第7話 新しいほうが、悪かった
三十四本あった。
職人街の吊り具を、四日かけて全部視た。ホルストの口利きがあると、話は早かった。断ったのは二軒だけだった。
レンツ・ノルムは工房の床に木札を並べていた。
一本につき一枚。悪い順に、左から右へ。
左端の五枚には、線が四本引いてある。次の九枚が三本。十二枚が二本。残りが一本だった。
「これで、全部ですか」
イルゼ・シュミットが覗き込んだ。
「はい」
「線が四本のところ、どこの工房ですか」
「三軒です。エーベル、クヴァント、それとホルスト工房の奥の一本」
「親方のとこ、まだあったんですね」
「四本ありました。悪いのは、一本だけです」
同じ工房、同じ梁の下でも、鉤によって差があった。作られた時期が違うのだろう。だが、それを確かめる方法はない。
誰も、取り付けた日を書いていないからだ。
「これ、どう渡すんですか」
「線を写して、それぞれの工房に配ります」
レンツは板を数えた。三十四枚分、写しを作らなければならない。ホルストにもらった端材が、ちょうど足りるかどうかだった。
「手伝います」
イルゼが炭を取った。
「あなた、字が汚いので」
◇
昼過ぎに、荷が届いた。
金物屋の男が、麻布に包んだものを担いできた。
「シュミットさん、注文の鉤」
イルゼが受け取って、包みを開いた。
新しい鉤だった。表面がまだ黒く、油の匂いがする。錆はどこにもない。
「早かったですね」
「クヴァントんとこで、ちょうど余ってたのがあってな」
男は帳面も何も持っていなかった。金だけ受け取って、帰っていった。
イルゼは鉤を持ち上げて、光にかざした。
「……やっと戻せます」
彼女の声が、少し明るかった。
鉄塊は、二週間ずっと床に置かれたままだった。大物の仕事は受けられない。鉱山からの注文も、断ってある。
「今日中に取り付けて、明日から巻き上げ機の軸受けを」
「イルゼさん」
レンツは言った。
「先に、測らせてください」
「え」
彼女は少し笑った。
「新品ですよ」
「はい」
「新品を測るんですか」
「はい」
イルゼは肩をすくめて、鉤を台に置いた。
「変な人ですね」
◇
レンツは鉤に顔を近づけた。
視界の縁に、数が滲む。
彼は、動きを止めた。
もう一度、視た。
角度を変えて、根元から先端まで、順に。
「……イルゼさん」
「はい」
「この鉤は、使えません」
工房が静かになった。
イルゼが、彼を見た。
「何を言ってるんですか」
「線を引くなら、五本です」
レンツは言った。
「三十四本のどれよりも、悪い」
◇
イルゼは、鉤を取り上げた。
両手で持って、目の前に持ってきて、それから裏返した。
「……綺麗じゃないですか」
「はい」
「傷ひとつないんですよ。今日作ったんですよ」
「作ったときから、こうです」
レンツは言った。
「四十年使って傷んだのではなく、生まれたときから中が詰まっていません。根元の断面の、半分近くが空です」
「そんなわけ」
「割れば分かります」
「割ったら使えなくなります」
「割らなくても使えません」
彼は繰り返した。
イルゼの手が、震えはじめていた。
「……じゃあ、なんですか」
彼女は言った。声が上ずっていた。
「私、二週間仕事止めて、金払って、やっと届いたのに」
「はい」
「これも駄目なんですか」
「駄目です」
「じゃあどうしろって言うんですか!」
叫んだ声が、石壁に反響した。
イルゼは息を吸って、それから鉤を台に置いた。強く置きすぎて、乾いた音が鳴った。
彼女は台に手をついて、しばらく動かなかった。
レンツは、その背中を見ていた。
言うべきことがあった。
「イルゼさん」
「……なんですか」
「俺の落ち度です」
彼女が振り返った。
「あなたに、古い鉤を外させました。ですが、新しいものを測れとは言いませんでした」
レンツは言った。
「壊れたものを替えれば直る。俺はそう思っていました。ですが、新品の良し悪しを確かめていませんでした」
「……それは」
「もし今日、俺が測らなかったら」
彼は続けた。
「あなたはこれを梁に打ち込んで、明日、鉄塊を吊っていました」
イルゼの顔から、血の気が引いた。
彼女は、床に置かれたままの鉄塊を見た。
人の胴ほどの塊を。
◇
「……クヴァントさんが、手を抜いたってことですか」
しばらくして、イルゼが言った。
「分かりません」
「余ってたって言ってました。売れ残りだったのかも」
「かもしれません」
レンツは言った。
だが、そうは思っていなかった。
クヴァント工房の鉤は、三十四本のうち三本を測っている。二本は線が二本で、一本が四本だった。ばらついてはいるが、四十年分使ったものだ。それくらいの差は出る。
手を抜く工房が、四十年ももつ鉤を作るだろうか。
「……確かめられますか」
「一つ、方法があります」
レンツは言った。
「同じ日に作られたものが、他にないか探します」
◇
あった。
金物屋に戻って聞くと、クヴァント工房から同じ日に六本引き取っていた。売れたのが二本、残りが四本。
レンツは四本とも視た。
二本は、線が一本だった。良い。
一本は、二本。
そしてもう一本は、五本だった。
同じ工房。同じ職人。同じ日。同じ炉。
結果が、揃っていない。
レンツは、四本を並べて座り込んでいた。
金物屋の男が、迷惑そうに眺めていた。
「あんた、何してんだ」
「……確かめています」
「同じもんだろ、それ」
「同じです」
レンツは続けて言った。
「同じなのに、違うんです」
◇
工房に戻ったのは、日が落ちてからだった。
イルゼは炉の前にいた。火は落としてある。
レンツは板を並べ、四本分の線を引いた。一本、一本、二本、五本。
それから、その下に何も書けなくなった。
彼は、原因を一つだと思っていた。
水が変わったから、品が変わった。四十年使ったから、鉄が傷んだ。原因があって、結果がある。原因を潰せば、結果は変わる。
八年、そうやって数を集めてきた。
だが、今日並べた四本には、原因が見当たらない。
鉄は同じ。炉は同じ。職人も同じ。日も同じ。
条件がすべて揃っていて、結果だけが違う。
「……レンツさん」
イルゼが言った。
「はい」
「職人は、みんな言います。同じように作っても、たまに違うものができるって」
「はい」
「ゆらぎだって、みんな言います」
彼女は炉の口を見ていた。
「運が悪い日は、何をやっても駄目なんだって。父も言ってました」
レンツは、板の上の線を見ていた。
一本。一本。二本。五本。
この四本を分けたものが、何なのか。
彼には、視えなかった。
お読みいただきありがとうございます。
今回、レンツは失敗しました。
「壊れたものを替える」
これは正しい対処です。
ただし、替えたものが正しいとは限りません。
新品が最悪だった、という事故は、現実の現場でも起こります。
そして今回、もう一つ壁が出てきました。
同じ工房。同じ職人。同じ日。同じ炉。
条件がすべて同じなのに、結果が違う四本。
この街の人々は、これを「ゆらぎ」と呼びます。
運が悪い日は、何をやっても駄目なのだと。
数百年、誰もそれを疑いませんでした。
そして疑わなかったことには、理由があります。
――本当に、揺らいでいるからです。
さて、あなたに伺わせてください。
条件がまったく同じなのに結果が違うとき、
あなたなら、次に何を疑いますか。
「まだ見ていない条件がある」と考えますか。
それとも「偶然だ」と考えますか。
この問いに、レンツはかなりの期間、苦しむことになります。
そして本作最大の答え、曳いては現実世界との決定的な違い。
『品質という概念が蔑ろにされた原因』に辿り着くことになるのです。




