第3話 水は、水じゃない
シュミット工房は、川沿いの職人街の一番奥にあった。
石積みの壁は煤で黒く、屋根の梁は太い。三代続いた家の建て方だった。
レンツ・ノルムは戸をくぐって、三歩進んで、足を止めた。
そして、天井を見上げた。
梁から鉄の鉤が下がっている。太い麻縄が巻きついていて、その先に滑車。床には木枠が据えてあって、そこに鉄塊を載せて吊り上げる仕組みらしい。
レンツは、しばらくそれを見ていた。
視界の縁に、数が出る。
彼は何も言わなかった。
「……あの」
イルゼ・シュミットが後ろから声をかけた。
「炉はこっちですけど」
「はい」
レンツは天井から目を離した。
◇
工房は片付いていた。
道具は種類ごとに壁にかけられ、鉄塊は大きさで分けて積まれている。床に落ちているものが何もない。
仕事の丁寧な人間の部屋だった。
「四年分、記録があると言いましたね」
イルゼが言った。まだ疑っている声だった。
「はい」
「じゃあ聞きますけど。あなたは何を知ってるんですか。うちの何を」
「六十八点分の、硬さと歪みです」
「それが分かって、何が変わるんですか」
もっともな問いだった。
レンツは炉のそばの床に木札を並べはじめた。日付順に、六十八枚。並べ終えるのに、しばらくかかった。
「この四十三枚は、二年より前のものです」
彼は左端を示した。
「硬さは、どれも六十前後です。差が小さい。良い仕事です」
「……昔の話ですね」
「ここまでは、そうです」
レンツは右へ手を移した。
「問題はここからです。八ヶ月前より後のもの、二十五枚」
彼は一枚ずつ、指で押さえていった。
「七十一。五十二。六十九。四十八。七十三。五十五」
イルゼが黙った。
「揃っていません。ばらばらです」
「……だから、腕が落ちたって」
「腕が落ちたなら、こうはなりません」
レンツは言った。
「腕が落ちるというのは、全部が同じ方向に下がることです。全部が柔らかくなるか、全部が硬くなるか。人の技量は、日によって上下にひっくり返ったりしません」
「じゃあ、何なんですか」
「変わったのは、あなたじゃありません」
レンツは木札の境目を指した。
「八ヶ月前です。この日を境に、何かが変わっています」
「……何も変えてません」
彼女は即答した。
「父のやり方を、そのまま守ってます。何ひとつ」
レンツは頷いた。
そう答えるだろうと思っていた。人は、変えたと思っていないことを変える。
「では、順に伺います」
◇
「鉄は、どこから」
「ローテアーダーです。ずっと同じ問屋から」
「変わっていませんか」
「変わってません。あそこは代替わりもしてないし」
「炭は」
「東の森の炭焼きです。これも同じところ」
「炉は」
「父の代から同じです。直したこともありません」
「槌は」
「……祖父の代からのものです」
レンツは一つずつ、頭の中で消していった。
鉄。炭。炉。槌。人。手順。
全部が同じなら、結果は変わらない。だが結果は変わっている。
したがって、何かが違う。
「水は」
彼は言った。
イルゼが、少し間を置いた。
「水は……水ですけど」
「どこから汲んでいますか」
「裏の井戸です」
「その井戸は、いつからありますか」
沈黙が落ちた。
イルゼの視線が、戸口の外へ動いた。
「……去年の秋に、掘り直しました」
「掘り直した」
「前の井戸が涸れたんです。夏に川の水位が下がって、そのまま戻らなくて。だから、五間ばかり離したところに新しく」
彼女は言葉を切った。
「でも、水ですよ」
その一言に、この街のすべてが入っていた。
水は水だ。井戸が変わっても、水は水である。誰もそれを疑わない。
疑うための道具が、この世界に存在しないからだ。
「秋、というのは」
「……八ヶ月前です」
イルゼの声が細くなった。
◇
レンツはもう一度、木札を見た。
二十五枚。硬すぎるものと、柔らかすぎるものが混じっている。
ここが合わない。
水が冷たくなったのなら、急に冷やされて、硬く、脆くなる。それは分かる。断面の亀裂もそれで説明がつく。
だが、柔らかすぎるものが混じる理由にはならない。
「シュミットさん」
「……はい」
「割れる品が出たとき、あなたはどうしましたか」
イルゼが顔を上げた。
「どう、って」
「そのまま同じように打ちましたか。それとも、何かを変えましたか」
彼女は答えなかった。
答えないというのが、答えだった。
「……焼きが強すぎるんだと思ったんです」
やがて、彼女は言った。
「割れるのは、焼きが入りすぎたときだから。だから、火から上げるのを少し早くしました。水に入れる前に、一呼吸置いたりもしました」
「それで、直りましたか」
「直る日と、直らない日がありました」
イルゼは自分の手を見た。
「柔らかいのが出たら、また戻して。硬いのが出たら、また加減して。……ずっと、その繰り返しです」
レンツは、木札の列をもう一度見た。
七十一。五十二。六十九。四十八。
上と下に、交互に振れている。
――増やしているのは、彼女だ。
水が冷えた。品が割れた。彼女は加減した。今度は柔らかくなった。彼女はまた戻した。また割れた。
その繰り返しが、八ヶ月続いている。
「シュミットさん」
「はい」
「一つ、確かめさせてください。割れた品は、朝に打ったものが多くありませんか」
イルゼが目を見開いた。
「……なんで」
「多いですか」
「……多いです。朝の一本目は、よく駄目になります。だから最近は、朝は簡単な仕事から始めるようにしてて」
レンツは息を吐いた。
これで、繋がった。
◇
「あなたの腕は、落ちていません」
彼は言った。
「変わったのは、水です」
「……水」
「新しい井戸の水は、前の井戸より冷たい。特に朝が冷たい。夜のあいだに冷え切って、まだ日が当たっていないからです」
レンツは金具の断面を思い出していた。硬さ七十一。網のような亀裂。
「熱い鉄を、冷たすぎる水に入れると、内側と外側で縮み方が違います。表面は先に固まって、内側は遅れて縮む。その差が、割れになります」
「……そんなことで」
「そんなことです」
彼は木札を指した。
「そして、割れたのを見たあなたは、焼きを弱めた。それは正しい判断です。焼きが強すぎるときは、そうします」
「じゃあ、なんで」
「強すぎたわけではなかったからです」
レンツは言った。
「強すぎたのは、火ではなく、水の冷たさです。あなたは火を弱めた。だから、次は焼きが足りなくなった。」
イルゼが、口を開けたまま止まった。
「……八ヶ月」
「はい」
「八ヶ月、私、間違ったことをしていたんですか」
「いえ、正しいことをしていました。間違っていたのは方法や手順ではなく、材料だった。それを、誰も教えられなかっただけです」
◇
「じゃあ、どうすれば」
イルゼが言った。声が少し戻っていた。
「水を温めてください」
「温める」
「前の井戸と同じくらいまで」
彼女は頷きかけて、止まった。
「……同じくらいって、どれくらいですか」
レンツは答えなかった。
答えられなかったからだ。
この世界には、水の冷たさを表す言葉が三つしかない。熱い。ぬるい。冷たい。
彼の目には数が視える。だがそれは彼にしか視えない。彼が「四十二」と言っても、イルゼは水を四十二にできない。
測る道具がない。
単位がない。
基準がない。
「桶を用意してください」
やがて、彼は言った。
「それと、砂時計を」
「……はい?」
「決めます」
レンツは立ち上がった。この世界には、サーモスコープもなければ水銀計もない。ならば、多少粗い方法でも構わない。大切なのは今よりも良い形にすることだ。
レンツは受け取った砂時計に十までのメモリを書き込み、イルゼに伝えた。
「まず、井戸から汲んだ水に、手首まで手を入れます。砂時計を返し、三つ目のメモリまでに痛いと感じるなら冷たすぎる。最後のメモリまで進んでも、全く冷たいと感じないなら、それでいい」
「そんな、いい加減な」
「いい加減です」
彼は認めた。
「ですが、あなたにも、私にも、明日のあなたにも、同じようにできます」
イルゼが黙った。
「今この世界には、水の冷たさを測る方法がありません。ですから、作ります。正確でなくて構いません。誰がやっても同じ答えが出るなら、それは使えます」
「……それ、意味あるんですか」
「あります」
レンツは言った。
「昨日と今日を、比べられるようになります」
◇
イルゼは、しばらく彼を見ていた。
それから、桶を取りに行った。
戻ってきて、井戸の水を汲んで、手を入れて、口の中で数を数えた。
二つ数えたところで、手を引いた。
「……冷たい」
彼女は自分の手を見た。それから、レンツを見た。
「あなた、何なんですか」
「装備管理係です」
「クビになったって聞きましたけど」
「はい」
イルゼは笑わなかった。笑いかけて、やめた顔をした。
「……なんで、そんなことが分かるんですか」
誰もレンツにそれを聞いたことがなかった。
視えると言えば気味悪がられ、記録だと言えば笑われた。このスキルを獲得して以来、ずっとそうだ。
問われたのは、初めてだった。
「四年分、測っていたからです」
彼は言った。
「それだけです」
◇
その日の夕方、レンツは工房の隅を借りることになった。
宿代はあと八日分しか残っていなかったので、断る理由がなかった。
板張りの床に荷を下ろして、彼は木札を並べはじめた。
顔を上げると、梁が見えた。
鉄の鉤。麻縄。滑車。
視界の縁に、数が出ている。
レンツは、それを木札に書き写した。
日付。場所。所見。
そして今、スキル《規格外れ》が視せた数を、一番下に。
今回もお読みいただきありがとうございます✨
八ヶ月前、シュミット工房は井戸を掘り直していました。
そして誰も、それを「変化点」だと思っていませんでした。タイトルにも採用した通り、彼らにとって水は水だからです。
ものづくりにおいて基本とされる4M(Man, Material, Machine, Method)。
レンツは今回、変更履歴を追いかけた形となります。
そして、今回、イルゼは二重に不運でした。
ひとつ、変化点があったこと。
もうひとつ、彼女の職人としての勘が正しく働いていたこと。
割れたら焼きを弱める。これは正しい対処です。
ただし「焼きが強すぎるとき」に限ります。
条件が違えば、『正しいはずの対処』も過ちとなり、状況を悪化させます。
ものづくりの現場に立ったことのある方なら、あまりにも当たり前のことすぎて、逆にクエスチョンになってしまうかもしれませんね。
このタイプの事故は、歴史上、本当にあったようです。
さて、なんやかんやありましたが、このお話の終わり際にて、レンツはしれっと工房に住み込むことになりました。
彼が最初に測るのは、剣ではありません。
――次回、彼は天井の話をします。
彼はこの世界におけるたったひとりのクオリティエンジニア。
彼がこの世界で見るべきは、剣や鎧、歯車、車輪といった『完成品』ばかりではないからです。
また次回も、あなたの品質目線で、レンツと共にこの世界を観察してみてくださいね。




