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第9話 安いほうを選んだだけです

銅貨は六枚だった。


 パンが二枚で一枚。宿はもう払っていない。工房の隅を借りている分、寝る場所には困らないが、食うには足りない。


 レンツ・ノルムは板を削りながら、その数を頭に置いていた。


 三十四本、測り直さなければならない。朝の幅の中で、もう一度全部。


 一日に測れるのは、せいぜい十本だった。目がもたない。


 四日かかる。


 その四日、彼は何も稼がない。


「レンツさん」


 イルゼ・シュミットが炉の前から言った。


「今日、パン買ってきますね」


「……いえ」


「二人分です」


 彼女は前掛けで手を拭いた。


「うち、今月は仕事が入ってるので」


 嘘だった。


 大物の仕事は、鉤がないので受けられていない。新しい鉤は駄目で、次のあてもない。イルゼが打っているのは、小物ばかりだった。


 レンツは、何も言わなかった。


   ◇


 昼過ぎに、男が工房を訪ねてきた。


 馬の匂いがした。荷馬車引きだ。


「シュミットの嬢ちゃんいるか」


「はい」


「車軸留めを四つ、頼みたい」


 イルゼが立ち上がった。表情が動いた。


「……いいんですか」


「何が」


「うち、坂で荷を落としたところです」


 男は面倒くさそうに手を振った。


「そりゃ聞いてる。だがな、あんたんとこの他に、この谷で車軸留めをまともに打てるとこがあるか」


 彼は肩をすくめた。


「クヴァントは今、鉱山の仕事で手一杯だ。ホルストは大物専門だ。あんたに頼むしかねえんだよ」


 イルゼが頷いた。


「作ります」


「三日でくれ」


「はい」


 男は金を置いて、それから、レンツを見た。


「あんた、あれか」


「はい」


「道具が危ないって言って回ってる人か」


「はい」


 男は、しばらくレンツを見ていた。


 値踏みするような目だった。


「……うちの馬車、見れるか」


   ◇


 荷馬車は、工房の前の道に停めてあった。


 二頭立て。荷台は広く、車輪は四つとも鉄輪を巻いてある。街道を往復する仕事用の車だった。


 レンツは、車輪から視た。


 輪の継ぎ目。輻。軸。


 視界の縁に、数が滲む。


「どうだ」


「少し、時間をいただきます」


 彼は車の下に潜り込んだ。


 軸を留めている金具が四つ。そのうち、右の後ろだけが違った。


 鉄の中に、細い割れが入っている。表面ではない。内側から、輪の付け根に向かって伸びていた。


 レンツは這い出して、荷馬車の主に言った。


「右後ろの軸留めが、傷んでいます」


「どのくらい」


「分かりません。ですが、他の三つとは違います」


 男は屈み込んで、自分でも覗いた。


「……見えねえな」


「はい」


「見えねえもんを、どうしろってんだ」


 レンツは答えを持っていなかった。


 いつもの壁だった。


 だが、男は立ち上がると、こう言った。


「いくらだ」


「え」


「見料だよ。いくら払えばいい」


   ◇


 レンツは、答えられなかった。


 値段を考えたことがなかった。


 八年、彼は測ってきた。金をもらったことは一度もない。装備管理係の給金は、担ぐことと走ることへの対価だった。測ることには、値段がついていなかった。


 前世でも、そうだった。


 彼が書いた報告書に、値段はついていない。書いても給料は変わらず、書かなくても変わらなかった。だから、誰も書かなかった。


 彼だけが書いていた。


 そして、誰も読まなかった。


「……いくらでも」


「そりゃ困る」


 男が言った。


「タダだと、俺が困るんだよ」


「なぜですか」


「タダのもんは、信じられねえだろ」


 男は荷台に手をついた。


「あんた、この街の工房を回って、タダで危ないって言って回ってんだろ。だから誰も聞かねえんだ」


 レンツは、三軒目の主人の顔を思い出した。


 ――余計に怪しい。


「銅貨、三枚でどうだ」


 男が言った。


「三枚」


「安すぎるか」


「……いえ」


「じゃあ三枚だ」


 男は銅貨を三枚、レンツの手に押しつけた。


 それから、荷馬車の右後ろを蹴った。


「で、これはどうすりゃいい」


「替えてください」


「いくらかかる」


「軸留め一つで、銅貨二十枚ほどかと」


「二十か」


 男は少し考えた。


 それから、こう言った。


「まあ、安いな」


「安い、ですか」


「街道の途中で軸が折れてみろ」


 男は指を折った。


「荷が全部だめだ。積荷の弁償で銀貨だ。馬車を直すのに銀貨だ。その間、仕事ができねえ。運が悪けりゃ馬が死ぬ」


 彼は指を四本立てた。


「銅貨二十で済むなら、安いに決まってる」


   ◇


 レンツは、その言葉を工房の床で書き写した。


 ――替えるのに、銅貨二十。


 ――折れたら、銀貨いくつか。


 二つを並べて、しばらく見ていた。


 当たり前のことだった。


 だが、この街の誰も、この二つを並べていない。


 鉤を替えろと言えば、金がかかると言われる。それは本当だ。だが、切れたときにかかる金と並べれば、どちらが高いかは明らかになる。


 問題は、切れたときの金が()()()()ことだった。


 まだ起きていないからだ。


 起きていないものは、勘定に入らない。


 レンツは炭を持ち直した。


 ――起きていない事故の値段を、書く。


   ◇


「何を書いてるんですか」


 イルゼが覗き込んだ。


「値段です」


「値段?」


「鉤が切れたとき、何がいくらかかるかを」


 彼は板を指した。


「イルゼさんのお父上のとき、何がありましたか」


 彼女の手が止まった。


「……父が死にました」


「はい」


「工房が三月、動きませんでした」


 イルゼは、記憶をたどるように言った。


「注文はよそに流れました。半分は、戻ってきませんでした。それと」


「それと」


「梁を直しました。落ちた鉄が、床石を割ったので、そこも」


「金額は」


「……分かりません。母が全部やったので。私は、何も見てませんでした」


 レンツは、そこまでを書いた。


 金額は空欄にした。


「分からないものを、書くんですか」


「書きます」


 レンツは言った。


「分からないと書いておけば、いつか誰かが埋めます」


   ◇


 その夜、荷馬車の男がもう一度来た。


「軸留め、頼んだぞ」


 イルゼに言ったのではなかった。レンツにだった。


「四つ全部だ。悪いの一つじゃなくてな」


「三つは、まだ使えます」


「同じ日に作ったんだろ、あれ」


 男が言った。


「一つ傷んでんなら、あとも似たようなもんだ。どうせ替えるなら、まとめたほうが安い」


 レンツは、しばらく男を見ていた。


 この人は、水平展開という言葉を知らない。


 だが、やっていることは同じだった。


「……その考えを」


「あん?」


「その考えを、どこで」


「馬車引きは、みんなそうだぞ」


 男は当たり前のように言った。


「街道の真ん中で止まったら終わりだからな。俺たちは、止まらねえことで飯を食ってる」


   ◇


 男が帰ったあと、レンツは板を並べ直していた。


 工房の道具。荷馬車。鉱山の巻き上げ機。


 どれも、壊れたら困るものだ。


 だが、困り方が違う。


 鉤が切れれば人が死ぬ。軸留めが折れれば荷が飛ぶ。剣が折れれば、腕がなくなる。


 困り方の大きさが違うなら、替える順番も変わる。


 レンツは、板の上に線を引いた。


 左に、危なさ。


 右に、困り方の大きさ。


 二つを掛け合わせたところに、順番が出る。


 彼は炭を止めて、その形を見ていた。


 三十四本の鉤は、どれも同じ順位表に並べてあった。


 だが、人が下を通る梁と、通らない梁は、同じではない。


 ――並べ方が、足りていない。


 彼は、翌日からの四日を、そこに使うことにした。

今回もお読みいただきありがとうございます✨


今回、荷馬車引きの男が二つのことを言いました。


ひとつ。


「タダのもんは、信じられねえだろ」


レンツは八年、無償で危険を指摘してきました。

そして誰にも聞かれませんでした。


正しさは、値段がついて初めて商品になります。

残酷ですが、これは現実です。

高すぎてもダメ、タダでもダメ。

悩ましいですね。


もうひとつ。


「銅貨二十で済むなら、安いに決まってる」


彼は道徳で判断していません。損得で判断しています。

そして、それでいいのです。


「安全のために」と言われて動く人は多くありません。

「そのほうが安い」と言われれば、人は動きます。


――事故の値段が見えないから、対策が高く見える。


さて、レンツは新しい問題に気づきました。


三十四本の鉤を、危険な順に並べました。

しかし、人が下を通る梁と、通らない梁は同じでしょうか。


あなたの職場では、優先順位に「事故が起きたときの重さ」が入っていますか。


次回、レンツは自分のことを話します。

なぜ彼が、八年も測り続けてきたのか。


ここでようやく、この物語の主人公が何者なのか、少しお話するタイミングがやってきます。

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