第2話 運が悪かった、で片付く世界
宿代は、あと九日分あった。
レンツ・ノルムは寝台に腰かけたまま、革袋の中身を三度数え直した。銅貨が四十二枚。銀貨が三枚。四年働いて、これだけだった。
装備管理係の給金は安い。もっとも、彼は使い道をほとんど持たなかった。金の大半は木札と炭に消えている。
九日。
その数を頭に置いて、彼は宿を出た。
◇
アイゼンタールは、谷底に沿って細長く伸びた街だ。
北の斜面にローテアーダー鉱山の坑口が口を開けていて、鉄を積んだ荷車が朝から途切れなく下りてくる。谷を貫いて流れる川沿いには水車が並び、その水音の届く範囲に職人街がある。炉の煙は一日中絶えない。
そして谷の南端に、大ダンジョン─ティーフグルント─の入口がある。
鉱山から掘り出された鉄が、川の水で焼かれ、職人の手で剣になり、ダンジョンへ運ばれて、壊れて戻ってくる。
この街では、すべてが歩いて回れる距離に収まっていた。
レンツはその全部を、一度は測ったことがある。
仕事ではなかった。誰に頼まれたわけでもない。ただ、数を集めなければ何ひとつ判断できないと知っていたから、彼は八年かけて街じゅうの金物を視て回った。買えないものは店先で眺め、眺められないものは知り合いに頼んで借りた。
木札は千枚を超えている。宿の寝台の下に、まとめて置いてある。
ギルド支部の前を通ると、掲示板の前に人だかりができていた。
「不倒の牙、また潜ったのか」
「昨日の今日でだろ。さすがだな」
「三層で剣が折れたばかりだってのに」
「折れたからどうした。剣なんざ折れるもんだ」
レンツは足を止めなかった。
◇
事故は、職人街へ下る坂の途中で起きた。
鉄鉱石を満載した荷車が、坂の半ばで軋んだ音を立てた。
それから、荷台の側板を留めていた金具が外れた。
音は思ったより小さかった。鈍い、短い音だ。次の瞬間には、側板が倒れて、積み上げられていた鉱石が坂道へこぼれ落ちていた。
石は跳ねながら坂を下っていく。
叫び声が上がった。
荷車引きの男が咄嗟に轅へ体重をかけ、車体を斜めに振った。坂の下にいた老婆が引き倒されるようにして脇へ寄せられ、そのすぐ横を石が抜けていった。
最後の一つが石垣に当たって止まるまで、十数秒だった。
死人は出なかった。荷車引きの男が右腕を切り、老婆が転んで肘を擦りむいた。それだけだ。
人が集まってきて、鉱石を拾い集めはじめた。
「運が悪かったな」
誰かがそう言った。何人かが頷いた。
「坂の途中で外れたのが運が悪い。上か下ならこうはならん」
「まあ、金具だからな」
それで、話は終わった。
レンツは違和感を覚えた。だが、この手の違和感は、この世界に来てから飽きるほど感じている。
この場に二十人ほどがいる。そのうち一人として、外れた金具を見ていなかった。
彼らが見ていたのは、こぼれた鉱石と、怪我人と、坂の角度だった。
原因を探そうとした者が、一人もいない。
彼は屈んで、道端に転がっていた金具を拾い上げた。
厚さは指の幅ほど。折れているのではなく、根元から千切れていた。
視界の縁に、数が滲む。
断面。硬さ、七十一。
高い。硬すぎる。
そしてその内側、深さにして髪一本ぶんの層に、微細な亀裂が走っていた。
一本ではない。網のように、無数に。
レンツはそれを数えようとして、やめた。数えきれなかった。
目の奥が痛みはじめる。
彼はもう一度、断面を視た。
亀裂の縁は、鈍い。使っているうちに擦れて丸くなったものではなかった。生まれたときからそこにあって、そのまま眠っていた形をしている。
――これは、使って壊れたんじゃない。
彼は金具を掌の上で裏返した。
◇
「……すみません」
声がした。
人垣の後ろから、若い女が出てきていた。
二十歳を少し過ぎたくらい。前掛けに炭と鉄粉が染みついている。腕は細くない。手の甲に古い火傷の痕が幾つもあった。
鍛冶師の手だった。
「その金具、うちの工房のものです」
人垣がざわついた。
「シュミットのとこか」
「またかい」
女は頭を下げた。深く、長く。
「治療の代金はお支払いします。荷も、うちで弁償します」
「またって、何度目だ」
「先月も、南街道で車軸留めが外れたって聞いたぞ」
「親父さんの頃はこんなことなかったのになあ」
その一言で、女の肩がわずかに下がった。
彼女は顔を上げなかった。
「……申し訳ありません」
人が散っていく。鉱石は拾い終わり、怪我人は連れられていった。
残ったのは、頭を下げたままの女と、坂道に立っているレンツだけだった。
「イルゼ・シュミットさん」
名を呼ばれて、女は顔を上げた。
「……どうして名前を」
「四年分の記録があります」
レンツは腰の袋から木札を抜いた。何枚も、束ねてある。
「シュミット工房のものは、六十八点あります」
◇
イルゼは木札を受け取らなかった。受け取り方が分からない、という顔をしていた。
「何の話ですか」
「あなたの工房の品を、俺は六十八点測っています。留め具、車軸の輪、剣の部品。四年分です」
「測る、って」
「硬さと、内側の歪みです」
イルゼの表情が動かない。
当然だった。彼女には硬さを測る手段がない。この街の誰にもない。世界のどこにもない。
「……あの」
彼女は言った。声が低かった。
「気を使ってくださってるなら、いりません。私の腕が落ちたんです。それだけの話なんです」
「落ちていません」
「落ちました」
イルゼははっきりと言った。
「昨日できたことが、今日できないんです。同じ鉄で、同じ炉で、同じように打ってるのに。もう二年、ずっとです」
彼女は自分の手を見た。
「父が死んでから、ずっと」
レンツは木札の束を繰った。
六十八点。日付順に並んでいる。
最初の四十点あまりは、数値が揃っていた。硬さは六十前後で、ばらつきは小さい。良い仕事だ。
そして、ある日を境に、数が跳ねている。
七十を超えるものと、五十を割るものが、交互に現れはじめる。同じ工房、同じ職人、同じ月のうちに。
境目の日付を、レンツは指で押さえた。
二年前ではなかった。
――八ヶ月前だ。
「シュミットさん」
彼は言った。
「あなたの腕が落ちたのなら、下がり方は、なだらかなはずです」
イルゼが彼を見た。
「これは、そうなっていません」
レンツは木札を裏返し、境目の日付を見せた。読める字ではなかったが、彼女は目を落とした。
「この日を境に、跳ねています」
彼はもう一度、掌の金具に目をやった。
断面の内側で、無数の亀裂が、生まれたときの形のまま眠っている。
これは打った後に壊れたのではない。
――作られた時点で、もう壊れていた。
今回もお読みいただき、ありがとうございます!
この世界の人々は、愚かではありません。
ただ「原因を探す」という発想を持たないだけです。
結果は運で決まる。
数百年、誰もそれを疑いませんでした。
さて、今回の手がかりを並べておきます。
・折れたのではなく、千切れていた
・断面が硬すぎる(単位不明ですが、レンツの尺度によれば硬さ71)
・内部に無数の微細な亀裂。使用による摩耗ではない
・不良は「八ヶ月前」を境に始まっている
・イルゼの腕は二年前から落ちたと言われている
――八ヶ月前、シュミット工房に何が起きたのでしょうか。
あなたなら、次に何を調べますか?
感想欄でぜひ教えてくださいね。




