第20話 誰が作ったか、書く
鏨で刻むのは、簡単ではなかった。
イルゼ・シュミットが試したのは、鉤の平らな面だった。焼きを入れる前の、まだ柔らかいうちに打つ。
「何を刻むんですか」
「三つです」
レンツ・ノルムは板を見せた。
「作った工房。作った年。その年の何本目か」
「三つも」
「三つないと、辿れません」
彼は言った。
「工房だけなら、いつのものか分かりません。年だけなら、どこのものか分かりません」
イルゼは、鏨を持ち直した。
「線でいいですか」
「線でいいです」
「じゃあ、うちは……縦棒一本にします」
彼女は言った。
「シュミットの、一本目の縦棒です」
◇
一本目の鉤が焼き上がったのは、その日の午後だった。
平らな面に、細い刻みが三つ。
縦棒が一本。その下に短い線が四本。さらにその下に、点が七つ。
シュミット工房。四年目。七本目。
「読めますか」
レンツが聞いた。
「読めます。私が刻んだので」
「他の人は」
「読めません」
イルゼは言った。
「これ、どうやって広めるんですか」
レンツは、板を出した。
「工房ごとに、印を決めます。それを一枚の板に書いて、写しを配ります」
「読み方を、みんなで揃えるってことですか」
「はい」
彼は言った。
「揃えないと、意味がありません」
◇
ホルスト工房で、その話をした。
グンター・ホルストは、刻んだ鉤を手に取って、しばらく眺めた。
それから、こう言った。
「やめとけ」
「なぜですか」
「名前を書くってことは、責めを負うってことだ」
彼は鉤を置いた。
「折れたときに、誰のせいか分かる」
「はい」
「分かってどうする」
ホルストが言った。
「うちの鉤だと分かったら、俺が悪いってことになる」
「なりません」
「なるさ」
彼は言った。
「この街じゃ、そうだ。誰かのせいにしたい奴は、いくらでもいる」
◇
レンツは、答えを探した。
ホルストの言っていることは、間違っていない。
この街には、良い悪いを決める線がない。だから、折れた剣を持ってきて「これは不良品だ」と言われれば、それを覆す方法がない。
名前を刻むということは、自分から証拠を差し出すことだ。
「ホルストさん」
「なんだ」
「今、折れた鉤を持ち込まれたら、どうしていますか」
「うちのじゃないと言う」
「証明できますか」
「できん」
ホルストは言った。
「だから、うちのじゃないと言い張るしかない」
「相手も、あなたのものだと証明できませんね」
「できんだろうな」
「では、どうなりますか」
ホルストは、少し黙った。
「……揉める」
「はい」
「毎回、揉めてる」
彼は言った。
「先月もあった。荷屋がうちの鉤だと言い張ってな。うちのじゃねえと言ったら、じゃあ誰のだと言われて」
「決まりましたか」
「決まらん。だから金は払わなかった」
ホルストは苛立った顔をした。
「だが、あそこはもう買いに来ん」
◇
レンツは、板に書いた。
――名前がないと、疑われ続ける。
「刻んでおけば」
彼は言った。
「うちのものではない、と言えます」
ホルストが顔を上げた。
「刻みがなければ、うちのものではありません。刻みがあって、年が合わなければ、その年のものではありません」
レンツは言った。
「名前を刻むのは、責めを負うためではありません。責めを切り分けるためです」
ホルストは、鉤を手に取り直した。
しばらく、刻みを指でなぞっていた。
「……逆か」
「はい」
「名前がねえから、全部うちのかもしれんと言われてたのか」
「はい」
◇
だが、ホルストは頷かなかった。
「それでも、うちのものだと分かる場合はあるだろ」
「あります」
「そのときはどうする」
「そのときは、あなたのものです」
レンツは言った。
「そして、なぜそうなったかを調べます」
「調べて、どうする」
「次を防ぎます」
彼は言った。
「四年前、クヴァントさんの鉄が変わっていました。鉱山が新しい坑を掘ったからです」
ホルストが顔を上げた。
「あれが分かったのは、荷置き場の親父が『あの年は鉄が安かった』と覚えていたからです」
レンツは言った。
「覚えていなければ、分かりませんでした。そして次も、同じことが起きます」
「刻んでおけば」
「年が分かります」
レンツは言った。
「その年に作られたものが全部おかしければ、鉄を疑えます」
◇
ホルストは、三日考えると言った。
工房を出て、川沿いを歩きながら、イルゼが言った。
「渋いですね」
「はい」
「ホルストさん、あんなに嫌がると思いませんでした」
「当然です」
レンツは言った。
「四十年、名前を出さずにやってきた人です」
「レンツさんは、平気なんですか」
「俺は作っていません」
彼は言った。
「作る人が背負うものを、俺は背負っていません」
イルゼが、少し黙った。
「……じゃあ、私は背負うんですね」
「はい」
「怖いですね」
「はい」
レンツは言った。
「ですが、あなたはもう背負っています」
彼女が顔を上げた。
「坂で荷が落ちたとき、あなたは頭を下げました」
レンツは言った。
「刻みがなくても、あなたのものだと分かったからです」
◇
二日後、納屋に客が来た。
女だった。二十代半ば。革の胸当てをつけている。左肩に古い傷があった。
「ここに、剣を見る人がいるって聞いたんだけど」
「俺です」
レンツは立ち上がった。
「あんた、金物屋の裏の屑を全部持ってったって?」
「はい」
「変わってるね」
彼女は納屋を見回した。
九十四本が、床に並んでいる。
「……うわ」
「何かご用ですか」
「これ、見てほしい」
彼女は背中から剣を外した。
◇
レンツは、剣を受け取った。
使い込んである。刃こぼれが多い。だが、手入れはされていた。
視界の縁に、数が滲む。
根元。三十七。
「三十七です」
「何それ」
「傷み具合です」
レンツは言った。
「折れた剣を九十四本、測りました。一番早く折れたものが、二十二でした」
「……二十二?」
「はい」
「あたし、三十七?」
「はい」
女の顔から、表情が消えた。
「じゃあ、あたしのはもう」
「折れてもおかしくありません」
レンツは言った。
「ですが、五十三まで保ったものもあります」
「どっちなの」
「分かりません」
◇
女は、剣を見下ろしていた。
「……前から、変な感じがしてた」
「変な感じ」
「重い。同じ重さのはずなのに、振ると重い」
彼女は言った。
「気のせいだと思ってた」
レンツは、板に書き留めた。
――使い手は、気づいている。
「あんた、なんで分かるの」
「視えるからです」
「視えるって」
「説明できません」
レンツは言った。
「ですが、九十四本測りました。それは板に書いてあります」
女は、床の板を見た。読めないはずだったが、しばらく見ていた。
「……いくら」
「え」
「見料。いくら」
◇
レンツは、答えを用意していなかった。
荷馬車引きのときは、銅貨三枚だった。
だが、あれは向こうが決めた額だ。
「銅貨、三枚です」
「安すぎない?」
女が眉を上げた。
「命かかってんだけど」
「……では、いくらが妥当ですか」
「あんたが決めなさいよ」
彼女は呆れた顔をした。
「あたしがこの剣で死んだら、あんたのせいじゃないけど、あんたが言ってくれてたら死ななかったってことになる」
女は言った。
「それって、銅貨三枚?」
◇
レンツは、しばらく黙っていた。
値段を決めるということは、線を引くことと同じだった。
高く言えば、誰も来ない。
安く言えば、続かない。
そして、只だと信じられない。
「銅貨十枚です」
彼は言った。
「一本につき、十枚」
「高いね」
「はい」
「まあ、剣一本より安いか」
女は銅貨を数えて置いた。
「あたし、ハンナ。ハンナ・ヴォルフ」
「レンツ・ノルムです」
「知ってる」
彼女は言った。
「不倒の牙をクビになった、変な男でしょ」
◇
ハンナは、納屋の中を歩き回った。
並んだ九十四本を、一本ずつ見ていく。
「これ、全部折れたやつ?」
「はい」
「どこで折れたか、分かる?」
「分かりません」
レンツは言った。
「誰も、書いていないので」
「書けばいいじゃない」
彼女は当たり前のように言った。
「どこで使ったか、書いて売ればいいでしょ」
レンツは、顔を上げた。
「売る?」
「だって、知りたいもの」
ハンナは言った。
「三層までなら保つ剣と、四層でも保つ剣、違うでしょ。同じ値段だったら困る」
彼女は肩をすくめた。
「今は、買ってみないと分からない。運任せ」
◇
レンツは、板に書いた。
――どこまで使えるかを、書いて売る。
書きながら、手が止まった。
これは、まだできない。
どこまで使えるかを知るには、どこで使われたかの記録が要る。記録を取るには、剣に名前が要る。名前を刻むには、職人が頷かなければならない。
全部、繋がっている。
「ハンナさん」
「なに」
「一つ、お願いがあります」
「何よ」
「その剣を替えたら、古いほうをここへ持ってきてください」
レンツは言った。
「そして、どこで使ったかを教えてください」
ハンナは、少し考えた。
「……それ、あたしに何の得があるの」
「ありません」
レンツは言った。
「次の人に、得があります」
彼女は、しばらくレンツを見ていた。
それから、笑った。
「変な男」
彼女は言った。
「いいよ。持ってくる」
今回もお読みいただきありがとうございます✨️
レンツは、剣に名前をつけようとしました。
どこの工房が、いつ、何本目に作ったか。
それだけです。
しかし、ホルスト親方は嫌がりました。
「名前を書くってことは、責めを負うってことだ」
これは、正しい心配です。
そして、多くの現場で実際に起きていることです。
――記録を残せば、証拠になる。
――だから残したくない。
しかしレンツは、逆を言いました。
名前がないと、全部が疑われます。
「うちのものではない」と言っても、証明できません。
だから毎回、揉めます。
そして客が離れます。
――名前を刻むのは、責めを負うためではなく、
責めを切り分けるためです。
そしてもう一つ。
年が分かれば、その年に何があったかを疑えます。
鉄が変わった年。
人が替わった年。
辿れなければ、同じことが繰り返されます。
さて、最後に一人の冒険者が来ました。
彼女は、当たり前のことを言いました。
「三層までなら保つ剣と、四層でも保つ剣、違うでしょ。
同じ値段だったら困る」
使う側は、ずっと知りたかったのです。
ただ、誰も答えられなかっただけでした。
現実では当たり前になっているトレーサビリティ。
いつ、誰が、どこで作ったものなのか。
牛乳にだって書いてあります。
でも、この世界にはそれがない。
その恐怖を、感じてみてください。
そして、現実世界のルールの意味を、再認識してみてくださいね。




