第35話 右手だけの祈り
二十日が過ぎていた。
街路樹の葉が、色を変えはじめている。朝晩の風に、冬の気配が混じるようになった。
レンツ・ノルムが教会を訪れたのは、よく晴れた昼のことだった。
◇
石段を上がると、鐘楼の影が、参道に長く伸びていた。
扉の前で、ヴァルター司祭が待っていた。
「今日は、通す」
司祭は言った。
「だが、長居はするな。まだ、本調子ではない」
「はい」
◇
礼拝堂の奥、小さな部屋に、マルティンはいた。
寝台の上、上半身を起こしている。顔色は、まだ白かった。
右腕のあった場所に、包帯が巻かれ、そこで終わっていた。
窓から差す光が、その包帯を、静かに照らしていた。
◇
「……レンツか」
マルティンが言った。
「久しぶりだな」
「はい」
レンツは、寝台の脇に座った。
「体調は」
「見ての通りだ」
彼は、包帯のほうへ、わずかに視線を向けた。
「もう、慣れた。……嘘だ。慣れてない」
◇
窓の外で、鳥の声がした。遠く、槌の音も混じっている。街は、いつも通り動いていた。
「話は、聞いてる」
マルティンが言った。
「査問会、開くんだろう」
「はい」
「俺の証言、要るんだよな」
「はい」
レンツは言った。
「ですが、無理にとは言いません」
◇
マルティンは、しばらく、天井を見ていた。
「聞きたいことがある」
彼は言った。
「あの木札のこと」
「四年前のものです」
「ガルドが、燃やした」
「はい」
「もう一枚、あんたが持ってた」
彼は言った。
「あんたなら、そうするだろうって、思ってた」
◇
「なぜ、そう思われたんですか」
「四年、一緒にいたからな」
マルティンは言った。
「あんたは、言われたことを、全部書く男だった。燃やされて、黙って終わるようには、見えなかった」
彼は、少し笑った。乾いた笑いだった。
「言えなかったけどな。当てずっぽうだって、笑われるかもしれないと思って」
◇
「……そうでしたか」
レンツは言った。
窓からの光が、マルティンの顔を、少し翳らせた。
「あのとき、俺が、頭領に何か言ってたら」
「分かりません」
レンツは言った。
「今さら、分かりません」
◇
「……そうだな」
マルティンは、目を閉じた。
しばらく、部屋に、二人の呼吸の音だけがあった。
「なあ、レンツ」
「はい」
「なんで、頭領を庇ったと思う」
◇
レンツは、答えなかった。
答えを、持っていなかった。
「俺にも、分からねえんだ」
マルティンは言った。
「考える前に、体が動いてた」
彼は、左手を、包帯のほうへ、そっと伸ばした。
触れる寸前で、止まった。
◇
「頭領は、いつも、前に出る人だった」
彼は言った。
「馬鹿正直で、頑固で、俺たちの心配なんか、聞きやしねえ」
「はい」
「でも、あの人が前にいるだけで、みんな、安心して戦えた」
マルティンは言った。
「四年、それで、やってきた」
◇
「あんたに折れると言われたとき」
彼は続けた。
「頭領は、聞かなかった。俺も、止めなかった」
彼の声が、少し掠れた。
「あのとき、俺が何か言ってたら、今回は、違ったのかもしれない」
「それは」
「分かってる」
マルティンは、遮った。
「言っても、仕方ない。分かってる。でも、考えちまうんだ」
◇
レンツは、しばらく、黙っていた。
窓の外、雲が、ゆっくりと動いていく。光の角度が、わずかに変わった。
「証言、します」
マルティンが言った。
「はい」
「あんたが、木札を、二部作った理由。今なら、分かる」
彼は言った。
「一部が失われても、もう一部が、残る。そのために、あんたは、書き続けてたんだよな」
「はい」
◇
部屋を出る前、レンツは、一度、振り返った。
マルティンは、寝台の上で、右手のあった場所を、左手でそっと押さえていた。
祈りにも似た仕草だった。だが、彼が、何に祈っているのかは、レンツには分からなかった。
◇
礼拝堂に戻ると、ヴァルターが、扉のそばで待っていた。
「聞いたか」
「証言してくださると」
「そうだ」
司祭の声に、硬さがあった。
「レンツ」
「はい」
「一つ、言っておきたい」
◇
ヴァルターは、レンツの目を、まっすぐ見た。
「査問会で、お前がやろうとしていることは」
彼は言った。
「この街の信仰の、根本を揺るがすことになる」
「そんなつもりは」
「つもりがなくても、そうなる」
彼は言った。
「ゆらぎは、神のお定めだと、この街の人々は、何百年も信じてきた」
◇
「お前は、それを、『予見され、放置された不具合』だと言うつもりだろう」
ヴァルターは言った。
「それは、神への冒涜と、取られかねない」
「事実を、述べるだけです」
レンツは言った。
「信仰を、否定するつもりはありません」
◇
「否定しなくても」
司祭は言った。
「揺らぐものは、揺らぐ」
彼は、しばらく、レンツを見ていた。
「わしは、査問会を、止めはしない。止める権限も、ない」
彼は言った。
「だが、これだけは、覚えておけ。お前が積み上げているものは、剣や鉤だけの話では、済まなくなる」
◇
教会を出ると、外は、まだ明るかった。
傾きはじめた日が、石畳に、長い影を落としている。
レンツは、しばらく、その影を見ていた。
風が、色づいた葉を、一枚、足元に運んできた。
◇
納屋に戻ると、イルゼ・シュミットが、板を整理していた。
「マルティンさん、どうでした」
「証言してくださるそうです」
「良かった」
イルゼは、微笑んだ。
「司祭様は」
「査問会を、止めないと」
レンツは言った。
「ですが、これだけでは、済まないだろうとも」
◇
イルゼは、少し考えた。
「済まない、って」
「分かりません」
レンツは言った。
「ですが、そう言われました」
彼は、板に、短く書いた。
――教会、査問会を止めず。ただし、警告あり。
夕暮れの光が、その一行を、静かに照らしていた。
今回もお読みいただきありがとうございます✨️
レンツは、初めて、マルティンさんと言葉を交わしました。
彼は、なぜ頭領を庇ったのか、自分でも、まだ分かっていませんでした。
「考える前に、体が動いてた」
理屈では、説明できないことがあります。
それでも、彼は、証言することを決めました。
「一部が失われても、もう一部が、残る」
四年前、レンツが二部の記録を作った理由を、
今、マルティンさんは、理解していました。
――記録は、すぐには誰かを救いません。
――それでも、いつか、誰かに届きます。
そして、司祭が、初めて、はっきりとした態度を示しました。
査問会を止める権限はない、と彼は言いました。
しかし、こうも言いました。
「お前が積み上げているものは、
剣や鉤だけの話では、済まなくなる」
これは、脅しでしょうか。
それとも、警告でしょうか。
信仰と、事実。
この二つが、どこまで両立できるのか。
まだ、誰にも、分かりません。
次回、いよいよ、査問会が開かれます。




