第14話: 没落令嬢セリナの、内緒のアルバイト
2019年春。ゼンが「19円のモヤシ」を掲げて巨大事務所の誘いを蹴飛ばしていたその裏で、彼を「恩人」と慕う一人の少女もまた、現実という名の荒波に揉まれていました。
没落貴族のお嬢様VTuber・セリナ。華やかなアバターと、気品溢れる(?)おーほっほという高笑いの裏側。3Dモデルの製作費と、日々の食費を稼ぎ出すために彼女が選んだ「戦場」とは。
これは、物語のヒロインが、憧れの人の背中を追いかけるために流した、泥臭くて愛おしい汗の記録です。
2019年、3月下旬。
深夜2時の東京都内。桜の蕾がようやく綻び始めた、春の冷たい夜風が吹き抜ける大通り。
その一角にある、煌々と青白いLEDに照らされたコンビニエンスストア『デイリー・プラネット』の店内は、奇妙な静寂に包まれていた。
「……いらっしゃいませぇー」
自動ドアが開く音に合わせて、セリナ――いや、現実の彼女である『織田』は、少し低めの、使い古された雑巾のような声で挨拶をした。
画面の中の、あの金髪縦ロールが美しい「没落令嬢セリナ」の気品は、どこにもない。
彼女は今、首元が少し伸びた制服のベストを羽織り、髪を後ろで適当なポニーテールにまとめ、深夜のレジに立っていた。
なぜ、彼女がここにいるのか。
理由は、あまりにも切実で、あまりにも「現実」だった。
一つは、VTuberとしての次のステップ、3Dモデルの製作費。
2Dのイラストを動かす今の環境でも人気は出たが、大手事務所のライバーたちが3Dの体でステージを飛び跳ね、ダンスを踊る姿を見て、彼女は確信したのだ。自分もあそこに行かなければ、ゼン様と同じ景色は見られない、と。
だが、個人のクリエイターに依頼する3Dモデルの製作費は、安く見積もっても数十万円。
地方から出てきて、奨学金を借りながら細々と一人暮らしをしている女子大生にとって、それは天文学的な数字だった。
「……480円になります。……あ、温めますか? はい……」
酔っ払ったサラリーマンが差し出した、ワンカップの酒とチキン。
電子レンジが「ブォォォン」と鈍い音を立てて回るのを眺めながら、彼女はレジの下に隠した自分のスマホを、ほんの一瞬だけチラリと見た。
通知画面には、ゼンがさきほど投稿したMutterの呟きが表示されていた。
『19円のモヤシ炒め、完成。今日も今日とて、最高の味だわ。』
そのたった一行の、文字通りの「貧乏臭い」呟きを見て、織田の口元が、ほんの少しだけ、本当に一瞬だけ緩んだ。
(ゼン様は……本当に、すごいですわね。あのスターライブ様からのスカウトを蹴って、今も六畳一間でモヤシを炒めてらっしゃるなんて。……それに比べて、ワタクシときたら……)
チーン、という電子レンジの無機質な音が、彼女を現実に引き戻す。
温まったチキンを手渡し、客を送り出すと、店内には再び静寂が訪れた。
深夜のコンビニバイトは、まさに忍耐の戦いだ。
床の清掃、期限切れ商品の廃棄チェック、そして山のように届く新商品の検品と品出し。
彼女は、重い段ボールを台車に乗せ、慣れた手つきでドリンクの補充に向かった。
冷たい冷蔵庫の裏側で、冷え切ったペットボトルを一本ずつ棚に並べていく。
指先の感覚が麻痺し、腰に重い鈍痛が走る。
(……没落令嬢、なんて嘘ですわ。ワタクシは、ただの、地方出身の、お金のない女の子。……こんな姿、リスナー様が見たら、きっと幻滅されてしまいますわよね)
ふと、自分の荒れた指先が目に入った。
配信中のセリナの手は、白くて、細くて、高価なレースの手袋に包まれている。
けれど、今の自分の手は、段ボールの擦れ跡と、消毒液でカサカサに乾いている。
ゼンは、自分の「中身」を隠さない。
19円のモヤシを食っていることを誇らしげに語り、生活感という名のリアリティを武器にして戦っている。
けれど、セリナにはそれができなかった。
「お嬢様」というキャラクターを愛してくれている人々を裏切るのが怖かったし、何より、本当の自分の惨めさを認めるのが、彼女自身のプライドが許さなかったのだ。
(……でも、ゼン様は仰いましたわ。「嘘をつくのはスジが通らない」と。……ワタクシも、いつか、本当の自分を笑って話せる日が来るのかしら……)
その時だった。
自動ドアが開き、一人の客が入ってきた。
ヨレヨレのスーツを着て、疲れ果てた顔をした、20代後半くらいの男。
彼は、真っ直ぐに弁当コーナーへ向かい、しばらく悩んだ末に、一番安い「海苔弁当」を手に取った。
さらに、カップ麺のコーナーへ行き、一番安いPB商品の醤油ラーメンをカゴに入れる。
レジにやってきたその男の顔を見て、彼女は心臓が跳ね上がるのを感じた。
もちろん、現実で会ったことはない。けれど、彼女には確信があった。
この男の、少し猫背な姿勢。スマホを片時も離さず、画面を食い入るように見つめているその目。
(……この方、もしかして……『黒猫』さん……?)
ゼンの常連である、あのサラリーマンの黒猫。
配信中の声や雰囲気から想像していた「疲弊した現代人」のイメージが、目の前の男とピタリと重なった。
男は、レジを待つ間も、スマホを眺めていた。
その画面には、ゼンのアーカイブ動画が映っている。
『――いいかお前ら! 会社で上司に怒鳴られたって、俺のこの19円のモヤシの音を聴けば、悩みなんてバカらしくなるからな! 歯を食いしばって生きろよ!』
ゼンの、少し音割れしたダミ声が、静かな店内に微かに漏れ聞こえてくる。
その声を聴いている黒猫の表情が、ほんの少しだけ、本当に一瞬だけ、和らいだのを彼女は見逃さなかった。
「……642円になります」
彼女は、いつもの業務的な声ではなく、無意識のうちに、少しだけ、ほんの少しだけ優しさを込めた声で言った。
黒猫は、小銭を出しながら、ふと彼女の名札を見た。
「……あ、お箸、二膳つけてもらえますか」
「……はい、かしこまりました。……お仕事、お疲れ様です」
最後の一言は、完全に独り言のような、小さな囁きだった。
黒猫は、少しだけ驚いたような顔をして彼女を見たが、すぐに「……あぁ。ありがとうございます」と短く返し、弁当の袋を提げて店を出て行った。
夜の闇に消えていく彼の後ろ姿を見送りながら、彼女は自分の胸に手を当てた。
(……ワタクシも、繋がっているんですわね)
画面の向こう側の数字じゃない。
ゼン様が守っているあの場所は、こうして、現実の、泥臭い場所で必死に生きている人たちの、唯一の救いになっている。
そして、自分もまた、その救いの一部になりたいから、こうして深夜のコンビニで、重い段ボールを運んでいるのだ。
没落令嬢、なんて嘘じゃない。
今の自分は、未来の「本物」を手に入れるために、誇りを持って、この現実という名の戦場で戦っているのだから。
「……よし。休憩、終わりですわ」
彼女は、裏のスタッフルームで、自分用に買っておいた「半額シールの貼られたおにぎり」を一口かじった。
冷え切った米が、少しだけ硬い。
けれど、その味は、どんな高級フランス料理よりも、今の彼女の心に深く染み渡った。
午前4時。
品出しが終わり、廃棄登録を終えた彼女は、レジのカウンターで小さなため息を吐く。
あと一時間で、シフトが終わる。
アパートに帰って、一時間だけ眠ったら、また大学へ行かなければならない。
けれど、彼女の瞳には、もう迷いはなかった。
(ゼン様……待っていてくださいまし。ワタクシも、すぐに、その3Dのステージへ駆け上がって見せますわ。……その時は、ワタクシが炒めた特売のモヤシを、ゼン様に食べさせて差し上げますの!)
彼女は、金髪縦ロールのセリナがよくやる、あの不敵な微笑みを、現実の、織田の顔で浮かべてみせた。
2019年、3月。
華やかなバーチャル界隈の裏側で。
没落令嬢セリナは、今日も深夜のレジを打ち続ける。
19円のモヤシを愛する男と、その男に救われたリスナーたち。
彼らとの絆が、彼女の折れそうな心を、今日も一番強く支えていた。
「……いらっしゃいませぇー!」
朝の光が差し込み始めた自動ドア。
出勤前のサラリーマンたちが次々と入ってくる。
彼女は、精一杯の笑顔で、新しい一日を迎える人々を迎え入れる。
それは、配信中には決して見せることのない、彼女という人間の、もう一つの、けれど最高にスジの通った「美学」だった。
シフトを終え、朝日が眩しい駅前を歩きながら、彼女はスマホを取り出した。
銀行口座の残高を確認する。
3Dモデル製作費まで、あと、28万4000円。
「……先は長いですわね。でも、ゼン様なら『まだ28万もあるじゃねえか』って仰るかしら」
彼女は、誰に届くともなく、小さく「おーほっほっほ」と呟いてみた。
通りすがりのサラリーマンが、不審そうな顔をして彼女を避けていく。
「……失礼いたしましたわ。これは、ワタクシの、秘密の呪文なんですもの」
彼女は、鼻歌を歌いながら、各駅停車の電車へと乗り込んだ。
2019年の春。
没落令嬢の、本当の「逆転劇」は、この泥臭いアルバイトから、静かに、確実に始まっていたのである。
「セリナの努力、応援したい!」「黒猫さんとのニアミス、エモい!」と思っていただけましたら、
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