第1話 その剣、次の戦闘で折れます
「その剣、次の戦闘で折れます」
レンツ・ノルムがそう言った瞬間、酒場の音が消えた。
剣が折れる。この街では、天気の話と同じくらい退屈な話題だった。
冒険者は剣を五本担いで歩く。三本では足りないからだ。鎧の留め具は予備を六つ持ち、靴は履き替えを二足用意する。壊れるからだ。すべて、必ず、壊れるからだ。
だから、レンツの言葉のどこに驚くべき点があるのか、この場の誰も分かっていなかった。
彼が言ったのは「折れる」ではない。
――次の戦闘で、だ。
「……何だ、それは」
ガルド・ブレンナーが杯を置いた。厚い木の卓に、音が高く鳴った。
「不倒の牙」の頭領は、この街、アイゼンタールで最も深くダンジョンに潜る男だった。大ダンジョンであるティーフグルントの第四層まで足を踏み入れて、五人全員を連れて戻ってきた者は、この街に彼しかいない。
その男の前に、剣が一本置かれている。三日前に地上へ持ち帰られた、彼の主武装だった。
レンツの仕事は、それを見ることだ。
荷物持ち兼、装備管理係。四年前からそう呼ばれている。戦えないので担ぎ、担げないときは走る。そして帰還のたびに、五人分の装備を並べて一つずつ検める。剣が二十五本。留め具が三十。靴が十足。
誰もその作業を見ていない。見ても意味が分からないからだ。
レンツは剣を見た。
視界の縁に、数が滲む。
刃の根元。歪み、六十八。
三ヶ月前、この剣は十二だった。二ヶ月前は三十一。そして今日、六十八。
目の奥が鈍く痛みはじめる。長く視ていると、こうなる。
彼のスキル《規格外れ》は、それ以上のことを何ひとつ教えてくれない。
なぜ歪んだのかは出ない。どうすれば直るのかも出ない。この数がいくつになったら折れるのかも、当然、出ない。
スキルが差し出すのは数だけだ。
意味を与えるのは、いつだって人間の仕事だった。
レンツは腰の袋から木札を三枚抜き、卓に並べた。炭で書いた数字が、隙間なく詰めて刻んである。
「三ヶ月で五倍を超えました。増え方そのものが速くなっています。前回から今回で、倍以上です」
「木の板に数字を書いて、それが何になる」
「なりません」
レンツは答えた。
「これだけでは、何にもなりません。ですが、四年分あります」
酒場の隅で誰かが笑った。
「そりゃお前にしか見えねえんだろ、装備係」
その通りだった。
この数は、レンツ以外の誰にも視えない。剣を割って中を見せることもできない。割ってしまえば、それはもう剣ではない。
証明する手段が、この世界に存在しない。
だから彼は書く。書いて、日付を入れて、外れなかったという事実だけを積み上げていく。それ以外に道がないからだ。
ガルドは笑わなかった。木札も見なかった。
「レンツ。お前、うちに何年いる」
「四年です」
「四年、俺たちは全員生きて帰ってきたな」
「はい」
「潜る前に『死ぬかもしれん』と言われて、それで生きて帰った奴を、俺は一人も知らん」
これは、正しい。
レンツは四年かけてそれを理解していた。この世界では、恐れを口にする者が仲間を殺す。迷いは足を止め、止まった足は死ぬ。ガルドの言っていることは、この街の理屈として、完全に筋が通っている。
通っているからこそ、届かない。
「言わなければ、迷いはありません」
レンツは言った。
「言わなければ、剣も折れませんか」
卓が静かになった。
マルティン・クレーが口を開いた。
開いただけだった。息を吸う音が短く鳴って、それから、何も出てこなかった。彼は両手を卓の下に下ろし、膝の上で重ねた。
治癒師の手。この世界における魔法とは、両の手のひらから出る。彼が手を失うようなことがあれば──彼は何者でもなくなる。
「もういい」
ガルドが木札を取り上げた。三枚まとめて、片手で。
「お前は臆病だ。そして臆病は移る」
そして、炉に放った。
乾いた音がした。木札は炭の上で一度跳ね、それから縁が黒くなりはじめた。数字が消えていく順序を、レンツは端から眺めていた。
「板きれが、誰かを守ったことがあるか」
レンツは答えなかった。
抗議もしなかった。声も出さなかった。
四年前から――もっと言えば、物心ついた頃から、彼はそれが無駄だと知っている。
視えているものを、他人は確かめられない。確かめられないものは、信じられない。
それだけの話だった。
「明日から来なくていい」
「分かりました」
レンツは立ち上がり、荷物袋を肩にかけ、酒場を出た。
背中で、乾杯の音が鳴りはじめた。
◇
翌日の昼過ぎ、「不倒の牙」がティーフグルントから上がってきた。
予定より二日早い、撤退だった。
レンツはその報せを、宿の食堂で聞いた。パンをちぎる手は止めなかった。
第三層の広間で、ガルド・ブレンナーの剣が折れたのだという。
根元から、まっすぐに。
五人は全員、生きて帰った。ガルドは即座に二本目へ持ち替え、退路を斬り開き、後衛を先に逃がした。判断は速く、正しかった。冒険者としての彼の実力に、疑う余地は一つもない。
負傷は三人。うち一人が、左手の指を二本失った。
マルティン・クレーがその場で治癒をかけた。傷は塞がった。
指は、戻らなかった。
この世界の治癒魔法は、体が元から持っている力を速めるだけだ。失われたものは、失われたままになる。
夕方には、酒場は元通りになっていた。
「運が悪かったな」
誰かがそう言い、何人かが頷いた。
「剣なんてそんなもんだ」
「三層で折れて全員無事なら、安いもんさ」
それで話は終わった。
誰も、昨日の話をしなかった。
忘れていたのではない。結びつけなかったのだ。
剣が折れたことと、剣が折れると言われていたことは、この街では別々の出来事として処理される。前者は当たり前で、後者は縁起の悪い戯言だった。
この二つを並べて見た人間が、この街に一人もいない。
通りの向かいでは、ガルドが武具屋の前に立っていた。
新しい剣を選んでいる。柄を握り、二、三度振り、頷いて、金を払った。
彼は何ひとつ間違ったことをしていない。剣は折れるものだから、買い替える。それがこの街の正しさだった。
◇
その夜、レンツは宿の卓に向かっていた。
薄い木片を小刀で削り、面を平らにしていく。炭を短く折り、先を尖らせる。
日付を刻む。
剣の識別。所見。歪み、六十八。
それから少し行を空けて、もう一行を加えた。
――是正を求めた相手の名。ガルド・ブレンナー。応答、拒否。
同じものを、もう一枚削り出す。
彼は昔から、点検の記録を必ず二部作る。
一部は、読まれるために。
もう一部は――
読まれなかったことを、後から証明するために。
数ある作品の中、こちらの作品をお読みいただきありがとうございます✨
読んでいただいてお分かりになったかもしれませんが、この世界には「品質」という言葉、という概念がありません。
剣は折れるもの、防具は壊れるもの、結果は運で決まるもの。
数百年、誰もそれを疑いませんでした。
さて、ひとつ伺わせてください。
もしあなたがレンツだったら、
ガルドに「この剣は危ない」とどう伝えましたか?
記録(木札)を見せる以外に、何ができたでしょうか。
感想欄でぜひ教えてくださいね。
次話、レンツは職を失ったまま、街で最初の事故に出くわします。




