第11話 そういう日も、ある
エーベル工房の鉤は、三日後に替わった。
イルゼ・シュミットが持っていった二枚の板を、エーベルの主人は最後まで聞いたという。それから、弟子を呼んで梁を見上げた。
「親父さんのこと、覚えてるってさ」
工房に戻ってきたイルゼは、そう言った。
「それだけ言って、外しました」
「割りましたか」
「割りました。中、空でした」
彼女は前掛けを外しながら言った。
「弟子の子が、吐きそうな顔してました」
レンツ・ノルムは板に書いた。
エーベル工房。梁の鉤。交換済み。所見、内部に空洞。
二本目だった。
◇
問題は、そのあとに来た。
「新しい鉤、どこで買うんですか」
イルゼが言った。
「エーベルさんも、うちも、まだ入れてません。買わないと、仕事にならないです」
「クヴァント工房です」
「そこの、駄目だったじゃないですか」
「一本は駄目でした」
レンツは言った。
「三本は、良かったんです」
◇
クヴァント工房は、職人街の川上寄りにあった。
三十四本のうち、ここの鉤が七本ある。悪いのが一本、あとは中位から良いほうだった。作りは丁寧だ。
中は忙しかった。職人が六人、全員が動いている。
ベルント・クヴァントは、五十がらみの痩せた男だった。手を止めずに話した。
「鉤か。三月待ちだ」
「三月」
「鉱山だよ」
彼は顎で北を示した。
「巻き上げ機の総取り替えだ。鎖の輪だけで何百とある。うちは今、それしか打ってねえ」
レンツは、その言葉に引っかかった。
「総取り替え、というのは」
「二年に一度だ。決まりでな」
「決まりが、あるんですか」
「鉱山は金があるからな」
クヴァントは笑った。
「二年ごとに全部替える。傷んでようが、傷んでなかろうがだ。金持ちの道楽だと思ってたが」
彼は肩をすくめた。
「まあ、落ちたら二十人死ぬからな」
レンツは、それを書き留めた。
この街で、時期を決めて交換しているものが、一つだけあった。
◇
「四本のことで、伺いたいんです」
レンツは、包みを開いた。
金物屋から買い取った四本。空、十一、十二、十四、三十九。
「金物屋に納めたやつか」
「はい。同じ日に六本納めたと聞きました」
「そうだな」
「この四本、中身が違います」
クヴァントの手が止まった。
彼は四本を見て、それから一本を取り上げた。三十九のものだった。
「……こいつか」
「分かりますか」
「いや」
クヴァントは首を振った。
「勘だ。並べられたら、そういう気がするだけだ」
彼は鉤を戻した。
「で、何が聞きたい」
「その日のことです」
レンツは言った。
「六本を打ったときの手順を、順に教えてください」
◇
クヴァントは、面倒がらずに答えた。
鉄は、ローテアーダーの同じ荷から取った。一つの鉄塊を割って、六つに分けた。
炉は一つ。同じ火で、順に熱した。
打ったのは、クヴァント本人だった。六本とも、他の誰にも触らせていない。
水は、工房の井戸。同じ桶。同じ日の、同じ午前中。
「全部、同じですか」
「同じだ」
「順番は」
「順番?」
「六本を打った順です。一本目、二本目と」
クヴァントは少し考えた。
「……覚えてねえな」
「では、三十九のものが何本目だったかは」
「分からん」
レンツは、次を聞いた。
「途中で、休みましたか」
「休むさ。人間だからな」
「何度」
「覚えてねえ」
「昼を挟みましたか」
「そりゃ挟んだろ」
「昼の前と後で、水は替えましたか」
クヴァントが顔を上げた。
「……足したかもしれん」
「足した」
「減るからな。減ったら足す。当たり前だ」
「どこから」
「井戸からだ」
「冷たい水を」
「井戸の水は冷てえよ」
レンツは、そこで手を止めた。
――これだ、と思った。
シュミット工房と同じだ。冷たい水を足せば、桶の水は冷える。冷えた水に入れた鉄は、急に締まる。
「クヴァントさん」
「なんだ」
「その日、水を足したあとに打った鉄が、三十九だった可能性はありますか」
「あるかもな」
クヴァントは頷いた。
それから、こう続けた。
「だが、そりゃ毎日やってる」
「え」
「水は毎日足す。何度もな」
彼は桶を指した。
「三十年、そうしてる。**それで駄目になるなら、うちの鉤は全部駄目だ**」
◇
レンツは、その場で確かめることにした。
クヴァント工房にある鉤を、全部視た。
在庫が十一本。納品待ちが四本。工房の梁に四本。
十九本。
それに、彼が過去四年で測ったクヴァント工房の品を足す。留め具、車軸の輪、鎌の刃。板を繰って、数を拾い出す。
四十一点あった。
合わせて六十。
全部、水を足しながら打たれたものだ。
もし水を足すことが原因なら、六十点すべてに同じ傾向が出るはずだった。
レンツは、数を並べた。
九。十二。十。十三。十一。九。十四。十二。十。十一。十五。十。
揃っている。
三十九。
十二。十一。九。十三。
彼は、手を止めた。
◇
夕方まで工房を借りて、レンツは床に木札を並べた。
やり方は、思いつきだった。
左端に、一番小さい数の札を置く。その右に、次に小さいものを。同じ数のものは、上に積み上げる。
六十枚を、そうやって並べていく。
イルゼが手伝った。数を読み上げるのは彼女で、置くのはレンツだった。
半分を過ぎたころから、床に形ができはじめた。
真ん中あたりが、高く積み上がっている。
九、十、十一、十二、十三。このあたりに、ほとんどが集まっていた。
左端は低い。八が一枚、七が一枚。
右へ行くと、十四、十五で急に減る。十六が一枚。
そして、そこで途切れた。
十七から二十七まで、一枚もない。
床が、空いている。
その先に、ぽつりぽつりと札があった。
二十九。三十一。三十九。四十四。
四枚だけ、離れたところに置かれている。
レンツは、立ち上がった。
床を、上から見た。
真ん中に、山がある。
そこから離れたところに、四枚。
そのあいだが、空いている。
「……何ですか、これ」
イルゼが言った。
レンツは答えなかった。
答えられなかった。
だが、彼にも見えていた。
これは、一つの塊ではない。
◇
「クヴァントさん」
レンツは、床を指した。
「この山が、あなたの仕事です」
「山」
「九から十六までに、五十六本入っています。ばらついてはいますが、まとまっています」
クヴァントが屈み込んだ。
「そして、こちらの四本です」
レンツは離れた札を指した。
「二十九、三十一、三十九、四十四。この四本だけ、山から外れています」
「だから何だ」
「そのあいだが、空いています」
レンツは、床の隙間を指した。
「十七から二十七まで、一本もありません。六十本のうち、一本も」
クヴァントは、しばらく床を見ていた。
「……なんで空いてるんだ」
「分かりません」
レンツは言った。
「ですが、この四本は、山の続きではありません」
◇
工房を出るころには、日が落ちていた。
クヴァントは、床の札をそのままにしておくと言った。明日また見る、と。
帰り道、イルゼが言った。
「あの四本、何なんですかね」
「分かりません」
「でも、他とは違うんですよね」
「はい」
レンツは歩きながら、床の形を思い出していた。
山と、四つの離れ。
もし全部が同じ理由でばらついているなら、あいだが空く理由がない。
なだらかに減っていくはずだ。
空いているということは。
「イルゼさん」
「はい」
「山の中のばらつきと、四本の外れは」
彼は言った。
「別のものかもしれません」
イルゼが立ち止まった。
「別の……ばらつきが、二種類あるってことですか」
レンツは答えなかった。
言葉が、まだなかった。
今回もお読みいただきありがとうございます。
今回、レンツの五度問い(なぜなぜ分析)は通用しませんでした。
鉄も、炉も、水も、職人も同じ。
それでも結果が違う四本。
そして「水を足したから」という仮説は、
クヴァント親方の一言で崩れました。
「それで駄目になるなら、うちの鉤は全部駄目だ」
毎日やっていることは、
たまにしか起きない不良の原因にはなりません。
――常にあるものは、たまに起きることを説明できない。
これは原因究明の基本です。
そして今回、レンツはこれで一つ、仮説を捨てました。
さて、彼は六十本の数を床に並べました。
そして、形を見ました。
真ん中に山があり、離れたところに四つ。
そのあいだが、ぽっかりと空いている。
そう、知識のある方であればお察しの通り、これはヒストグラム。
二峰性の状態であることが見えてきました。
この形は、何を意味するのでしょうか。
次回、レンツはこの問いを持って、
まだ誰も踏み込んでいない場所へ入ります。




