げた、スジの通った手だ。俺が保証してやるよ」

電車の揺れで、視界が少し滲んだ。

職場の誰一人として、今日の私の努力を認めてはくれなかった。私の仕事は「やって当たり前」であり、ミスをすれば「無能」の烙印を押されるだけの消費財だ。


けれど、この金髪の大学生は、画面越しに私の「存在」を肯定してくれる。

「いいかお前ら! 世界の歯車になるのは悪いことじゃねえ。でもな、たまには油を差してやらなきゃ焼き付いちまうだろ。今夜はこの『ゼン・オイル』をたっぷり浴びて、明日を乗り切るためのガソリンにしろよ」

ゼンがフライパンを振る。

ジュー、という安っぽい音が、高級料亭のどんな演奏よりも心地よく響く。


私は、駅のホームに降り立った。

家路につく道すがら、私はゼンの声を聴き続けた。


最近、界隈ではスターライブのような大手事務所が、豪華な3Dライブやプロが作った音楽を次々と発表している。それは確かに素晴らしいエンターテインメントだ。

けれど、今の私に必要なのは、遠い宇宙のスターの輝きではない。


同じ夜の底で、同じように19円のモヤシを食いながら、「生きてりゃいいんだよ」と笑ってくれる、隣の部屋に住んでいるような兄貴分の体温なのだ。

(ゼンさんも、戦っているんだな……)

先日、彼が大手事務所のスカウトを蹴ったという噂を聞いた。

1000万円という、私のようなサラリーマンには想像もつかない大金を、彼は「自分を殺したくない」という理由だけで拒絶した。


その話を聞いた時、私は救われた気がした。


私たちが日々、理不尽に耐えて、頭を下げて、それでも守り抜こうとしている「自分」という小さな領域。それを、ゼンは最も過激な形で体現してくれている。

だからこそ、私は彼にスパチャ(投げ銭)を投げる。

それは応援ではない。

私の代わりに自由を叫び続けてくれる彼への、感謝の「お裾分け」だ。

「よし、匿名希望! お前の明日の運勢を占ってやる。……えーっと、明日のお前のラッキーアイテムは……『19円のモヤシ』だ! スーパーに寄って帰れよ、売り切れてても泣くんじゃねえぞ!」

私は、夜道を歩きながら、思わず小さく吹き出した。


コンビニの自動ドアが開く。

ふと、レジに立つ店員さんを見る。

どこかで見覚えのある、綺麗な、けれど力強い目をしている少女だった。


私は、彼女から受け取ったお箸を二膳、鞄にしまった。

一膳は明日の自分へ。もう一膳は、いつかこの「特等席」に辿り着くかもしれない、誰かのために。

アパートに帰り着き、スーツを脱ぎ捨てる。

PCの前に座り、ゼンの配信を全画面表示にする。


午前1時。

ゼンが「じゃあな、明日も死ぬ気で生きろよ。よっす!」と配信を切る。


画面が真っ暗になる。

そこに映った自分の顔は、電車の中とは違っていた。


少しだけ、口角が上がっている。


「……よし。明日も、やってやるか」


私の月曜日は、ようやく終わった。


2019年、6月。

令和最初の梅雨が始まろうとしていた。


画面の中のゼンは、明日もきっとモヤシを炒めているだろう。

そして私も、明日もきっと、社会という荒波の中で頭を下げ続けているだろう。


けれど、私たちは繋がっている。


一袋19円のプライドを胸に。


私は深い眠りに落ちながら、心の中で、金髪の兄貴分に向けて、最高の「よっす」を返した。


最後までお読みいただき、ありがとうございます。


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