表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
3/13

第3話 水は、水じゃない

シュミット工房は、川沿いの職人街の一番奥にあった。


 石積みの壁は煤で黒く、屋根の梁は太い。三代続いた家の建て方だった。


 レンツ・ノルムは戸をくぐって、三歩進んで、足を止めた。


 そして、天井を見上げた。


 梁から鉄の鉤が下がっている。太い麻縄が巻きついていて、その先に滑車。床には木枠が据えてあって、そこに鉄塊を載せて吊り上げる仕組みらしい。


 レンツは、しばらくそれを見ていた。


 視界の縁に、数が出る。


 彼は何も言わなかった。


「……あの」


 イルゼ・シュミットが後ろから声をかけた。


「炉はこっちですけど」


「はい」


 レンツは天井から目を離した。


   ◇


 工房は片付いていた。


 道具は種類ごとに壁にかけられ、鉄塊は大きさで分けて積まれている。床に落ちているものが何もない。


 仕事の丁寧な人間の部屋だった。


「四年分、記録があると言いましたね」


 イルゼが言った。まだ疑っている声だった。


「はい」


「じゃあ聞きますけど。あなたは何を知ってるんですか。うちの何を」


「六十八点分の、硬さと歪みです」


「それが分かって、何が変わるんですか」


 もっともな問いだった。


 レンツは炉のそばの床に木札を並べはじめた。日付順に、六十八枚。並べ終えるのに、しばらくかかった。


「この四十三枚は、二年より前のものです」


 彼は左端を示した。


「硬さは、どれも六十前後です。差が小さい。良い仕事です」


「……昔の話ですね」


「ここまでは、そうです」


 レンツは右へ手を移した。


「問題はここからです。八ヶ月前より後のもの、二十五枚」


 彼は一枚ずつ、指で押さえていった。


「七十一。五十二。六十九。四十八。七十三。五十五」


 イルゼが黙った。


「揃っていません。ばらばらです」


「……だから、腕が落ちたって」


「腕が落ちたなら、こうはなりません」


 レンツは言った。


「腕が落ちるというのは、全部が同じ方向に下がることです。全部が柔らかくなるか、全部が硬くなるか。人の技量は、日によって上下にひっくり返ったりしません」


「じゃあ、何なんですか」


「変わったのは、あなたじゃありません」


 レンツは木札の境目を指した。


「八ヶ月前です。この日を境に、何かが変わっています」


「……何も変えてません」


 彼女は即答した。


「父のやり方を、そのまま守ってます。何ひとつ」


 レンツは頷いた。


 そう答えるだろうと思っていた。人は、変えたと思っていないことを変える。


「では、順に伺います」


   ◇


「鉄は、どこから」


「ローテアーダーです。ずっと同じ問屋から」


「変わっていませんか」


「変わってません。あそこは代替わりもしてないし」


「炭は」


「東の森の炭焼きです。これも同じところ」


「炉は」


「父の代から同じです。直したこともありません」


「槌は」


「……祖父の代からのものです」


 レンツは一つずつ、頭の中で消していった。


 鉄。炭。炉。槌。人。手順。


 全部が同じなら、結果は変わらない。だが結果は変わっている。


 したがって、何かが違う。


「水は」


 彼は言った。


 イルゼが、少し間を置いた。


「水は……水ですけど」


「どこから汲んでいますか」


「裏の井戸です」


「その井戸は、いつからありますか」


 沈黙が落ちた。


 イルゼの視線が、戸口の外へ動いた。


「……去年の秋に、掘り直しました」


「掘り直した」


「前の井戸が涸れたんです。夏に川の水位が下がって、そのまま戻らなくて。だから、五間ばかり離したところに新しく」


 彼女は言葉を切った。


「でも、水ですよ」


 その一言に、この街のすべてが入っていた。


 水は水だ。井戸が変わっても、水は水である。誰もそれを疑わない。


 疑うための道具が、この世界に存在しないからだ。


「秋、というのは」


「……八ヶ月前です」


 イルゼの声が細くなった。


   ◇


 レンツはもう一度、木札を見た。


 二十五枚。硬すぎるものと、柔らかすぎるものが混じっている。


 ここが合わない。


 水が冷たくなったのなら、急に冷やされて、硬く、脆くなる。それは分かる。断面の亀裂もそれで説明がつく。


 だが、柔らかすぎるものが混じる理由にはならない。


「シュミットさん」


「……はい」


「割れる品が出たとき、あなたはどうしましたか」


 イルゼが顔を上げた。


「どう、って」


「そのまま同じように打ちましたか。それとも、何かを変えましたか」


 彼女は答えなかった。


 答えないというのが、答えだった。


「……焼きが強すぎるんだと思ったんです」


 やがて、彼女は言った。


「割れるのは、焼きが入りすぎたときだから。だから、火から上げるのを少し早くしました。水に入れる前に、一呼吸置いたりもしました」


「それで、直りましたか」


「直る日と、直らない日がありました」


 イルゼは自分の手を見た。


「柔らかいのが出たら、また戻して。硬いのが出たら、また加減して。……ずっと、その繰り返しです」


 レンツは、木札の列をもう一度見た。


 七十一。五十二。六十九。四十八。


 上と下に、交互に振れている。


 ――増やしているのは、彼女だ。


 水が冷えた。品が割れた。彼女は加減した。今度は柔らかくなった。彼女はまた戻した。また割れた。


 その繰り返しが、八ヶ月続いている。


「シュミットさん」


「はい」


「一つ、確かめさせてください。割れた品は、朝に打ったものが多くありませんか」


 イルゼが目を見開いた。


「……なんで」


「多いですか」


「……多いです。朝の一本目は、よく駄目になります。だから最近は、朝は簡単な仕事から始めるようにしてて」


 レンツは息を吐いた。


 これで、繋がった。


   ◇


「あなたの腕は、落ちていません」


 彼は言った。


「変わったのは、水です」


「……水」


「新しい井戸の水は、前の井戸より冷たい。特に朝が冷たい。夜のあいだに冷え切って、まだ日が当たっていないからです」


 レンツは金具の断面を思い出していた。硬さ七十一。網のような亀裂。


「熱い鉄を、冷たすぎる水に入れると、内側と外側で縮み方が違います。表面は先に固まって、内側は遅れて縮む。その差が、割れになります」


「……そんなことで」


「そんなことです」


 彼は木札を指した。


「そして、割れたのを見たあなたは、焼きを弱めた。それは正しい判断です。焼きが強すぎるときは、そうします」


「じゃあ、なんで」


「強すぎたわけではなかったからです」


 レンツは言った。


「強すぎたのは、火ではなく、水の冷たさです。あなたは火を弱めた。だから、次は焼きが足りなくなった。」


 イルゼが、口を開けたまま止まった。


「……八ヶ月」


「はい」


「八ヶ月、私、間違ったことをしていたんですか」


「いえ、正しいことをしていました。間違っていたのは方法や手順ではなく、材料だった。それを、誰も教えられなかっただけです」


   ◇


「じゃあ、どうすれば」


 イルゼが言った。声が少し戻っていた。


「水を温めてください」


「温める」


「前の井戸と同じくらいまで」


 彼女は頷きかけて、止まった。


「……同じくらいって、どれくらいですか」


 レンツは答えなかった。


 答えられなかったからだ。


 この世界には、水の冷たさを表す言葉が三つしかない。熱い。ぬるい。冷たい。


 彼の目には数が視える。だがそれは彼にしか視えない。彼が「四十二」と言っても、イルゼは水を四十二にできない。


 測る道具がない。


 単位がない。


 基準がない。


「桶を用意してください」


 やがて、彼は言った。


「それと、砂時計を」


「……はい?」


「決めます」


 レンツは立ち上がった。この世界には、サーモスコープもなければ水銀計もない。ならば、多少粗い方法でも構わない。大切なのは今よりも良い形にすることだ。


 レンツは受け取った砂時計に十までのメモリを書き込み、イルゼに伝えた。 


「まず、井戸から汲んだ水に、手首まで手を入れます。砂時計を返し、三つ目のメモリまでに痛いと感じるなら冷たすぎる。最後のメモリまで進んでも、全く冷たいと感じないなら、それでいい」


「そんな、いい加減な」


「いい加減です」


 彼は認めた。


「ですが、あなたにも、私にも、明日のあなたにも、同じようにできます」


 イルゼが黙った。


「今この世界には、水の冷たさを測る方法がありません。ですから、作ります。正確でなくて構いません。()()()()()()()()()()()()()なら、それは使えます」


「……それ、意味あるんですか」


「あります」


 レンツは言った。


「昨日と今日を、比べられるようになります」


   ◇


 イルゼは、しばらく彼を見ていた。


 それから、桶を取りに行った。


 戻ってきて、井戸の水を汲んで、手を入れて、口の中で数を数えた。


 二つ数えたところで、手を引いた。


「……冷たい」


 彼女は自分の手を見た。それから、レンツを見た。


「あなた、何なんですか」


「装備管理係です」


「クビになったって聞きましたけど」


「はい」


 イルゼは笑わなかった。笑いかけて、やめた顔をした。


「……なんで、そんなことが分かるんですか」


 誰もレンツにそれを聞いたことがなかった。


 視えると言えば気味悪がられ、記録だと言えば笑われた。このスキルを獲得して以来、ずっとそうだ。


 問われたのは、初めてだった。


「四年分、測っていたからです」


 彼は言った。


「それだけです」


   ◇


 その日の夕方、レンツは工房の隅を借りることになった。


 宿代はあと八日分しか残っていなかったので、断る理由がなかった。


 板張りの床に荷を下ろして、彼は木札を並べはじめた。


 顔を上げると、梁が見えた。


 鉄の鉤。麻縄。滑車。


 視界の縁に、数が出ている。


 レンツは、それを木札に書き写した。


 日付。場所。所見。


 そして今、スキル《規格外れ》が視せた数を、一番下に。

今回もお読みいただきありがとうございます✨


八ヶ月前、シュミット工房は井戸を掘り直していました。

そして誰も、それを「変化点」だと思っていませんでした。タイトルにも採用した通り、彼らにとって水は水だからです。


ものづくりにおいて基本とされる4M(Man, Material, Machine, Method)。

レンツは今回、変更履歴を追いかけた形となります。


そして、今回、イルゼは二重に不運でした。


ひとつ、変化点があったこと。

もうひとつ、彼女の職人としての勘が正しく働いていたこと。


割れたら焼きを弱める。これは正しい対処です。

ただし「焼きが強すぎるとき」に限ります。

条件が違えば、『正しいはずの対処』も過ちとなり、状況を悪化させます。


ものづくりの現場に立ったことのある方なら、あまりにも当たり前のことすぎて、逆にクエスチョンになってしまうかもしれませんね。

このタイプの事故は、歴史上、本当にあったようです。


さて、なんやかんやありましたが、このお話の終わり際にて、レンツはしれっと工房に住み込むことになりました。

彼が最初に測るのは、剣ではありません。


――次回、彼は天井の話をします。


彼はこの世界におけるたったひとりのクオリティエンジニア。

彼がこの世界で見るべきは、剣や鎧、歯車、車輪といった『完成品』ばかりではないからです。


また次回も、あなたの品質目線で、レンツと共にこの世界を観察してみてくださいね。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ