第8話 俺の目にも、幅がある
その夜、レンツ・ノルムは眠れなかった。
工房の隅に敷いた藁の上で、天井の暗がりを見ていた。
四本の鉤。同じ工房、同じ職人、同じ日。結果だけが違う。
十一。十二。十四。三十九。
彼は数を覚えている。書いてもいるが、覚えてもいた。八年分の数字が、頭の中に順番に積んである。
三十九は、明らかに違う。
だが、十一と十二は。
この二つは、本当に違うのか。
レンツは起き上がった。
◇
金物屋は開いていなかったが、鉤四本は昨日のうちに買い取ってある。銅貨が六枚に減った。
彼は工房の床に四本を並べ、順に視た。
十二。
――十二。
昨日、この鉤は十一だった。
レンツは動きを止めた。
もう一度視た。十二。
角度を変える。十一。
顔を近づける。十二。
彼は、床に座り込んだ。
◇
「どうしたんですか」
朝、イルゼ・シュミットが工房に下りてきたとき、レンツは同じ姿勢のままだった。
「昨日と、数が違います」
「え」
「同じ鉤です。触っていません。誰も使っていません。数だけが違います」
イルゼが、四本を見た。
「壊れたんですか」
「一晩で壊れる理由がありません」
「じゃあ」
「俺の目が、狂っています」
レンツは言った。
その言葉を口に出すのは、初めてだった。
八年、彼はこの目だけを頼りにしてきた。誰にも視えないものが視える。だから測れる。だから書ける。だから、いつか届く。
その前提が、昨日と今日で違う数を出した。
「……全部ですか」
イルゼが言った。
「全部、狂ってるんですか」
「分かりません」
「じゃあ、この二週間のあれは何だったんですか」
彼女の声が硬かった。
当然だった。彼女は仕事を止めた。金を払った。鉤を外し、新品を捨てた。全部、レンツの数字を信じたからだ。
「確かめます」
レンツは立ち上がった。
「何を」
「どれくらい狂うのかを」
◇
やり方は単純だった。
鉤を一本選ぶ。それを、一日かけて何度も視る。
書くのはイルゼがやった。レンツが数を口にして、彼女が板に書く。書いたものは、レンツには見せない。
「なんで見せないんですか」
「前の数を覚えていると、それに寄せてしまいます」
「寄せる?」
「人は、そうします」
レンツは言った。
「昨日十一だったと知っていれば、今日も十一に見えます。見たいものが見えるんです」
イルゼは炭を握ったまま、少し黙った。
「……それ、みんなそうですよね」
「はい」
「私も、父と同じに打ててると思ってました」
レンツは答えなかった。
答えると、今日は測れなくなる気がした。
◇
朝のうちは、数が動かなかった。
三十七。三十七。三十八。三十七。三十六。
昼を過ぎたあたりから、目の奥が重くなりはじめた。
三十七。三十九。三十六。
夕方には、痛みが額の裏まで回っていた。
四十一。三十四。四十四。
最後の一回は、視た瞬間に数が二重になった。
レンツは目を閉じた。
「もう、やめましょう」
イルゼが言った。
「あと三回」
「顔が真っ白ですよ」
「三回です」
◇
結果を並べたのは、日が落ちてからだった。
イルゼが板を床に置き、レンツが端から読んだ。
朝の十回。三十六から三十八のあいだに、全部が収まっていた。
昼の十回。三十四から四十一。
夕方の十回。三十一から四十六。
レンツは、しばらく板を見ていた。
それから、炭を取った。
板の余白に、線を二本引いた。上の線と、下の線。
「朝なら、この幅に入ります」
「幅」
「三十六から三十八です。この幅の中では、俺には差が分かりません」
彼は言った。
「三十六と三十八は、違うかもしれないし、同じかもしれない。俺の目では区別がつきません」
イルゼが、板を覗き込んだ。
「じゃあ、狂ってるんじゃなくて」
「幅があります」
レンツは言った。
「俺の目には、幅があるようです」
◇
彼は四本の鉤の板を引き出した。
十一。十二。十四。三十九。
朝の幅は、およそ二だった。
「十一と十二は」
レンツは言った。
「差が、たったの一です。俺の目の幅の中に入っています。このふたつの鉤は、同じかもしれません」
「同じ?」
「違うとは言えません。言えば、嘘になります」
彼は次を指した。
「十四は、微妙です。三の差なら、幅の外に出ますが、ぎりぎりです」
そして、最後の一本。
「三十九は、違います」
レンツは言った。
「幅の十倍以上、離れています。これは、俺の目が狂ったのでは説明できません」
イルゼが、顔を上げた。
「……差があるってことですか」
「あります。明確な差が」
レンツは言った。
「昨日、俺は四本とも違うと思っていました。違ったのは、一本だけです」
◇
翌朝、ホルスト工房へ行った。
グンター・ホルストは、四本を床に並べられて、面倒くさそうな顔をした。
「またか」
「順番をつけてください」
「この前もやっただろ」
「今日もお願いします」
ホルストは屈み込み、一本ずつ指で弾いた。
音が鳴る。レンツには、やはり同じに聞こえた。
ホルストは四本を弾き終えると、一本だけを脇へ押し出した。
「こいつが駄目だ」
「残りは」
「残りは同じだ」
「同じ、というのは」
「同じだよ。差がねえ」
ホルストが言った。
「聞いても分からん」
レンツは、脇に押し出された一本を見た。
空、三十九の鉤だった。
◇
工房を出て、川沿いを歩きながら、レンツは考えていた。
ホルストの耳と、彼の目。
まったく違う方法で、同じ結論が出た。三十九は違う。残りは分からない。
――分からないところまで、同じだ。
これは大きいことだった。
もし彼の目だけが「分からない」と言うなら、目が悪いのかもしれない。だがホルストの耳も、同じ場所で止まった。
二つの別々の測り方が、同じ場所で止まる。
ならば、そこには本当に差がないか、どちらの方法でも届かない差があるかだ。
今の彼らには、区別できない。
区別できないものを、区別できると言ってはいけない。
レンツは足を止めた。
板を出して、書いた。
――幅より小さい差は、無いものとして扱う。
これは、規則だ。
彼が決めた。
この世界では、誰も決めていなかったから。
◇
その夜、レンツは工房の床で板を並べ直していた。
三十四本の順位表。線が四本のもの、三本のもの、二本のもの、一本のもの。
この線引きは、正しいのか。
線が三本と四本の鉤に、本当に差があるのか。それとも、彼の幅の中でたまたま分かれただけなのか。
基準のない数に、意味は薄い。
全部、測り直しだった。
彼は炭を握り、それから、手を止めた。
一つ、引っかかっていることがあった。
俺の目に幅があるなら。
――打つ手にも、幅があるのではないか。
同じ工房、同じ職人、同じ日。
結果が違った四本。あれは、職人の手の幅だったのではないか。
だとすれば、その幅はどれくらいなのか。
どこまでが幅で、どこからが違いなのか。
レンツは、板の余白を見ていた。
書けなかった。
まだ、そこに書く言葉を持っていなかった。
今回もお読みいただきありがとうございます!
今回、レンツは自分の目を疑いました。
工程を疑う前に、測り方を疑う。
これは順序として正しいことです。
なぜなら、測り方に幅があるなら、
「差がある」という判断そのものが成立しないからです。
そしてレンツは、自分の幅を知りました。
現実世界でいう、測定誤差のことですね。
朝なら、およそ二。
疲れていれば、十を超える。
この数字が分かった瞬間、彼は弱くなったのではありません。
強くなりました。
「三十九は違う」と、根拠を持って言えるようになったからです。
――自分の誤差を知らない人の主張より、
知っている人の主張のほうが強い。
さて、最後にレンツは、まだ言葉にできない考えに触れました。
俺の目に幅があるなら、打つ手にも幅があるのではないか。
彼はまだ、この【幅】に名前をつけていません。
名前がつくのは、もう少し先のお話。




