第33話 空の鞘
街の門は、夕方になると、閉じる支度が始まる。
レンツ・ノルムが訪れたとき、門番は、まだ扉に手をかけていなかった。
石造りの階段を上ると、見張り台に出る。そこに、ガルド・ブレンナーがいた。
◇
彼は、壁にもたれて座っていた。
鎧は、脱いでいる。腰には、鞘だけがあった。中身のない、空の鞘だった。
視線は、谷の南、ティーフグルントのほうへ向いていた。
夕日が、谷の斜面を赤く染めていた。鉱山の坑口が、逆光の中で黒く見える。
風が、川からの匂いを運んできた。鉄と、水と、かすかな煙の匂いだった。
◇
レンツは、階段の途中で足を止めた。
ガルドは、振り返らなかった。
「誰だ」
「レンツ・ノルムです」
沈黙があった。
風だけが、鳴っていた。
「……お前か」
ガルドは、ようやく言った。
「何の用だ」
◇
「話を、伺いたく」
「話すことはない」
彼は言った。
「帰れ」
レンツは、動かなかった。
街灯りが、下の通りに一つ、二つと灯りはじめている。職人街のほうから、遅くまで働く槌の音が、かすかに届いていた。
◇
「あなたの剣を」
レンツは言った。
「拾いました」
ガルドの肩が、わずかに動いた。
「金物屋の裏に、捨ててありました」
「捨てたんだ」
彼は言った。
「もう、いらない」
「測りました」
レンツは言った。
「根元の傷み、六十九でした」
◇
ガルドは、答えなかった。
「四年前、俺が最後に測ったとき、六十八でした」
レンツは続けた。
「あれから四年、誰も測っていません。あの剣は、四年間、一度も見られないまま、進み続けていました」
◇
「だから、何だ」
ガルドが、初めて振り返った。
顔に、影ができていた。夕日が、輪郭だけを赤く縁取っている。
目の奥に、何があるのか、レンツには読めなかった。
「折れたのは、事実だ」
彼は言った。
「それが、どうした」
◇
レンツは、袋から、木札を取り出した。
すすけて、色の変わった一枚。
夕暮れの薄い光の中でも、刻まれた文字は、まだ読めた。
「これを、覚えていますか」
ガルドは、それを見た。
しばらく、動かなかった。
◇
「……燃やしたはずだ」
彼は言った。
「一部は」
レンツは言った。
「もう一部を、俺が持っていました」
風が、木札の表面を撫でるように吹いた。
ガルドは、手を伸ばさなかった。ただ、見ていた。
◇
「四年前、あなたはこれを、炉に投げました」
レンツは言った。
「あのとき、俺は、剣が折れると言いました。そして、折れました」
「一度目は、誰も死ななかった」
ガルドが言った。
「それが、答えだと思った」
◇
「答え、というのは」
「折れても、大したことにならない」
彼は言った。
「剣なんて、そんなもんだ。折れて、買い替えて、また潜る。それが、この街のやり方だ」
「二度目は」
レンツは言った。
「違いました」
◇
ガルドの拳が、石の床に、強く当たった。
音が、見張り台に響いた。
彼は、しばらく、俯いていた。
谷から吹き上がる風が、彼の乱れた髪を揺らしていた。
◇
「マルティンの腕は」
ガルドが、絞り出すように言った。
声が、いつもと違っていた。
「戻るのか」
「戻りません」
レンツは言った。
「治癒魔法は、失われた部位を、戻しません」
◇
ガルドは、目を閉じた。
しばらく、何も言わなかった。
鉱山のほうから、日暮れを告げる鐘が、遠く鳴った。
「あいつは」
彼は、ようやく言った。
「俺を、庇った」
「聞いています」
「なんでだよ」
ガルドの声が、震えていた。
「治癒師だぞ。前に出る役目じゃねえ。誰も、そうしろなんて言ってねえ」
◇
レンツは、答えなかった。
その理由を、彼も、まだ知らなかった。
二人のあいだに、沈黙が落ちた。
夕日は、もう谷の向こうに沈みかけていた。空が、深い紫に変わっていく。
◇
「レンツ」
ガルドが言った。
「お前、俺を、責めに来たのか」
「いいえ」
レンツは言った。
「事実を、確かめに来ました」
「事実」
彼は、鼻で笑った。乾いた、力のない笑いだった。
「六十九だろ。それが、事実か」
「はい」
「それで、俺が、悪いってことになるのか」
◇
レンツは、しばらく考えた。
「分かりません」
彼は言った。
「悪いかどうかは、俺には決められません。ですが、事実は、事実です」
「事実だけで、何が変わる」
ガルドが言った。
「マルティンの腕は、戻らねえんだろ」
「戻りません」
レンツは言った。
「ですが、次の誰かの腕は、戻るかもしれません」
◇
ガルドは、答えなかった。
彼は、また、谷のほうを見た。
闇が、ティーフグルントの入り口を、少しずつ覆いはじめていた。
◇
「帰れ」
彼は、やがて言った。
声に、力はなかった。
「今日は、それだけ、言いに来たんだろう」
「はい」
レンツは言った。
「もう一つだけ、伺ってもよろしいですか」
「なんだ」
「この木札を、査問会に出すつもりです」
◇
ガルドの背中が、強張った。
「……出すのか」
「はい」
「俺を、潰す気か」
「潰す気は、ありません」
レンツは言った。
「ですが、これは、事実です。事実を、隠すつもりはありません」
◇
ガルドは、しばらく黙っていた。
やがて、彼は、低く言った。
「好きにしろ」
それだけだった。
レンツは、木札を袋にしまい、階段を下りはじめた。
◇
途中で、一度、振り返った。
ガルドは、まだ、見張り台に座っていた。
空の鞘に、片手を置いたまま、谷の闇を見つめていた。
その姿は、四年前、酒場で木札を炉に投げ入れた男とは、別人のように見えた。
◇
夜道を歩きながら、レンツは、板に短く書いた。
――ガルド・ブレンナー。悔いの色、あり。認めるかは、不明。
彼は、それを見て、袋を閉じた。
街の灯りが、川面に映って揺れていた。
今回もお読みいただきありがとうございます✨️
レンツは、頭領本人と、初めて言葉を交わしました。
四年前、木札を炉に投げ入れた男は、
今日、その木札を見せられても、手を伸ばしませんでした。
しかし、何かが、確かに変わっていました。
「マルティンの腕は、戻るのか」
震える声で、そう尋ねた頭領がいました。
――正しさを認めることと、
誰かを大切に思うことは、
同じ場所から生まれるとは限りません。
彼は、まだ、自分の非を認めていません。
「事実だけで、何が変わる」
これは、彼の本音でしょう。
腕は戻らない。それは、事実です。
けれど、レンツは、こう答えました。
「次の誰かの腕は、戻るかもしれません」
過去は変えられません。
それでも、未来のために、
事実を積み上げることには、意味があります。
――責めるためではなく、
次を防ぐために、事実を確かめる。
これが、レンツの一貫した姿勢です。
さて、木札は、査問会に出されることになりました。
頭領は、最後にこう言いました。
「好きにしろ」
これが、諦めなのか、覚悟なのか。
レンツにも、まだ、分かりません。
次回、レンツは、査問会の開催をギルドに正式に申し出ます。




