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第4話 その吊り具、あと十数回で切れます

朝の水は、二つ数えたところで痛かった。


「冷たい」


 イルゼ・シュミットは手を引き上げて、桶の縁で水を切った。


「じゃあ、温めます」


 彼女は湯を足し、かき混ぜ、もう一度手を入れた。


 一、二、三、四、五。


「……五で、まだ平気です」


「では、そこから始めてください」


 レンツ・ノルムは板の上に炭を走らせた。


 三日目だった。


 朝の水温を測り、湯を足した量を書き、打った品の硬さを書く。それだけを三日繰り返した。


 六本打って、六本とも硬さが六十前後に収まっていた。ばらつきは、以前の五分の一もない。


 イルゼは三日目の朝、それを聞いて何も言わなかった。しばらく炉の前に座り込んで、それから立ち上がって、いつも通り仕事を始めた。


   ◇


「大物が入ったんです」


 昼過ぎに、彼女はそう言った。


「鉱山からの注文で、巻き上げ機の軸受け。鉄塊から起こすので、吊らないと動かせません」


 工房の奥で、彼女は木枠に鉄塊を据えていた。


 人の胴ほどの塊だった。持ち上がる重さではない。


 イルゼは麻縄を引き寄せ、鉄塊に回しはじめた。滑車が軋んだ。


 レンツは天井を見上げた。


 梁。鉄の鉤。麻縄。滑車。


 視界の縁に、数が滲む。


 三日前と同じ数だった。


 彼は数を確かめ、それから鉄塊を見た。


「その吊り具」


 レンツは言った。


「あと十数回で切れます」


   ◇


 工房の音が止まった。


 イルゼが振り返った。縄を握ったままだった。


「……何て言いました」


「あと十数回です。回数は正確ではありません。ですが、二十回はもちません」


 彼女の顔から色が引いていった。


 レンツはそれを見ていた。


 彼女の父が、そうやって死んだからだ。


「やめてください」


 イルゼが言った。声が低かった。


「そういう冗談は」


「冗談ではありません」


「じゃあ何なんですか。なんでそんなこと言えるんですか」


「視えるからです」


「視えるって、何が」


 この問いに、彼はいつも答えられない。


 硬さ。歪み。密度の偏り。数はそこにある。だがイルゼには見えない。梁を降ろして割れば分かるが、割ったらそれはもう吊り具ではない。


 四年前も、八年前も、同じだった。


 言えば、気味悪がられた。


「……根拠を見せてください」


 イルゼが言った。


「見せられません」


「じゃあ信じられません」


「はい」


 レンツは頷いた。


「信じなくて結構です。ですが、今日は吊らないでください」


「仕事なんです」


「明日でも、その仕事はできます」


「明日には切れないんですか」


「切れないと思います。ですが、断言はできません」


 イルゼが笑った。乾いた音だった。


「なんですかそれ」


「俺が言えるのは、そこまでです」


   ◇


 彼女は縄を放した。


 放して、しばらく立っていた。


 それから、天井を見上げた。


「……父のときも、あそこから落ちてきたんです」


 レンツは黙っていた。


「二年前です。私は外にいて、音だけ聞きました。戻ったときには、もう」


 彼女は言葉を切った。


「縄が切れたんです。だから、縄を替えました」


「縄だけですか」


 イルゼが彼を見た。


「……縄が切れたので」


「はい」


「他に、何を替えるんですか」


 レンツは天井を指した。


「鉤です」


「鉤は切れません」


「切れます」


 彼は言った。


「あれは祖父の代のものだと、以前おっしゃいましたね」


「……道具は、そう言いました。槌のことです」


「鉤は、いつからありますか」


 イルゼが答えなかった。


 知らないのだ。


 生まれたときから、あそこにあった。だから、いつからあるのかを考えたことがない。


「この世界では」


 レンツは言った。


「ものは、壊れたら替えます」


「……当たり前じゃないですか」


「はい。ですから、壊れる前に替えるという発想がありません」


 彼は続けた。


「鉄は、使えば必ず傷みます。目に見えなくても、内側から進みます。縄も、鉤も、槌も、炉も、全部です。速さが違うだけです」


「そんなの、どうやって分かるんですか」


「分かりません。誰にも」


 レンツは言った。


「だから、皆が壊れるまで使います。壊れて初めて、寿命だったと知る。その日、その瞬間、たまたま人が下にいたとき、その人は死にます」


 イルゼが、天井から目を離さなかった。


「……運が悪かったって、言われました」


「はい」


「みんな、そう言いました。ロープが切れることもある、そういうこともあるって」


「そうでしょうね」


「違うんですか」


 レンツは、彼女を見た。


「切れる縄は、切れる前から切れかけています。ただ、誰も見ていないだけです」


   ◇


 鉤を外すのに、夕方までかかった。


 梁に深く打ち込まれていて、周りの木ごと削らなければ抜けなかった。イルゼが(たがね)を使い、レンツは下で破片を受けた。


 抜けた鉤は、思ったより重かった。


 外から見る限り、なんともなかった。赤錆が浮いているが、それだけだ。工房の道具はどれもそんなものだった。


「……普通ですけど」


「割ってください」


「割る? これ、まだ使えますよ」


「使えません」


 イルゼは渋い顔をして、それでも鉤を台に置いた。


 鏨を当て、槌を振る。


 三度目で、鉤は割れた。


 断面が上を向いた。


 イルゼが動かなくなった。


 鉄の中に、空洞があった。


 外側の一皮の下から、粗い巣のような穴が広がっている。半分近くが、詰まっていなかった。


「……なんですか、これ」


「元からです」


 レンツは言った。


「作られたときから、中はこうだったはずです。そして四十年、少しずつ広がった」


「四十年、これで吊ってたんですか」


「はい」


 イルゼは断面に触れた。指の腹が、穴の縁に沈んだ。


「……父が死んだとき」


「はい」


「これも、こうだったんですか」


 レンツは答えなかった。


 答えられなかった。


 過去の数は視えない。二年前にこの鉤がどうだったかを知る方法は、この世界に存在しない。誰も測っていなかったからだ。


「分かりません」


 彼は言った。


「俺が測りはじめたのは、今日です」


   ◇


 その夜、イルゼは工房に残っていた。


 レンツが板を削っていると、彼女が向かいに座った。


「一つ、聞いていいですか」


「はい」


「父は、縄をよく替えてました」


 彼女は言った。


「まだ使えるのに、替えるんです。もったいないって言ったら、なんとなく気味が悪いからって。理由は言いませんでした。言えなかったんだと思います」


 レンツは、炭を止めた。


「最後に替えたのは」


「……覚えてません。私、見てなかったので」


 イルゼは首を振った。


「どこにも書いてないんです。父は、字が書けなかったので」


   ◇


 レンツは板を一枚、新しく削った。


 日付を刻む。


 場所。工房、梁、鉤。


 所見。内部に空洞。断面のおよそ四割。


 処置。交換。


 それから少し行を空けて、もう一行を書き足した。


 ――同じものが、この工房に他にないか。洗い出すこと。


 彼は板を二枚作り、一枚をイルゼに渡した。


 彼女は受け取って、しばらく見ていた。読めない字だったはずだ。それでも、両手で持っていた。


「これ、どうすればいいんですか」


「取っておいてください」


「なんで二枚あるんですか」


 レンツは、少し考えた。


「片方が失われたときのためです」


 イルゼは頷いて、板を胸の前で抱えた。


 工房の梁には、もう鉤はかかっていない。


 鉄塊は床に置かれたままだった。


 誰も、その下を通らなかった。

今回もお読みいただきありがとうございますっ!


第1話で、ガルド・ブレンナーはこう言いました。


「板きれが、誰かを守ったことがあるか」


今回、板きれが一人を守りました。

本人は、守られたことに気づいていません。

何も起きなかったからです。


事故を防いだ人は、決して感謝されません。

「何も起きなかった」ことは、誰の目にも見えないからです。


これは、この仕事の宿命のようなものです。


さて、今回レンツが最後に書いた一行。


「同じものが、この工房に他にないか」


壊れた部品を替えるだけでは足りません。

同じ理由で壊れるものが、他にもあるはずだからです。

横展開、水平展開というやつですね。


――次回、レンツは工房の外へ出ます。

彼は次に何を視て、何を測り、何を未然防止すべく奔走するのでしょうか。

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