第10話 誰も、思い出さない
四日で、三十四本を測り直した。
朝のうちだけ視る。十本で切り上げる。目の奥が重くなったら、その日はやめる。
三日目までは、順調だった。
四日目の午後、レンツ・ノルムは工房の床に板を並べ、前の順位表と突き合わせていた。
「変わりましたか」
イルゼ・シュミットが炉の前から言った。
「はい」
「どのくらい」
「三十四本のうち、九本の位置が動きました」
レンツは板を指した。
「線が三本だったものが二本になったのが五本。二本が三本になったのが四本です」
「間違ってたってことですか」
「幅の中で揺れていただけです」
彼は言った。
「線が四本のものと、一本のものは、一つも動きませんでした。動いたのは、真ん中だけです」
イルゼは槌を置いて、板を覗きに来た。
「……じゃあ、真ん中は当てにならないってことですね」
「はい」
「それ、困りませんか」
「困りません」
レンツは言った。
「一番悪いものと、一番ましなものは動いていません。**替える順番だけが要るなら、これで足ります**」
◇
もう一枚、別の板を作っていた。
こちらは、鉤の危なさではない。落ちたときの困り方を書いてある。
人が下を通るか。何を吊るか。落ちたら何が壊れるか。
書いたのはイルゼだった。工房を回って、聞いてきた。
「エーベルさんのとこ、梁の下が通り道でした」
彼女は板を読み上げた。
「弟子が三人、一日に何十回も通るって」
「線は」
「四本です」
レンツは、二枚の板を並べた。
危なさ、四本。困り方、四本。
三十四本のうち、両方が四本なのは、そこだけだった。
「一番上は、エーベル工房です」
彼は言った。
「ホルストさんじゃないんですね」
「ホルスト工房の悪い一本は、奥の梁です。滅多に使っていません」
イルゼが、二枚の板を見比べた。
「……これ、分かりやすいですね」
「はい」
「危ないだけじゃ、どこから直せばいいか分からなかったので」
彼女は板を並べ替えた。危なさの順ではなく、二つを掛けた順に。
その手つきを、レンツは見ていた。
教えていない並べ方だった。
◇
夕方、イルゼが炉に炭を足した。
その日の仕事は終わっていた。車軸留めは四つとも納めてある。金は入った。だが、大物は受けられないままだった。
鉤がないからだ。
「レンツさん」
彼女は火を見ながら言った。
「聞いていいですか」
「はい」
「あなた、どうして測るようになったんですか」
レンツは炭を止めた。
聞かれたのは、二度目だった。
以前、彼は「四年分測っていたからです」と答えた。
しかし、それでは答えになっていなかった。
「長くなります」
「炭、まだあります」
◇
レンツにスキルが発現したのは、僅か五つのときだった。
この世界のスキルは、いつ誰に発現するか分からない。前触れもない。ある日、突然使えるようになる。
レンツは母が使っていた鉄鍋を見て、そのとき初めて数を視た。
最初は、何が起きたのか分からなかった。誰にも視えていないことも分からなかった。世界とはそういうものだと思った。だが、この数字が示す意味は……直感的に分かったような気がしていた。
「それで、なんて言ったんですか」
「その鍋、そのうち底が抜ける、と」
イルゼが顔をしかめた。
「五歳が言ったんですか」
「はい」
「……気味悪いですね」
「はい」
レンツは頷いた。
母は叱った。父は笑った。近所の女が、それを聞いて広めた。
半年後、鍋の底が抜けた。
湯を沸かしている最中だった。母は火傷をしたが、軽かった。
「当たったんですね」
「はい」
「じゃあ」
「誰も、思い出しませんでした」
レンツは言った。
「鍋の底は抜けるものです。この街では、そうです。抜けたから、抜けた。それだけでした」
イルゼが、炉の火を見た。
「……剣と、同じですね」
「はい」
◇
六つから、彼は測りはじめた。
目的があったわけではない。数が視えるのに、その数が何なのか詳しく分からなかったからだ。
硬さ六十八。
それは良いのか、悪いのか。
高いのか、低いのか。
比べるものが、一つもなかった。
「基準がなかったんです」
レンツは言った。
「六十八という数が、何を意味するのか。それを知るには、他の数を知るしかありません。だから、片っ端から視ました」
「片っ端って」
「家の鍋。父の鎌。井戸の釣瓶。近所の門。橋の留め金」
彼は指を折った。
「三年かけて、百点ほど集めました。そのころ、ようやく分かりました」
「何がですか」
「鍋は六十前後だということです」
イルゼが、少し笑った。
「それだけですか」
「それだけです」
レンツは言った。
「ですが、それが分かると、六十八の鍋は硬すぎると分かります。硬すぎる鍋は、脆い。脆い鍋は、割れます」
彼は炭を置いた。
「三年かかりました」
◇
字を覚えたのは、そのあとだった。
覚えたというより、覚えるしかなかった。百点を超えたあたりから、数が頭に入りきらなくなった。
教会の司祭が、字を教えていた。子供を集めて、聖句を書き写させる。レンツはそこに通った。
聖句には興味がなかった。
字だけが要った。
「教会ですか」
「はい」
「あそこ、月に何度か行きますよね。私も」
「はい」
レンツは、それ以上言わなかった。
司祭は良い人だった。字を教えてくれた。
だが、レンツが「この釣瓶は危ない」と言ったとき、司祭はこう答えた。
――それは、神がお決めになることです。
悪意はなかった。
彼は本気でそう信じていた。
◇
十を過ぎるころには、レンツは近所で有名になっていた。
良い意味ではない。
「あの子は、ものが壊れるのが分かるらしい」
「気味が悪い」
「不吉なことを言う」
言い当てても、感謝されなかった。
言い当てるということは、悪いことを先に言うということだからだ。
誰も、悪いことを言われたくない。
「……分かります」
イルゼが言った。
「え」
「私も、あなたに言われたとき、そう思いました」
彼女は炉を見たままだった。
「あの吊り具、あと十数回で切れますって。あのとき、私、やめてくださいって言いました」
「はい」
「言われたくなかったんです」
イルゼは膝を抱えた。
「父が死んだのと同じことが起きるなんて、聞きたくなかった」
レンツは、何も言わなかった。
◇
「それで、どうしたんですか」
しばらくして、イルゼが言った。
「その、気味悪がられて」
「書きました」
レンツは言った。
「書いて、日付を入れました。何日に、何を測って、どう思ったか。それだけです」
「それ、意味あったんですか」
「ありませんでした」
彼は答えた。
「十年、ほとんど意味がありませんでした」
書いても、誰も読まない。読める人間が少ないし、読めても数の意味が分からない。
だが、彼は書き続けた。
理由は、一つしかなかった。
「外れなかった記録が積み上がれば、いつか誰かが信じるかもしれません」
レンツは言った。
「それ以外に、道がありませんでした」
◇
二十一のとき、彼は冒険者ギルドに登録した。
戦えないので、荷物持ちだった。
装備管理係という肩書きは、あとから付いた。誰もやりたがらない仕事だったからだ。
「なんで、冒険者に」
「装備が、集まるからです」
レンツは言った。
「街の金物は、三年で測り尽くしました。ですが、冒険者の装備は毎日入れ替わります。**ダンジョンで壊れたものが、まとめて戻ってきます**」
「……測るために、入ったんですか」
「はい」
イルゼが、彼を見た。
「危なくないんですか。ダンジョンって」
「入っていません」
「え」
「一度も」
レンツは言った。
「戦えないので、入り口までです。中で何があったかは、壊れた装備と、生きて帰った人の話から組み立てます」
イルゼが、口を開けた。
「それで、分かるんですか」
「分かることもあります」
「分からないことは」
「分かりません」
レンツは言った。
「四年やって、分からないことのほうが多いままです」
◇
炉の火が、小さくなっていた。
イルゼは長いこと黙っていた。
「レンツさん」
やがて、彼女は言った。
「はい」
「二十年、誰も信じなかったんですか」
レンツは、答えを探した。
思い出そうとした。
誰か一人くらいはいたはずだと思った。
いなかった。
「はい」
「よく、続けましたね」
「続けるしかありませんでした」
彼は言った。
「やめたら、何も残りません」
そして、これは本当だった。
彼には、測ることしかない。作れない。戦えない。売れない。
測って、書く。それだけしかない男が、書くのをやめたら、何も残らない。
――前にも、そう思ったことがある気がする。
いつのことかは、思い出せなかった。
◇
イルゼが立ち上がった。
炉の火を落とし、道具を壁にかけ、それから、板の束を見た。
三十四本ぶんの順位表。二枚の板。
「私、明日エーベルさんのとこ行きます」
「一緒に行きます」
「いえ」
彼女は言った。
「私が行きます」
レンツが顔を上げた。
「あなたが言うと、気味悪がられるので」
イルゼは板を取り上げた。
「私が言えば、聞きます。少なくとも、追い返されません」
彼女は板を胸の前で抱えた。
第四話の夜と、同じ持ち方だった。
「二十年やって、誰も信じなかったんでしょう」
イルゼは言った。
「なら、そろそろ一人くらい、いてもいいと思います」
◇
その夜、レンツは板を一枚、新しく削った。
書くことは決まっていなかった。
しばらく炭を持ったまま、彼は何も書かなかった。
それから、日付だけを書いた。
その下は、空けたままにした。
今回もお読みいただきありがとうございます( ・∀・)
今回は事件のない回でした。
レンツの二十年を、少しだけお話ししています。
五歳で数が視えるようになりました。
しかし彼には、比べるものがありませんでした。
「硬さ六十八」が良いのか悪いのか、
それを知るのに三年かかっています。
数値があっても、基準がなければ判断できません。
そしてもう一つ。
レンツは何度も言い当ててきました。
鍋の底も、釣瓶も、剣も。
そのたびに、誰も思い出しませんでした。
当たった予言は、記憶に残りません。
なぜなら、当たったときには
「そういうこともある」で説明がつくからです。
――外れた予言だけが、記憶に残ります。
間抜けなやつだ、という悪評と共に。
これが、この仕事の二つ目の宿命です。
一つ目は第4話でお話しした『防いだ事故は、誰にも見えない。だから評価されにくい』ということでした。
さて、次回から工房の外に出ます。
そして、まだ誰も答えを持っていない問題に、
レンツはもう一度ぶつかることになります。
同じ日に、同じ職人が打った、四本の鉤。
なぜ、結果が違ったのでしょうか。




