第5話 四十年、もったんだ
板が、残り九枚になっていた。
レンツ・ノルムは束を数え直して、削りかけの一枚を脇に置いた。
薄い木片を作るには、まっすぐな端材がいる。工房の隅に積んであった分は、あらかた使ってしまった。炭も減っていた。書けば減る。当たり前のことだが、この街ではその当たり前が高くつく。
紙なら一枚で百枚ぶんが書ける。だが紙は、この街ではグロースマン商会の店にしか置いていない。値段を聞きに行って、それきりだった。
銅貨は十八枚に減っていた。
「出かけるんですか」
イルゼ・シュミットが炉に炭を足しながら言った。
「はい」
「どこへ」
「隣です。それから、その隣」
レンツは割れた鉤の片割れを布に包んだ。断面が上を向くように。
「同じものが、この街に何十とあるはずです」
◇
ホルスト工房は、川下へ三軒目にあった。
シュミット工房より大きい。職人が四人いて、そのうち二人は弟子だった。
グンター・ホルストは炉の前から動かずに、レンツの話を聞いた。六十を超えているだろう。腕は太く、片目が白く濁っていた。
レンツは布を開いて、鉤の断面を台に置いた。
「内側が、こうなっていました」
ホルストは鉤を見た。手に取り、指で穴の縁をなぞって、それから台に戻した。
「ひでえな」
「はい」
「シュミットんとこのか」
「そうです」
「あそこの梁、古いからな」
ホルストは頷いた。
「で、俺に何の用だ」
「こちらの鉤も、見せていただきたいんです」
工房の奥が静かになった。弟子の一人が槌を止めていた。
「うちのを」
「はい」
「なんで」
「同じ理由で作られていれば、同じように傷んでいる可能性があります」
ホルストは、天井を見上げた。
鉄の鉤が下がっている。形はシュミット工房のものとよく似ていた。
彼は少し見て、それから鼻で笑った。
「あれは四十年もってる」
「はい」
「四十年だぞ」
ホルストが言った。
「四十年、一度も切れてねえ。俺が弟子の頃からあそこにある。親方が使って、俺が使って、今もある」
「そうでしょうね」
「じゃあ何が問題だ」
レンツは、答えを探した。
この人は間違ったことを言っていない。四十年、実際に一度も落ちていない。それは事実だ。
ただ、その事実から引き出せる結論が、逆なのだ。
「四十年もったのではなく」
彼は言った。
「四十年分、傷んでいます」
ホルストの手が止まった。
「無事だった年数は、安全の証しではありません。傷んだ年数です」
沈黙が落ちた。
それから、ホルストは首を振った。
「言葉遊びだな」
「いえ」
「四十年もったもんが、なんで明日切れる」
「切れるとは言っていません。分からないんです」
「分からんのか」
「はい」
「分からんもんを外せと」
「見せていただければ、分かります」
「どうやって」
レンツは答えなかった。
視えるから、と言うしかない。
そして、それを言った先を、彼は八年分知っていた。
◇
二軒目は、話を聞いてもらえなかった。
三軒目の主人は、レンツが名乗った時点で顔つきを変えた。
「あんた、不倒の牙のとこにいた人だろ」
「はい」
「クビになったって聞いたが」
「はい」
男は腕を組んだ。
「で、今度はうちの吊り具が危ないと」
「はい」
「見料はいくらだ」
「取りません」
「取らねえのか」
「はい」
男は、しばらくレンツを見ていた。それから、扉のほうへ顎をしゃくった。
「余計に怪しい」
その言い分は、正しかった。
道具が危ないと言って回り、金は取らないと言う男。何も企んでいない証拠は、どこにもない。
レンツは頭を下げて、外へ出た。
◇
冒険者ギルド支部の受付は、混んでいた。
依頼票の張り出しを見に来た者と、報酬を受け取りに来た者で、昼過ぎまで列が途切れない。レンツはその最後尾に並んで、順番が回ってくるのを待った。
受付の女は、彼の話を最後まで聞いた。それだけでも、今日は上等だった。
「工房の設備ですね」
「はい」
「うちの管轄ではありません」
彼女は言った。
「冒険者ギルドが扱うのは、依頼と、冒険者と、装備の売買だけです。職人の工房の中のことは、職人組合になります」
「職人組合は」
「工房ごとの持ち物には、口を出さない決まりです」
「では、どこが」
「どこも見ていません」
彼女は言い切った。悪びれた様子はなかった。
事実だからだ。
「見ていない、というのは」
「見る決まりがない、ということです」
レンツは礼を言って、列を離れた。
背中で、次の番号が呼ばれた。
◇
谷の北端まで歩くのに、半時ほどかかった。
ローテアーダー鉱山の坑口は、斜面を削り込んだ岩肌に開いている。木の枠で四角く囲われた穴で、そこから軌道が伸び、鉱石を積んだ台車が下りてくる。
坑口の脇に、櫓が組んであった。
巻き上げ機だ。
滑車の径は、人の背丈ほどある。太い鎖が坑内へ落ち込んでいて、その先に何が吊られているのかは、外からは見えない。
鉱夫が出入りしていた。ひっきりなしに、櫓の下を通っていく。
レンツは坑口から二十歩ほど離れた場所に立った。
視界の縁に、数が滲む。
櫓の柱。滑車の軸。見えている範囲の鎖。
彼は数を読み、そして、読める範囲がそこまでだと知った。
鎖の大半は、坑内にある。
中で何がどうなっているかは、入らなければ分からない。
そして彼は、入れない。
戦えないからだ。落盤があれば逃げられず、水が出れば泳げず、暗ければ何も視えない。
《規格外れ》は、暗所では働かない。
彼は坑口を見ていた。
鉱夫が二人、櫓の下を通って中へ消えていった。
「見ていない、ということです」
レンツは、受付の言葉を思い出していた。
誰も見ていない。そして自分は、見ることはできるが、届かない。
目の奥が痛みはじめた。
彼は数を木札に書き写して、坑口に背を向けた。
◇
工房に戻ったのは、日が落ちてからだった。
イルゼが炉の前に座っていた。壁際には、今日打った品が並んでいる。硬さは揃っているはずだった。
「どうでした」
「駄目でした」
レンツは荷を下ろした。
「何軒回ったんですか」
「三軒と、ギルドと、鉱山です」
「全部?」
「はい」
イルゼは何も言わなかった。
レンツは板を取り出して、今日の記録を書きはじめた。ホルスト工房。同型の鉤。設置四十年以上。所見、外観のみ。
所見、外観のみ。
その五文字を書いたところで、炭が短くなりすぎて折れた。
「……あの」
イルゼが言った。
「私が行ったら、どうですか」
レンツは顔を上げた。
「ホルストの親方、うちの父を知ってます。私が生まれる前からの付き合いです」
「あなたが言うから駄目なんですよ」
イルゼは言った。乱暴な言い方だった。
「あなた、よその工房の人間で、無職で、しかも臆病者だってクビになったって噂の人でしょう。そんな人が来て『あんたの道具は危ない』って言ったら、私だって追い返します」
「……そうですね」
「でも、私はシュミットの三代目です」
彼女は立ち上がった。
「同じことを言っても、追い返されません。少なくとも、話は聞きます」
レンツは、しばらく黙っていた。
考えたことがなかったからだ。
八年、彼は一人で測ってきた。誰にも視えないものを、誰にも証明できないまま、書き続けてきた。
届かせる方法として、彼が知っていたのは一つだけだった。自分で言って、外れずに、また言う。それを繰り返す。
他人の口を借りるという発想が、なかった。
「……頼めますか」
「頼まれます」
イルゼは壁から前掛けを取った。
「その代わり、教えてください。何を見ればいいのか。私には、中は視えませんから」
レンツは板を一枚、手に取った。
「では、そこから決めましょう」
◇
その夜、二人は工房の床に板を並べた。
視えない人間が、視えないまま危険を見つける方法。
レンツは炭を持ち、しばらく何も書かなかった。
それから、一行だけ書いた。
――いつ、取り付けたか。
今回もお読みいただきありがとうございます!
今回、ホルスト親方はこう言いました。
「あれは四十年もってる」
この言葉は、二通りに読めます。
四十年、無事だった。だから安全だ。
四十年、使い続けた。だから傷んでいる。
まったく同じ事実から、正反対の結論が出ます。
そして人は、たいてい前者を選びます。
正常性バイアスですね。
なぜなら、落ちた鉤は目の前にありますが、
落ちなかった鉤は、何も語らないからです。
さて、レンツは壁に突き当たりました。
彼には視えます。しかし、届きません。
そして彼が最後に書いた一行は、
「内側を視る方法」ではありませんでした。
――いつ、取り付けたか。
なぜ彼は、そこから始めたのでしょうか。
あなたの職場で、いま使っている設備の設置年月日を、
即答できるものはどれくらいありますか?
次回、レンツとイルゼは、視えない人間のための方法を作っていくことになるようです。
乞うご期待♪




