第6話 四十年、聞いていた
レンツ・ノルムは、ホルスト工房の外の石垣に腰かけていた。
中から槌の音が聞こえる。四人分の、重なった音だった。
イルゼ・シュミットが入って、四半時ほど経つ。
彼は待つことにしていた。自分が入れば話が終わることを、三日前に学んでいた。
◇
戸が開いたのは、それからさらに四半時後だった。
「入れって」
イルゼが顔を出した。息が少し上がっている。
「聞いてもらえましたか」
「聞いてはもらえました」
彼女は言葉を選んだ。
「信じたわけじゃないと思います。ただ、父の名前を出したので」
「お父さんの」
「父が死んだ日、ホルストの親方が一番に駆けつけたんです。私、そのとき何も言えなくて」
イルゼは戸を押さえた。
「同じことがまた起きるかもしれないって言ったら、黙りました」
◇
鉤を降ろすのに、職人が三人がかりだった。
シュミット工房のものより一回り大きい。梁も太く、打ち込みも深かった。
台に置かれた鉤を、レンツは両手で持ち上げた。
視界の縁に、数が出る。
空洞はなかった。
だが、根元から三寸ほどの範囲に、密度の落ちた層がある。外からは何も見えない。錆すら浮いていない。
「どうだ」
グンター・ホルストが言った。腕を組んだままだった。
「シュミット工房のものほどではありません」
「じゃあ問題ないな」
「進んでいます」
レンツは鉤を置いた。
「ここから内側へ、少しずつ広がっています。今日切れる状態ではありません。ですが、止まってもいません」
「いつ切れる」
「分かりません」
「分からんのか」
「はい」
ホルストが鼻を鳴らした。
「使えん話だな」
その通りだった。
レンツにも、それは分かっていた。
彼に視えるのは今日の数だけだ。この鉤が去年どうだったかは視えない。だから、どれくらいの速さで進んでいるのかが分からない。速さが分からなければ、いつ切れるかも出せない。
だから彼は、昨日のうちに別のことを考えていた。
「一つ、伺わせてください」
レンツは言った。
「この鉤は、いつ取り付けたものですか」
「四十年前だ」
「正確には」
「……正確に、ってのはどういう意味だ」
「何年の、いつ頃かということです」
ホルストが黙った。
それから、天井を見た。もう鉤のない、空の梁を。
「……知らん」
「はい」
「俺が来たときには、もうあった。親方が付けたんだろうが、あの人はもう死んでる」
「書いたものは」
「あるわけねえだろ」
ホルストが言った。
「誰が、鉤を付けた日なんぞ書くんだ」
◇
レンツは、床に木札を置いた。
九枚しかない。書ける場所は限られている。
「では、こうします」
彼は言った。
「いつ切れるかは、諦めます」
「諦めるのか」
「今は出せません。ですが、どれが一番危ないかは出せます」
ホルストが眉を寄せた。
「職人街に、同じ鉤がいくつありますか」
「……三十はあるだろうな」
「全部測ります。そして、悪い順に並べます」
レンツは木札を一枚、床に置いた。それから隣に、もう一枚。
「一番悪いものから替える。次に悪いものを、その次に替える。それだけです」
「そんなもん、当てずっぽうと変わらんだろ」
「変わります」
レンツは言った。
「当てずっぽうは、順番が毎回変わります。これは変わりません」
ホルストが、鉤を見た。
それから、レンツを見た。
「……お前、本当に見えてんのか」
「はい」
「証明できるのか」
「できません」
レンツは答えた。
いつも通りの答えだった。
◇
そのとき、工房の奥で槌の音が鳴った。
弟子の一人が、鉄を打ちはじめていた。
ホルストが振り向いた。
「ヨナス。それ、置け」
「え」
「置けって言ってんだ。鳴りが悪い」
弟子が槌を止めた。
「……普通ですけど」
「普通じゃねえ。芯が詰まってねえ音だ」
ホルストは奥へ歩いていき、鉄を取り上げて、指で弾いた。
短い音が鳴った。
「ほら。詰まってねえ」
レンツは、その鉄を見ていた。
視界の縁に、数が滲む。
密度に、偏りがあった。
彼は、しばらく動かなかった。
「親方」
「なんだ」
「今の音で、何が分かったんですか」
「詰まってねえってのが分かった」
「どうやって」
ホルストが振り返った。
「どうやってもクソもあるか。聞けば分かる」
「俺には聞き分けられません」
「そりゃ、お前が鍛冶屋じゃねえからだ」
その通りだった。
そして、それこそが問題だった。
「試させてください」
レンツは言った。
◇
鉄片を六つ、床に並べた。
工房にあった端材だ。大きさも形も似ている。どれも同じ鉄から出たものだった。
「順番に、弾いてください」
「弾いてどうする」
「悪い順に並べてください」
ホルストは面倒くさそうな顔をしたが、屈み込んだ。
一つずつ、指で弾いていく。
音が鳴る。レンツには、どれも同じに聞こえた。
ホルストは六つを弾き終えると、迷いなく並べ替えた。
「こっちが悪い。こっちがましだ」
レンツは並びを見た。
それから、順に視ていった。
密度の偏りが、大きいものから小さいものへ。
六つとも、順番が合っていた。
彼は、もう一度視た。
合っていた。
「……親方」
「なんだ」
「合っています」
「そりゃ合うだろ。俺は四十年やってんだ」
「そうではありません」
レンツは言った。
「あなたが今やったことは、鉄の中の詰まり方を、外から順番に並べることです」
ホルストが黙った。
「私は、それを数で視ています。あなたは、音で聞いています。出てくる順番が、同じです」
工房が静かになった。
弟子たちが手を止めていた。
ホルストは、床に並んだ六つの鉄片を見下ろしていた。
しばらく、何も言わなかった。
「……そんなもん」
やがて、彼は言った。
「そんなもん、俺は昔から知ってた」
「はい」
「音が違えば、中が違う。当たり前だ。誰でも知ってる」
「誰も、知りません」
レンツは言った。
「三軒回りました。誰も、私の話を聞きませんでした。耳で分かると言った人は、あなただけです」
ホルストが、彼を見た。
白く濁った片目のほうが、わずかに動いた。
「……四十年、聞いてたんだがな」
「はい」
「言ったところで、誰も分からん。俺だって、何を聞いてるのか分からん」
「分かっています」
レンツは言った。
「順番が、それを証明しています」
◇
その日の夕方、三人で床に木札を並べた。
書くことは三つだけだった。
取り付けた日。弾いた音の順位。替えた日。
「順位ってのは、どう書くんだ」
ホルストが言った。
「悪いほうから一番、二番と」
「俺は字が書けん」
レンツは手を止めた。
そういえば、イルゼの父も書けなかった。
この街では、それが普通なのだ。書ける人間のほうが少ない。
彼は炭を持ち直し、木札に線を引いた。
一本。二本。三本。
「では、線の本数にします」
「……線か」
「線が多いほど悪いということにしましょう。親方の感じたように書いて構いません。本当は何か基準がほしいところですが……」
ホルストは木札を取り上げて、しばらく見ていた。
それから、炭を受け取った。
太い指で、線を三本引いた。少し曲がっていた。
「これで、いいのか」
「はい」
「これが、何になる」
「来年、また弾いたときに」
レンツは言った。
「線が増えていれば、状態が悪化していると分かります」
ホルストの手が、止まった。
◇
工房を出るとき、ホルストが呼び止めた。
彼は板を抱えていた。薄く割った端材が、腕いっぱいに。
「持ってけ」
「……代金は」
「いらん。そんなのはただの木屑だ」
ホルストは板を押しつけた。
「そのかわり、うちの三十本、全部並べろ」
レンツは板を受け取った。
思ったより、重かった。
今回もお読みいただきありがとうございます。
今回、レンツは新しい技術を何ひとつ持ち込んでいません。
ホルスト親方は四十年、正しく聞いていました。
音が違えば中が違う。それを彼は知っていました。
ただ、こう言うことができなかっただけです。
「一番悪いのはこれで、二番目はこれだ」
順番をつけて、書き残す。
それだけで、勘は引き継げるものに変わります。
そしてもう一つ。
レンツは「いつ切れるか」を諦めました。
かわりに「どれが一番危ないか」を選びました。
絶対の答えが出せなくても、順番なら出せます。
そして現場で本当に必要なのは、たいてい後者です。
――限られた時間で全部は直せない。
どれから直すかを決めるのが、仕事です。
あなたの職場でも、対策の優先順位の決め方がありますよね。
次回、レンツは三十本の鉤を並べます。
そして、順位表の一番上に、思わぬものが来ることになります。




